第1章 白い床が罪を歌う
王太子との婚約披露の夜、公爵令嬢リディアは「隠し子を持つ悪女」として断罪される。証拠は、白響宮の床に刻まれた彼女そっくりの足跡――踵紋。婚約を破棄され、社交界から嘲笑される中、リディアは没落舞踏教師ノエルとともに再審へ挑む。だが偽りの足跡の奥には、名も血筋も奪われた子どもたちと、血譜制度に隠された冷たい真実が眠っていた。
「その子は私の罪ではない。けれど、見捨てていい命でもない」
罪を歌う白い床で、悪役令嬢が名誉と未来を踊り返す、華麗なる断罪逆転ファンタジー。
白い床が、私の罪を歌い出した。
リュセヴェル王国の王宮、白響宮。
その大広間の床は、雪を磨き上げたような響晶石で敷き詰められている。踏めば、かすかに鳴る。硝子の鈴を遠くで鳴らしたような、冷たく澄んだ音。
その音が今夜、私――リディア・ヴェルクレインを裁いていた。
「リディア」
王太子ユリウス殿下が、私の名を呼んだ。
婚約披露の夜だった。
本来ならば、私は今、彼の手を取って一曲目を踊るはずだった。王国中の貴族が見守るなか、舞踏宣誓を踏み、未来の王太子妃として認められるはずだった。
けれど、差し出されるはずの手はない。
彼の隣には、血譜卿カシアン・モルヴェールが立っていた。
黒に近い緑の髪。銀縁眼鏡。白い手袋。
そして、その手袋に引かれている小さな少年。
四歳ほどだろうか。
淡い銀色に見える癖毛。怯えた瞳。片方だけほどけた靴紐。
大広間に並ぶ貴族たちが息を呑んだ。
甘い香水と蝋燭の匂いが、急に重くなる。扇の骨が閉じる音。宝石が衣擦れの中で震える音。誰かが小さく笑った音。
すべてが私の背中へ針のように刺さった。
「この子は、誰ですの」
声は乱れなかった。
私の声は、いつだって乱れない。
乱れたところを見せれば、そこから人は踏み込んでくる。公爵家の令嬢として十八年生きれば、その程度のことは骨まで染みる。
カシアン卿が、穏やかに微笑んだ。
「お答えにならずとも結構です。響晶石が、すでに記録しておりますので」
白い床が淡く光る。
殿下の足もとから、青白い光の線が走った。舞踏会のために磨き上げられた床へ、過去の足跡が浮かび上がる。
ひとつ。
また、ひとつ。
女の足跡だった。
細く、整い、つま先の角度まで正確な貴婦人のステップ。夜会用の靴。長年の教育で叩き込まれた優雅な重心移動。
それは、たしかに私の踵紋に似ていた。
似ていた、というより。
ほとんど私だった。
貴族たちのざわめきが広がる。
「まさか……」
「ヴェルクレイン公爵令嬢が?」
「では、あの子は……」
少年は肩を震わせた。
その震えを見た瞬間、胸の奥が妙に冷えた。
私の疑惑より先に、この子は今、大人たちの視線にさらされている。何かの証拠品のように。罪の形をした置物のように。
カシアン卿が片手を上げると、ざわめきはすっと薄れた。
「三日前の深夜、白響宮の旧礼拝間にて、リディア・ヴェルクレイン嬢は、この子を抱き上げ、舞踏宣誓を踏みました」
「虚偽です」
私は即座に言った。
カシアン卿は微笑みを崩さない。
「では、床が嘘をついたと?」
「床が嘘をつくかどうかは存じません。ですが、人間が床に嘘をつかせることはあるでしょう」
貴族たちの間に、低い驚きが走った。
響晶石の証言を疑う。
それは、この国では神殿の鐘を足蹴にするに等しい。
殿下の眉間に皺が寄る。
「リディア。発言には気をつけろ」
「気をつけております。ですので、まだこの程度で済ませております」
私の内心がもう少し粗野でなければ、舌打ちくらいしていただろう。
婚約披露の夜に、婚約者が見知らぬ子どもを連れてきて、私の隠し子だと言う。
趣味が悪い。
非常に悪い。
招待状の意匠より悪い。
「リディア様」
カシアン卿は、静かな声で続けた。
「この子の名は、エルム。血譜院に登録のない無籍児です。しかし容貌には、貴家の血統と合致する特徴がある。さらに、白響宮の響晶石には、あなたがこの子を“我が子”として認める宣誓を踏んだ踵紋が残っている」
「私は踏んでおりません」
「では、なぜあなたの踵紋がここに?」
「それを調べるのが、裁判というものではなくて?」
私が一歩踏み出すと、床がちりんと鳴った。
その音は、今浮かんでいる踵紋の音とわずかに重なる。
貴族の何人かが顔を見合わせた。
私を恐れている者。憐れんでいる者。喜んでいる者。
それぞれの表情が、扇や仮面や微笑みの下から透けて見える。
社交界とは、ずいぶん親切な場所だ。
人が落ちる瞬間だけは、全員が同じ方向を見てくれる。
「リディア」
殿下の声が重く落ちた。
その声には、怒りだけではないものが混ざっていた。
失望。
焦燥。
そして、何かに怯えるような硬さ。
「君は、なぜ沈黙していた」
「何についてでしょうか」
「無籍児の保護施設に出入りしていたことだ」
空気が変わった。
私は初めて、指先の温度が少し落ちるのを感じた。
知っている。
誰かが知っている。
夜裾の家。
王都の外れにある、小さな保護施設。血譜に登録されず、親も家も曖昧な子どもたちが暮らす場所。
私はそこへ、匿名で薬や布や小麦を送っていた。
王太子妃候補としては、褒められた行為ではない。
血譜院が認めぬ子どもを支援することは、制度への反抗と見なされる。
だから、誰にも言わなかった。
殿下にも。
「沈黙は肯定と同じだぞ」
ユリウス殿下の言葉が、床の冷たさより鋭かった。
私は背筋を伸ばした。
「沈黙が肯定なら、今この場で喋りすぎている方々は、ずいぶん多くの罪を自白していることになりますわ」
誰かが咳き込んだ。
別の誰かが扇で口元を隠した。
カシアン卿の目だけは笑っていない。
「強がりは、お見事です。ですが王国の婚姻に、曖昧な血は許されません」
「曖昧なのは血ではなく、あなた方の論理です」
「リディア」
殿下が一歩前へ出た。
金の肩章が蝋燭の光を受ける。昔、同じ光を私は綺麗だと思ったことがある。
今はただ、重そうだと思った。
「王太子ユリウス・エルレインの名において告げる。リディア・ヴェルクレインとの婚約を、今宵をもって破棄する」
大広間が凍った。
いや。
凍ったのは、きっと一瞬だけ私だった。
胸の中心で、何か薄いものが割れた気がした。
だが、顔には出さない。
泣く予定は、今日の私の予定表にない。
私は右手を胸元へ添え、優雅に膝を折った。
「承りました、殿下」
ざわめきが広がる。
私が取り乱すのを待っていた人々は、少しだけ物足りなさそうだった。申し訳ない。娯楽の提供までは、婚約者としての義務に含まれていない。
「ただし」
私は顔を上げた。
「婚約破棄の理由が、私の不貞と隠し子疑惑であるならば、正式な踵紋裁判を請求いたします」
カシアン卿の眉が、ほんのわずかに動いた。
「この場で証拠は示されました」
「いいえ。示されたのは、証拠らしきものです」
「響晶石を疑うと?」
「疑っているのは人です。石ではございません」
私は白い床を見下ろした。
そこにはまだ、私に似た足跡が浮いている。
完璧なステップ。
模範のような姿勢。
けれど、胸の奥で小さな違和感が疼く。
私なら、そんなふうに踏むだろうか。
いや。
私なら、もっと――。
考えかけたところで、少年と目が合った。
エルム。
その小さな名前を、私はまだ口にしていなかった。
彼はカシアン卿の手袋に指を握られたまま、こちらを見ている。怯えているのに、どこか期待しているようにも見えた。
私を知っている目だった。
なぜ。
「再審までの猶予は?」
「通常であれば、三十日」
カシアン卿が言う。
「ですが王太子の婚姻に関わる重大案件です。七日後、白響宮にて最終審理を行いましょう」
「七日」
短い。
笑ってしまいそうなほど短い。
けれど、笑うなら勝ってからにするべきだ。
「結構です」
「結構、ですか」
「ええ。私を裁きたいなら、最後まで踊っていただきます」
自分の靴音が、白い床に響いた。
ちりん。
その音が、なぜか広間の奥まで届いた。
沈黙。
その沈黙を破ったのは、場違いな拍手だった。
ぱち、ぱち、ぱち。
乾いた音。
招待客たちの視線が、一斉に大広間の入口へ向く。
そこに、見知らぬ青年が立っていた。
くすんだ金髪。古びた礼服。片耳の銀の耳飾り。貴族の夜会にしては少し軽い笑み。
ただ、靴だけは異様に美しかった。
黒い革靴が、蝋燭の灯を吸い込むように磨かれている。
「失礼。あまりに見事な宣戦布告だったもので」
青年はひょいと肩をすくめた。
近衛兵が動きかける。
殿下が目を細めた。
「誰だ」
「ノエル・アシュレイ。舞踏教師を少々」
「招待した覚えはない」
「でしょうね。俺も招待された覚えはありません」
広間の空気が、妙な方向に傾いた。
この男、命が惜しくないのだろうか。
私は横目で彼を見る。
ノエル・アシュレイ。
アシュレイ家。
聞き覚えがある。たしか十年ほど前、踵紋裁判で爵位を失った没落貴族の名だ。
カシアン卿の表情から、微笑みが一枚剥がれた。
「アシュレイ。あなたに発言権はありません」
「ええ、血譜院にはありませんね。ですが、足音にはあります」
ノエルはそう言うと、床へ近づいた。
近衛が止めようとするより早く、彼は問題の踵紋のそばで膝をつく。
白い床に耳を寄せる。
貴族たちがざわめいた。
「何をしている」
殿下の声に、ノエルは片手を上げた。
「静かに。床が機嫌を損ねます」
この場で床の機嫌を心配する人間を、私は初めて見た。
ノエルは目を閉じる。
指先で床を軽く叩く。
こん、と小さな音がした。
次に、彼は自分の靴でそっと一歩踏んだ。
ちりん。
響晶石が答える。
彼の横顔から、軽薄な笑みが消えていた。
そこには、耳を澄ます職人の顔があった。
「……なるほど」
「何がなるほどなのです」
私が問うと、ノエルは顔を上げた。
視線が合う。
彼の瞳は、琥珀に灰を混ぜたような色をしていた。
「失礼ながら、リディア様」
「許していませんが、どうぞ」
「この足跡、あなたに似ています」
「それは今、国中の皆様が楽しそうに確認なさったところです」
「でも、違う」
広間のざわめきが止まった。
カシアン卿の白い手袋が、少年の肩を強く押さえる。
エルムが小さく身を縮めた。
ノエルは床を見下ろしたまま、続ける。
「上手すぎるんです」
「上手すぎる?」
殿下が聞き返す。
「はい。気持ち悪いくらいに整っている。教本の上を人間が歩いたみたいだ。でも踵紋っていうのは、本来もっと汚い。迷い、癖、痛み、感情。そういうものが端に残る」
「リディアの舞踏は完璧だ」
殿下の声は硬い。
ノエルはにこりと笑った。
「完璧に見える人ほど、足には秘密がありますよ、殿下」
彼は立ち上がり、私の前へ歩いてきた。
私は少しだけ顎を上げる。
「私の足に秘密が?」
「あります」
「今すぐその発言を撤回すれば、靴の美しさだけは褒めて差し上げます」
「光栄ですが、撤回はしません。リディア様、あなたは右踵が半拍だけ遅れる」
息が止まった。
古い傷が、急に疼いた気がした。
誰にも知られていないはずの癖。
幼い頃から矯正し、隠し、殺してきた微かな遅れ。
完璧な令嬢になるために、私はそれを誰にも悟らせなかった。
父にも。教師にも。
殿下にも。
「なぜ、それを」
「聞こえますから」
ノエルは軽く自分の耳を叩いた。
「あなたの足音は、右だけほんの少し謝るんです。すみません、遅れましたって」
「私の右足は、そんなに礼儀正しくありません」
「では不器用なんでしょう。持ち主に似て」
この男を雇うことがあれば、まず礼儀から叩き直す。
そう決めた。
だが、今は。
「問題の踵紋には、その遅れがないのですね」
「ええ」
ノエルは踵紋へ振り返った。
「この足跡は、リディア様に似ています。でも、リディア様ではない。少なくとも、俺の耳はそう言っている」
カシアン卿が低く笑った。
「舞踏教師の耳ひとつで、血譜院の記録を覆すおつもりですか」
「いいえ。耳ひとつでは足りません」
ノエルは私を見る。
その目は、先ほどよりずっと真剣だった。
「だから七日で集めましょう。床がまだ飲み込んでいない音を、全部」
私は、彼を信じていない。
突然現れた没落貴族の舞踏教師など、怪しさを礼服で包んだようなものだ。
けれど。
白い床に刻まれた偽物の私。
怯えた少年。
殿下の失望。
カシアン卿の冷えた微笑み。
そのすべてに囲まれたこの場で、初めて私の足音を聞いた人間がいた。
私は一歩、彼の隣へ進んだ。
床が鳴る。
ちりん。
右踵が、ほんの半拍遅れて。
「ノエル・アシュレイ」
「はい」
「七日で私の無実を証明できますか」
「できるかどうかで言えば、かなり難しいですね」
殴ってよろしいだろうか。
そんな私の内心を読んだように、彼は笑った。
「でも、踊る価値はあります」
私は扇を閉じた。
ぱちん、と音がした。
「ならば、踊りましょう」
白響宮の床が、再び淡く光る。
私に似た足跡が、まだそこに残っている。
美しく、正しく、完璧な偽物。
ノエルはそれを見下ろし、静かに言った。
「この足跡、リディア様に似ています。でも、リディア様よりずっと嘘が上手い」




