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第2章 没落教師は靴底で笑う

婚約破棄の夜から、まだ一時間も経っていなかった。


 それなのに私はすでに、王都中から見捨てられた気分を味わっていた。


 白響宮の控え廊下は、舞踏会場と違ってひどく寒い。壁に並ぶ銀燭台の火は、飾りのように揺れているだけで、石造りの空気を温める気などなさそうだった。


 遠くから楽団の音が聞こえる。


 婚約披露は潰れた。


 王太子の婚約者は、たった今、隠し子疑惑で断罪された。


 けれど舞踏会そのものは続いている。


 貴族とは実にたくましい生き物だ。人の人生が壊れる音を聞いたあとでも、ワルツの拍子を数えられる。


「大丈夫ですか、お嬢様」


 侍女のマリナが、震える声で私にショールをかけた。


 彼女の手は冷えていた。私の肩より、彼女の指先のほうがずっと不安そうだ。


「ええ。問題ありません」


「ですが、お顔の色が」


「蝋燭の光が悪いのです」


「お嬢様」


「それに、顔色まで悪役令嬢らしく蒼白なら、かえって統一感が出ます」


 マリナは泣きそうな顔で黙り込んだ。


 しまった。


 冗談の切れ味が、今夜は少し鈍い。


 私は息を整えた。


 胸の奥は、さきほどから薄い硝子片で満ちている。動くたびに、内側で細かく鳴る。


 婚約破棄。


 隠し子疑惑。


 夜裾の家。


 エルム。


 ユリウス殿下の、失望した瞳。


 ひとつずつ考えればよい。感情は後回し。泣くなら証拠を揃えてから。怒るなら勝ってから。


 控え廊下の向こうで、近衛兵の声がした。


「お待ちください。ここから先は――」


「はいはい。待っています。足だけは」


 軽い声が返る。


 続いて、磨かれた革靴の音。


 こつん、こつん。


 足音が近づいてくる。


 マリナが身構えた。私も扇を握り直す。


 現れたのは、当然のような顔をしたノエル・アシュレイだった。


 古びた礼服。片耳の銀の耳飾り。王宮の控え廊下に似合わない、人を食った笑み。


 ただし、靴だけは相変わらず美しい。


 今夜の王族たちの宝冠より、よほど誠実に磨かれている。


「リディア様。ご無事で何より」


「あなたの基準では、婚約を破棄され、隠し子疑惑をかけられ、七日後に裁判を控えている状態を無事と呼ぶのですね」


「立っておられますから」


「それは公爵令嬢の嗜みです」


「なるほど。俺の実家にはなかった科目です」


 近衛兵が彼の後ろで困り果てている。


「お嬢様、この方は……」


 マリナが警戒を隠さずに尋ねた。


「不審者です」


「舞踏教師です」


「不法侵入者でもあります」


「情熱的な入場と呼んでください」


「扉を使わなかったのですか」


「扉は使いました。ただ、招待状は使っていません」


 私はこめかみを押さえた。


 この男と話していると、深刻な状況が深刻なままでいられない。そこが救いなのか、腹立たしいのか、まだ判断しかねる。


「それで、ノエル・アシュレイ。何の御用かしら」


「七日で無実を証明する件です」


「できるかどうかは難しいと、先ほどおっしゃいましたね」


「ええ。難しいです」


「帰り道はあちらです」


 私が廊下の出口を扇で示すと、彼はにこにこしたまま一歩も動かなかった。


「難しい仕事ほど報酬が高い」


「雇われる気ですか」


「雇われる気満々です」


「私はあなたを信用しておりません」


「当然です。いきなり信用されたら、俺も自分の人相を疑います」


 どうしてこの男は、自分の怪しさを少しも隠そうとしないのか。


 廊下の冷気が足もとから這い上がってくる。舞踏靴の中で、右足の古傷がかすかに疼いた。


 私は息を吐いた。


「あなたは、なぜ私を助けるのです」


 ノエルの笑みが、ほんの少しだけ薄くなった。


「助けたいからです」


「その答えで納得するほど、私は可憐ではありません」


「では、面白そうだから」


「最低ですね」


「本音を言ったら怒る。嘘を言ったら疑う。お嬢様は難しい」


「私は簡単に扱われるために育てられておりません」


「そこは見れば分かります」


 ノエルは、私の靴へ視線を落とした。


 礼を欠いた視線だった。


 だが、不思議と下品ではない。


 宝石を見る目でも、女を見る目でもない。職人が、刃物の癖を見る目に近い。


「今夜の靴は新品ですね」


「婚約披露のために作らせたものです」


「硬いでしょう」


「少し」


「右の内側が当たっている」


 私は答えなかった。


 マリナが驚いた顔をする。


「どうしてそれを」


「歩幅が左より一寸だけ短い。重心を逃がしている音がしました」


 ノエルはさらりと言った。


「あと、お嬢様は痛みを隠すとき、顎が半分だけ上がります」


「観察が不快なほど細かいですね」


「褒め言葉として履歴書に書いておきます」


「不採用です」


 しかし、彼の観察は正しい。


 右足の内側に、靴擦れができかけている。血が滲むほどではない。だが、床を踏むたびに薄い痛みが走る。


 婚約披露のために誂えた白い舞踏靴。


 もう二度と履かないかもしれない靴。


 そう思った瞬間、胸の中の硝子片がまた鳴った。


 私はすぐに蓋をした。


「ノエル」


「はい」


「七日で証明するには、何が必要ですか」


 彼は指を三本立てた。


「一つ。問題の踵紋が偽物だと示す比較材料。二つ。偽装に使われた方法。三つ。偽装した人間と、その命令者」


「当然ですね」


「そして、もっと大事なのが四つ目」


「三本しか立てていませんでしたが」


「指が足りませんでした」


「あなたの手は片方しかないのですか」


「もう片方は礼儀を持つために空けてあります」


「持っているようには見えません」


 ノエルは楽しそうに笑った。


 その笑い声は、控え廊下の冷たさに少しだけ温度を足した。


「四つ目は、リディア様ご本人の踵紋です。今夜の偽物と、あなたの本物を比べる」


「白響宮には、私の踵紋がいくつも残っているはずです」


「公的な記録は、血譜院が管理している。相手が血譜卿なら、都合のいいものしか出してきません」


「つまり、私に今から踊れと?」


「ええ。歩いて、止まって、回って、怒って、できれば少し笑ってください」


「最後の条件は不要です」


「足は感情で変わりますから」


 感情。


 私はその言葉が好きではない。


 感情は、しばしば人を無作法にする。泣き声、怒鳴り声、震える手。どれも社交界では隠すべきものと教えられてきた。


 だが、ノエルはそれを証拠として扱うらしい。


「場所は?」


「床が鳴るところならどこでも。できれば響晶石の小床があるといい」


「ヴェルクレイン邸の稽古室にあります」


「さすが公爵家。没落貴族の俺とは床材から違う」


「床材以前に、招待状の概念から違います」


 私はマリナへ目を向けた。


「馬車を用意して」


「かしこまりました。ですが、お嬢様……公爵様へご報告は」


 父。


 ヴェルクレイン公爵。


 会場にいたはずだ。


 だが断罪の場で、父は一言も発しなかった。


 娘の潔白を信じたから沈黙したのか。家を守るため、王家の判断を待ったのか。それとも、私自身が何かを隠していたことに気づいたのか。


 考えると喉が硬くなる。


「帰邸後に私から話します」


「はい」


 マリナは深く頭を下げた。


 その時、ノエルがふと廊下の奥を見た。


 私もつられて視線を向ける。


 王宮の小姓が、急ぎ足で近づいてきた。手には封蝋の押された書状。


「リディア・ヴェルクレイン様」


「私です」


「血譜院より、正式な再審通知でございます」


 受け取る。


 封蝋は白。血譜院の紋章。絡み合う二本の枝と、その根元に刻まれた天秤。


 指先に嫌な冷たさが移った。


 私は封を切り、中身を読む。


 再審は七日後。


 場所は白響宮。


 審理対象は、私の不貞、無籍児エルムの血統、王太子婚約の破棄事由。


 そして、最後の一文。


 ――被疑者リディア・ヴェルクレインは、審理終了まで王宮および血譜院の許可なく、無籍児エルムとの接触を禁ずる。


 紙の端が、指の中でわずかに歪んだ。


「なるほど」


 ノエルが横から覗き込む。


「見られる距離にいらっしゃいました?」


「字が大きかったので」


「血譜院の嫌味はたいてい大きく書かれます」


「同感です」


 エルムとの接触禁止。


 証拠とされた少年には会えない。


 つまり、彼がどこから来たのか、何を覚えているのか、私と本当に面識があるのか、直接確かめることができない。


 カシアン卿は、抜かりなく私の足場を削っている。


 ノエルは書状を見つめ、口元から笑みを消した。


「急ぎましょう。相手は七日も待つ気がない」


「どういう意味です」


「七日後に裁く準備ではなく、七日間であなたを諦めさせる準備をしている」


 その言葉は、不思議とよく響いた。


 白響宮の床ではなく、私の胸に。


 馬車はすぐに用意された。


 王宮の正門を出ると、夜風が頬を刺した。外は小雨が降り始めている。石畳が濡れ、街灯の光を細く伸ばしていた。


 馬車の中は狭い。


 本来なら私は一人で乗る。けれど今夜は、向かいにノエルが座っている。


 マリナは御者台のそばに控えた。彼女なりに気を遣ったのかもしれない。


 馬車が揺れるたび、礼服の裾が膝に触れる。香水ではなく、革と雨の匂いがする。


「それで」


 私は腕を組んだ。


「どうして白響宮に入れたのです」


「通用口から」


「なぜ通用口の場所を?」


「昔、母が王宮で踊っていました」


 軽い返事のはずだった。


 だが、その最後の音だけ、わずかに沈んだ。


 私は追及しなかった。


 追及しないことも、礼儀の一種だ。


「あなたの家は、踵紋裁判で爵位を失ったと記憶しています」


「ええ。よくご存じで」


「社交界の失敗談は、家庭教師が熱心に教えてくれます。ああならないように、と」


「最高の教材ですね、アシュレイ家」


「皮肉のつもりでした」


「受け取りました。包装紙はお返しします」


 ノエルは窓の外を見た。


 雨粒が硝子を流れる。街灯の光が、彼の横顔を金色と灰色に分けていた。


「俺の家は、偽の踵紋を本物とされた。それで終わりました」


「偽の?」


「当時は誰も信じなかった。響晶石は嘘をつかない。そう言ってね」


「だから、あなたは今夜、私を助けたのですか」


「半分は」


「残り半分は?」


 ノエルはこちらを見た。


 いつもの軽い笑みが戻る。


「お嬢様の足が、あまりに腹立たしいほど面白かったので」


「足を褒められている気がしないのですが」


「褒めています。あなたの足は、強情で、痛みに鈍く、嘘が下手だ」


「やはり褒めていませんね」


「それに、助けを求めるのが絶望的に下手です」


 私は窓の外へ目を逸らした。


 雨が濃くなっている。


「助けを求める必要がありませんでしたので」


「今までは?」


「これからもです」


「では俺は勝手に手伝います」


「迷惑です」


「よく言われます」


「反省は?」


「靴磨きの時間にまとめてしています」


 どうにも調子が狂う。


 怒るべきなのに、怒りきれない。信じるべきではないのに、完全には退けられない。


 馬車はヴェルクレイン邸へ着いた。


 王都の北区にある公爵邸は、黒い鉄柵と白い石壁に囲まれている。雨に濡れた薔薇の蔓が、門灯の下で暗く光っていた。


 玄関広間には、家令が待っていた。


 父はいない。


 その事実に、予想していたより少しだけ胸が沈む。


「公爵様は?」


「書斎にて、王宮からの使者と面会中でございます」


「そう」


 王宮からの使者。


 早い。


 婚約破棄は、もう家と国の問題になっている。


 娘の涙が入り込む隙間など、どこにもない。


「稽古室を使います。誰も入れないで」


「かしこまりました」


 家令の視線がノエルへ向く。


「こちらの方は」


「臨時の舞踏教師です」


「舞踏教師」


 家令は、ノエルの礼服の古さと靴の美しさを一瞬で見比べた。


 有能な使用人は、表情を変えずに相手を値踏みする。


「承知いたしました」


「承知されました」


 ノエルが小声で言う。


「公爵家の使用人は胆力がありますね」


「あなたを玄関で追い出さなかっただけで、今夜の功績として十分です」


「感謝状を書きます」


「不要です」


 稽古室は東棟の奥にある。


 白響宮ほど広くはないが、床の中央には響晶石の小さな円盤が埋め込まれている。幼い頃から私はここで礼法と舞踏を叩き込まれた。


 壁には大きな鏡。


 燭台には新しい蝋燭。


 床には、昔から染みついた蜜蝋と革の匂い。


 ここは私にとって、泣く場所ではなかった。


 失敗を直す場所だ。


「靴を脱いでください」


 ノエルが言った。


 私は眉を上げた。


「初対面の令嬢に言う台詞としては、かなり大胆ですね」


「舞踏教師としてです」


「あなたが舞踏教師である証拠は?」


「踊れば分かります」


「詐欺師も同じことを言いそうです」


「詐欺師よりは足首に詳しい」


 マリナが私を見た。


 私は小さく頷く。


 彼女は膝をつき、私の靴の留め具を外した。


 白い舞踏靴を脱ぐと、右足の内側が赤くなっていた。布越しでも、ノエルが目を細めるのが分かる。


「痛いでしょう」


「少し」


「少し、という顔ではありません」


「顔に出していないはずですが」


「足に出ています」


 彼は稽古室の隅にあった練習用の黒い靴を持ってきた。


「こちらを」


「それは古い靴です」


「古い靴ほど、本音を知っています」


「靴に人格を与えないでください」


 私は履き替えた。


 古い革が足になじむ。新品の白靴より柔らかく、右足の痛みも少し和らいだ。


 ノエルは響晶石の円盤を指さす。


「そこを歩いてください。まっすぐ」


 私は歩いた。


 ちりん。


 ちりん。


 白響宮より小さな音が鳴る。


 ノエルは床に膝をつき、目を閉じた。


「もう一度。今度は怒って」


「今、かなり怒っています」


「足りません。俺が失礼なことを言ったと考えて」


「考える必要があります?」


「では、自然体で」


 私は彼を睨み、もう一度歩いた。


 ちりん。


 ちりん。


「次は、笑って」


「不可能です」


「俺の顔がとても愉快だと思って」


「不可能です」


「では、王太子殿下の鼻にクリームがついているところを想像して」


 少しだけ足が乱れた。


 ノエルがすかさず指を鳴らす。


「今のです」


「今の何が」


「笑いを殺した足」


「その分類は正式なものですか」


「俺の中では」


「却下します」


 彼は楽しそうに床を叩いた。


「面白い。リディア様の踵紋は、感情が出る場所が決まっている。上半身は完璧に隠すのに、右踵だけ遅れて本音を漏らす」


「迷惑な踵です」


「いい踵です」


「本人の前で足の部位を褒めないでください」


 ノエルは立ち上がり、私の正面へ来た。


「次は踊ります」


「あなたと?」


「嫌そうですね」


「ええ」


「正直で何より」


 彼は手を差し出した。


 私は一瞬ためらった。


 婚約破棄された夜に、見知らぬ舞踏教師と稽古室で踊る。


 貴族令嬢としては落第。


 けれど今夜、私はすでに社交界から落第点を突きつけられている。


 今さら一問間違えたところで、答案は燃えない。


 私は彼の手を取った。


 掌は温かかった。


 意外にも、支え方は丁寧だった。軽い言動に反して、指先には無駄な力がない。


「では、ゆっくり」


 ノエルが踏み出す。


 私は合わせる。


 一歩。


 二歩。


 回転。


 雨音が窓を叩く。蝋燭の火が鏡の中で揺れる。革靴が床を撫で、響晶石が細く歌う。


 彼は上手い。


 それも、王宮の舞踏教師とは違う上手さだ。


 相手を型にはめるのではなく、相手の癖に合わせて呼吸をずらす。私の右踵の遅れを、先に待っている。


 踊りながら、ノエルが小さく言った。


「ほら。あなたは半拍遅れても、美しい」


 息が詰まった。


 その言葉は、褒め言葉としてあまりに不意打ちだった。


「……口説いています?」


「診断しています」


「最低の診断です」


「最高の足です」


「しつこい」


 私は回転の勢いで彼の足を踏みかけた。


 ノエルは笑って避ける。


「危ない。今のは殺意のステップですね」


「分類に追加しておいてください」


 けれど、少しだけ。


 本当に少しだけ、足が軽くなった。


 私は完璧でなければならなかった。


 右踵の半拍の遅れも、痛みも、弱さも、すべて隠すべき欠陥だった。


 だがこの男は、それを証拠だと言う。


 私が私である証だと。


 踊り終えると、ノエルは響晶石の円盤へ耳を寄せた。


 長い沈黙。


 雨音だけが部屋を満たす。


「問題の踵紋とは、やはり違います」


「どこが」


「白響宮に残っていた偽物は、あなたの形だけを真似ている。でも、痛みがない。迷いもない。右踵の謝罪もない」


「謝罪はしていません」


「では反抗」


「それなら認めます」


 ノエルは床を見つめたまま、低く言った。


「かなり訓練された人間です。あなたの歩き方を何度も見て、型だけを写した。でも、古傷までは知らなかった」


「古傷」


 私は右足を見下ろした。


 幼い頃の記憶が、遠くで揺れる。


 雨の日。


 石段。


 小さな手。


 転びかけた誰か。


 痛み。


 血の匂い。


 そして、泣いてはいけないと強く思ったこと。


「リディア様」


 ノエルの声で、記憶が途切れた。


 彼は立ち上がり、私の右足を見ている。


 ふざけた笑みはなかった。


 琥珀色の瞳が、まっすぐにこちらを射抜く。


「その右足、昔、誰かを庇って怪我しましたね?」

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