IF① 怨嗟の声が今日も聞こえる
本編第4話で、ファウスト殿下が生きていた場合のお話。主人公的にはこれ以上ないぐらいのハッピーエンドです。
白刃は私の首元すぐそこまで迫っていた。勢いをつけて私の首をはねようとする、愛しの殿下。
私を憎しみのまま殺そうとする彼の、なんて美しいことか。
やはり私は、彼が好きなのだ。
「ーーディア?」
想像していた痛みはこなかった。
ファウスト殿下の目に戸惑いの光が揺れる。彼が私の、“私”の、名前を呼んだ。
「殿下……っ!」
私は衝動のままにファウスト殿下に抱きついていた。令嬢の方から殿方に触れる、ましてや抱きつくなんて無作法なこと、本来であれば言語道断だ。だけど今の私は、約1年ぶりに自分自身の体を自由にできる喜びでとても冷静にはいられなかった。
ファウスト殿下は振り上げた剣を腕とともに宙に浮かせたまま、首にかじりつくようにしてきつく抱きつく私を呆然と見ていた。
キン、と音がして殿下の手から滑り落ちた剣が大理石の床を叩く。同時に、強く肩を押されて殿下から体を引き離された。温もりが引き剥がされたことに一瞬悲しくなるも、殿下が泣きそうな顔で私の目を覗き込むからそんな悲しみも一瞬でどこかに吹っ飛んでしまった。
「クローディア……なのか?」
「……はい、ファウスト殿下」
「そう、か」
ファウスト殿下は唇を曲げて笑った。今まで見たこともないぐらい不器用な笑顔だった。笑っているのか泣いていいのか分からないような下手な笑顔。
ああ、だけど。もしもこれが私に都合のいい妄想ではないのだとしたら、その笑顔が安堵であるような気がした。
私が“私”であることにファウスト殿下が喜んでくださっている。それだけで十分だった。“侵略者”と“私”を誰が比べて、誰が“私”を否定しようとも構わない。ファウスト殿下だけが“私”を肯定してくれるのなら、私はそれだけで幸せだ。
「今までの数々のご無礼をお許し下さい、殿下。諸々の事情は後日改めてお話しします。もし……もし、許してくださるのであれば、私をあなたのそばに置いてください……婚約者として」
「……許そう。私こそ、すまなかった。お前が“お前”じゃなくなり、我慢ならなかった。私の方こそ、数々の愚かな行動をした。許してくれるか?」
「もちろんです、殿下」
居住まいを正し、最高礼でお詫びをする私を、殿下は普段より数倍温かな声でお許しくださった。感極まって涙を溢す私の頰を拭う手には、今までずっと欲しくても手に入らなかった慈しみが込められていた。
成り行きを見守っていた観客たちは訳がわからないとでも言いたげにざわめき始める。ファウスト殿下の失脚を密かに望んでいた貴族たちは一層不満げにざわついていた。
喧騒から守るようにファウスト殿下が私を抱きしめてくださる。
ファウスト殿下の胸に収まりながらも、私は2つの音をしっかりと耳に焼き付けていた。
一つは、憎々しげにファウスト殿下を睨みつけながら舌を打った、ローガ殿下の舌打ちの音。
もう一つはーー……
《ど、どういうこと? どうして体が動かないの? だれ、だれなのよこれは! だれが“私”の身体を乗っ取ったのよ……?!》
……ふふ。
* * *
それからの道のりは、決して平坦なものではなかった。
王族を含め複数の貴族子息を拐かした罪としてレティア嬢は処刑されたが、それだけでことが済むわけもなく、当然ファウスト殿下他婚約者を蔑ろにした貴族子息にも罰のお達しがされた。
だがそれでもファウスト殿下の罰は軽かった方だと思う。他の貴族子息が婚約破棄および廃嫡の憂き目に合うのを余所目に、ファウスト殿下は一部の指揮権の剥奪および1ヶ月の謹慎だけで済んだのだ。
本来であれば最も責任の重い殿下の罰が最も軽くなったのはなぜか。その理由の一つに、私の必死の嘆願がある。一番の被害者であった私の嘆願を余所にして重い罰を下すことはできなかったのだろう。さらにファウスト殿下の犯した罪の大半が従犯および親告罪だったことも関係した。
一番の問題はあの場で貴族令嬢、つまり私のことを殺そうとしたことだったが、それに関してはファウスト殿下が陛下と私の両親に深々と陳謝した。
なんの言い訳もせずに頭を下げ続ける殿下に、両親はこれ幸いと婚約破棄を断行しようとしたが、私の方がそれを許さなかった。殿下と引き離されるくらいなら家を出ると言えば両親はそれ以上何も言えなくなった。
ーー本当は、ずっとわかっていたのだ。両親にとって私はただの道具。家を盛り上げるための価値しかない。だから、両親は“侵入者”が私を乗っといていた時も、喜びこそすれ不満一つ漏らさなかった。
ここ数年で両親はローガ殿下派に転向し、何かにつけて私とファウスト殿下の婚約を白紙に戻したがったが、今回も上手くいかないとなると「理解できない」と一言残して沈黙した。
貴族令嬢暗殺未遂の罪は晴れたわけではなかったが、あの場で互いが互いを許し合ったこと、その後も仲睦まじげに寄り添っていることから、少々度の過ぎた夫婦喧嘩としてうやむやになりつつある。
「……殿下、本当によかったのですか? 私が何者かに“取り憑かれていた”と説明すれば、ここまでお立場も悪くなることは……」
結局、“侵入者”のことはファウスト殿下にのみ話すこととなった。
最初に話を聞いたファウスト殿下は重々しげに「そうか」と言うと、「その話、私以外には口外するな」と口止めしたからだ。
「構わない。多くの人間がお前の話を“戯事”と一笑に付すだろう。そうなればまた、それを材料に婚約破棄を持ちかけてくる輩が出る。そっちの方が厄介だ」
「そ、そうですか」
言外に自身の立場と私との婚約を比べて、私の方をとってくれたように感じて、頰を赤らめる。
顔の熱を取るように扇をパタパタと振っていると、ファウスト殿下は私の顎に手を添えて、そっと上を向かせた。
じっと瞳の奥を見つめて、すぐにふっと緊張した顔を緩める。あれ以来何度も繰り返されたその所作に、私は手を伸ばしファウスト殿下の頰を撫でた。
「ふふっ……大丈夫ですよ。“私”です」
「ああ、わかっている。ただ、どうしようもなく不安になってな……」
「殿下……」
あれ以来、殿下は格段に私に優しくなった。優しくなっただけではない、いつでも不安に満ちた目で私を見るようになった。
“侵入者”に乗っ取られていた頃を今でも思い出すという不安に苛まれる殿下が、どうしようもなく愛おしくてたまらない。
今なら、何のためらいもなく言える。殿下は、私を愛してくださっている。
「ーー次に、お前が“お前”でなくなった時は」
……それが、どんな形であれ。
「今度こそ、お前を殺す。その身に蔓延る“寄生虫”ごとお前の身体を焼こう」
ぞくぞくと。背中を歓喜が走っていく。
ああ、この人だけだ。“私”を肯定し、求め、愛してくださるのは。
「はい、殿下。骨まで残さず、焼いてくださいまし」
一片の迷いもなくそう告げると、殿下は暗い光を瞳に灯したまま微笑んだ。“愛”の言葉で安心するのは何も私だけでない、殿下もまた安堵してくださっているのだろう。
殿下は私の額に軽い口づけを落とすと、執務に戻っていった。
私は殿下に言われた言葉を何度も反芻しながら、窓辺に腰掛け、すっかり冷めてしまった紅茶を一口含む。
ーー『その身に蔓延る“寄生虫”ごとお前の身体を焼こう』
ああ、殿下はご存知なのかしら。
まるで牽制のような言葉。そう、私の中にいる“侵入者”への。
「……ふふ」
無音のその先へと、耳をすませる。
そうすれば、微かにだがまだ聞き取ることができた。
《いやああああっ!! 出してっ!! ここから出してっ!! 出してよおおおお!!》
《クソが!! 動けっ!! 動けよっ!! クソが! クソックソッ!!》
《何で、何でこんなの私が望んだ結末じゃない……っ、お願い、助けてローガ殿下……!》
《ひひっ、ひははっ、あひゃひゃひゃっ……あひっ……》
《死ね、死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね、死に晒せこのクソったれ》
《たすけて、おねがい、たすけて、たすけて、》
本当に、お行儀が悪いこと。
まぁでも、私も自身の自由がきかない時はこんな感じだった。暗闇に取り囲まれ、自分の意思とは関係なしに動く身体をひたすら見ていなければいけない。まるでこの身体が牢獄であるかのように感じたものだ。
“侵入者”は“私”の声が聞こえなかったのに対して、“私”は未だ“侵入者”の声を聞き取ることができる。
最初は不思議に思ったものだったが、今は“侵入者”が“私”の声に耳を傾けなかったからだろうと結論づけている。現に、私だってよほど心を静かにして耳を傾けない限り、“侵入者”の声は聞き取れない。
なんでも自分に都合の良い方へと考えたがるのが人間というものだ。
誰も、自らの行いで犠牲になっているものの悲鳴など、聞きたくはないだろう。
だから“侵入者”は無視し続けた。出ていってほしいという私の嘆願を、聞こえないフリをした。
「……ふふふっ」
正直、まだこの身体に“侵入者”がいることに恐怖がないわけではない。いつ乗っ取られるかもわからない状況だ、不安に決まっている。
だけどその不安な気持ちは、ファウスト殿下が打ち消してくれた。私がまた“私”でなくなった時には、ファウスト殿下が気づき、私を殺してくれる。彼の方は、“私”以外の私を決して許さない。
ああ、だから、今はとても心穏やかにこの声を聞いていられる。
私は、息をするだけでこの不届き者に復讐ができるのだ。
「……ほんとう、いい天気ねぇ」
ーーああ、今日も怨嗟の声が心地よい。
ローガ「クローディアどいて! そいつ殺せない!」
……お疲れ様です、ルイです。
1年以上ご無沙汰でしたが、この頃の自粛ムードで家にいることが多くなり、ついつい1日で書き上げてしまいました。
ファウスト殿下生存ルートです。
実はこの話を書き始めた当初は、こっちが本編でした。最初の方やけに「怨嗟」って言葉が多かったのはこのためです。「怨嗟」から始まり「怨嗟」で終わるというのがこの話の元々の構想でした。
ですがまぁ、見ての通り、ちょっとあまりにハッピーエンドすぎるんじゃないかい? ということで、急遽ローガ殿下を主役に変更したのが今の本編です。
ファウスト殿下ルートだと両想いカップルだから、ローガ殿下出る幕ないしね。きっと草葉の陰から呪いの視線をお兄さんに向けてます。
結果的には“侵入者”がキューピッド役になりましたが、そんなことはクローディアは気にしない。思いっきり復讐する気満々です。
これでもかというように人生を謳歌しています。
クローディアは“侵入者”の声が聞こえるので、子供に乗りうつろうものならその子供ごと……。
……とまぁクローディア大勝利というルートでしたが、ローガ殿下とリカルド殿下が薄味すぎるのと、ハッピーエンドすぎるのとで、本編としてはボツにしたルートでした。
次はローガ殿下と子クローディアとの親子合戦を書けたらなぁと思います。
ではでは。