第1話 影を視る少女
人の背に、影が視えることがある。
黒く、ゆらゆらと揺れるそれは、死を告げる影だった。
その影が、今回は視えなかったのに……
「え……弥一さんが、死んだ……?」
入相の鐘の音が、空に響いた直後のことだった。
ちょうど女学校から戻り、戸口にいた朱華は、駆け込んできた使用人とぶつかりそうになった。肩で息をしながら、うわずった声で使用人は告げた。
「に、荷台に積んだ品を点検していたら、突然馬があばれたそうで……その馬の、下敷きになったそうです」
台所で夕餉の支度をしていた女中たちが集まってきた。店に出ていた父も、異変を感じて奥まで戻ってきた。
「なんて急な話だい……あの若さで、まだこれからだっていうのに……」
父の声も、少し震えているようだった。
朱華は立ち尽くしたまま、手に持っていた風呂敷包みを下に落としてしまった。
瞼の裏に、三日前の弥一の姿が浮かび上がった。
いつも通り快活に笑い、最近ようやく責任ある仕事を任せてもらえたと喜んでいた。三つ年上の幼なじみは、いつでも一歩先を歩いていた。朱華ちゃんと呼ぶ優しい声が、今もすぐそこから聞こえてきそうで、朱華はたまらず目を閉じた。
弥一の背には、何も、視えなかった――。
悲しみの中に言いようのない不安が混じり、朱華は手でくぐもった嗚咽をおさえるのが精一杯だった。
冷たい風とともに、篠館の街は紅葉の季節を迎えていた。
冬になると豪雪に閉ざされる北国だが、城を中心に整えられた町割は、今も整然とした面影を残している。
黒塀に囲まれた武家屋敷のそばには、賑やかな商人街の暖簾が連なり、朱華の生家である山城屋もまた、その一角に店を構えていた。
山城屋と弥一の生家である島田酒造は、いずれも藩の御用を担う大店として、長くこの町を支えてきた。祝い事も弔いも、互いに助け合うのが常である。だからこそ、今日の島田酒造に漂う沈黙は、町のどこよりも重かった。
そこには町中の人が集まったのではないかと思うほど、大勢が詰めかけていた。弥一の両親は、一人ひとりに丁寧に頭を下げている。朱華も両親とともに進んだが、なかなか顔を上げられなかった。
「朱華ちゃん」
突然、弥一の母に声をかけられ、朱華はびくっとして視線を上げた。弥一の母は憔悴しきっていた。そんな中でも強くあろうとする瞳が痛々しくて、朱華は正視を避けた。
「来てくれてありがとうね……弥一は、ずっとあんたのことを、かわいい、かわいいって言っておったんよ」
「……そんな……私……本当に、弥一さんにお世話になって……」
自分でも何を言っているのか分からないまま、視線が泳ぐ。垂れた涙のしょっぱさに口元を引き締めても、震える肩はどうしようもなかった。
寝かされた弥一の顔を見ようと思ったけれど、どうしてもできない。
弥一は、よく笑う人だった。笑ったとき、右目の下の泣きぼくろがくしゃっと寄るのだ。自分が何かに悩んでいると、大抵察して、少し照れながらお菓子を買ってきてくれる。思い出の中の弥一はいつも笑顔だったから、なおさら、無言で横たわる彼の顔を見ることができなかった。
挨拶をすませて両親について行くと、広間では弔問客に酒食がふるまわれていた。通夜とはいえ、人であふれているその場の熱気は相当なものだった。
両親は顔見知りと挨拶を交わし、どんどん中へ進んでいく。朱華はその場に取り残されたように、端のほうに立ち尽くしていた。
壁を背にすると、ひんやりとした感触が着物越しに伝わってきて、その場の熱気を少ししのげるような気持ちになった。
ふいに弔問客の話が耳にとまった。
「やっぱり、このままじゃかわいそうだよなぁ……」
「嫁さんと一緒にしてやらなきゃ、あの世でも苦労するからな……」
「島田さんも考えてるとは思うけど、寺にも聞いてみるか?」
朱華は思わず声の方を見た。だが細かいところまでは聞き取れない。誰が話しているのかもわからない。
弥一にお嫁さんがいた?
釈然としないまま、胸の奥がほんの少しざわついた。そんな人がいたら絶対に紹介してくれるはずだが、今まで聞いたことがない。
酒精の混じった空気と人いきれは、朱華の息苦しさをますます募らせた。壁伝いに体を滑らせて、朱華はそっと広間をあとにした。
玄関を出ると、冷たい夜気が頬を打つ。すぐに地面に散った紅葉が目に入った。紅葉の濃い赤色を見ると、なぜか昔から寂しさにとらわれた。弥一のいなくなった今夜は、その寂しさはやりきれない悲しみとなって、地に落ちたようだった。
「朱華、あなたのせいよ!」
突然、甲高い声が夜を裂いた。
はじかれたように顔を上げると、黒い喪服の少女が立っていた。燃えるような大きな瞳が、まっすぐに朱華を射抜いてきた。
「……紗枝?」
「朱華! あなたが……あなたが弥一さんを殺したのよ! あなたのせい!」
胸を突き刺すような言葉に、朱華は思わず一歩あとずさった。
紗枝もまた、朱華の幼なじみだった。家業も同じ呉服商、錦屋の娘で、生年も同じ十七歳である。由緒ある山城屋に比べれば歴史は浅いが、錦屋もまた、斬新な柄の着物や舶来品を多く扱うことで評判の店だった。
「知ってるんだから……あなた視えるんでしょう? あなたが変なものを呼んで、弥一さんを殺したんだわ!」
違う、と反射的に叫びそうになった。けれど声にはならず、口元だけが不自然に歪んだ。その態度が気に入らなかったのか、紗枝がたたみかけるように叫んだ。
「あなた、言ってたじゃない!学校の綾音ちゃん、後ろに黒い影が視えるとか!元気だったのに突然死んだわ!」
「違うわ、私が殺したわけじゃない。影は視えたけど、そういうことじゃない……」
かろうじて絞り出した言葉は、消え入るような声になってしまった。
いつの頃からか、人の背に影が見えるようになった。黒いもやのような影は墨色をしていたが、毎回違ってもいた。薄く、濃く、光を帯びることさえあった。
だがそれが視えた者は、例外なく数日後に死んだ。それが何を意味するのか、理解したのはしばらく後のことだった。
小学校時代、綾音は仲の良い友人だった。でもある日、綾音の背後に薄く黒い影がつきまとっているのに気づいた。思わず指摘した朱華の言葉を綾音は笑って受け流したが、その二日後に彼女は死んだ。
その話は瞬く間に学校中に知れ渡った。昼休み中だったから、綾音との会話を多くの人に聞かれていたのも原因だった。紗枝は元から朱華を敵対視していて、何かと朱華に冷たくあたっていた。当然待ってましたとばかりに盛んに騒ぎ立てた。老舗と新興の家業、その立ち位置も紗枝の言動に関係していたのかもしれない。
紗枝と朱華の周りに、多くの人が集まってきた。
「人殺し……?」
「誰のこと?」
ざわっと人の輪が波立った。ひそひそと交わされる声に、朱華の肌がじわりと熱くなった。
「だから、認めなさいよ!あなたが弥一さんを殺したんだって――」
紗枝は野次馬の熱量に力を得たのか、自信たっぷりの顔でなおも朱華を責め立てようと声を張り上げた。
否定しようと口を開きかけた朱華は、別の声に阻まれた。
「朱華!」
母の声が響いた。騒ぎを聞きつけた母があわてて外に出てきたようだった。
「何をしているの!」
母の声が、怒鳴るというより怯えたように響いた。
「お前はまた、人さまに……迷惑をかけて……!」
頭ごなしに叱りつけると、母は朱華の頭をぐっとおさえつけた。
「申し訳ありません。うちの娘が何か騒ぎをおこしたようで……これで、失礼いたします」
朱華の頭をさらに強くおさえつけると、母はそのまま朱華の手をひいて人の輪を抜け出した。なかば引きずられるようにして、朱華は小走りに歩く。
自分はなにもしていない。なぜ、諍いの責任が自分にあるかのように扱うのか。
滲んだ涙が風を受けて、冷たい水滴のように頬を伝った。夜道に落ちている紅葉の葉を踏みしめる足音だけが、なぜか鮮明に耳に残った。




