表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
1/2

第1章 白い床が罪を歌う

王太子との婚約披露の夜、公爵令嬢リディアは「隠し子を持つ悪女」として断罪される。証拠は、白響宮の床に刻まれた彼女そっくりの足跡――踵紋。婚約を破棄され、社交界から嘲笑される中、リディアは没落舞踏教師ノエルとともに再審へ挑む。だが偽りの足跡の奥には、名も血筋も奪われた子どもたちと、血譜制度に隠された冷たい真実が眠っていた。


「その子は私の罪ではない。けれど、見捨てていい命でもない」


罪を歌う白い床で、悪役令嬢が名誉と未来を踊り返す、華麗なる断罪逆転ファンタジー。

白い床が、私の罪を歌い出した。


 リュセヴェル王国の王宮、白響宮。


 その大広間の床は、雪を磨き上げたような響晶石で敷き詰められている。踏めば、かすかに鳴る。硝子の鈴を遠くで鳴らしたような、冷たく澄んだ音。


 その音が今夜、私――リディア・ヴェルクレインを裁いていた。


「リディア」


 王太子ユリウス殿下が、私の名を呼んだ。


 婚約披露の夜だった。


 本来ならば、私は今、彼の手を取って一曲目を踊るはずだった。王国中の貴族が見守るなか、舞踏宣誓を踏み、未来の王太子妃として認められるはずだった。


 けれど、差し出されるはずの手はない。


 彼の隣には、血譜卿カシアン・モルヴェールが立っていた。


 黒に近い緑の髪。銀縁眼鏡。白い手袋。


 そして、その手袋に引かれている小さな少年。


 四歳ほどだろうか。


 淡い銀色に見える癖毛。怯えた瞳。片方だけほどけた靴紐。


 大広間に並ぶ貴族たちが息を呑んだ。


 甘い香水と蝋燭の匂いが、急に重くなる。扇の骨が閉じる音。宝石が衣擦れの中で震える音。誰かが小さく笑った音。


 すべてが私の背中へ針のように刺さった。


「この子は、誰ですの」


 声は乱れなかった。


 私の声は、いつだって乱れない。


 乱れたところを見せれば、そこから人は踏み込んでくる。公爵家の令嬢として十八年生きれば、その程度のことは骨まで染みる。


 カシアン卿が、穏やかに微笑んだ。


「お答えにならずとも結構です。響晶石が、すでに記録しておりますので」


 白い床が淡く光る。


 殿下の足もとから、青白い光の線が走った。舞踏会のために磨き上げられた床へ、過去の足跡が浮かび上がる。


 ひとつ。


 また、ひとつ。


 女の足跡だった。


 細く、整い、つま先の角度まで正確な貴婦人のステップ。夜会用の靴。長年の教育で叩き込まれた優雅な重心移動。


 それは、たしかに私の踵紋に似ていた。


 似ていた、というより。


 ほとんど私だった。


 貴族たちのざわめきが広がる。


「まさか……」


「ヴェルクレイン公爵令嬢が?」


「では、あの子は……」


 少年は肩を震わせた。


 その震えを見た瞬間、胸の奥が妙に冷えた。


 私の疑惑より先に、この子は今、大人たちの視線にさらされている。何かの証拠品のように。罪の形をした置物のように。


 カシアン卿が片手を上げると、ざわめきはすっと薄れた。


「三日前の深夜、白響宮の旧礼拝間にて、リディア・ヴェルクレイン嬢は、この子を抱き上げ、舞踏宣誓を踏みました」


「虚偽です」


 私は即座に言った。


 カシアン卿は微笑みを崩さない。


「では、床が嘘をついたと?」


「床が嘘をつくかどうかは存じません。ですが、人間が床に嘘をつかせることはあるでしょう」


 貴族たちの間に、低い驚きが走った。


 響晶石の証言を疑う。


 それは、この国では神殿の鐘を足蹴にするに等しい。


 殿下の眉間に皺が寄る。


「リディア。発言には気をつけろ」


「気をつけております。ですので、まだこの程度で済ませております」


 私の内心がもう少し粗野でなければ、舌打ちくらいしていただろう。


 婚約披露の夜に、婚約者が見知らぬ子どもを連れてきて、私の隠し子だと言う。


 趣味が悪い。


 非常に悪い。


 招待状の意匠より悪い。


「リディア様」


 カシアン卿は、静かな声で続けた。


「この子の名は、エルム。血譜院に登録のない無籍児です。しかし容貌には、貴家の血統と合致する特徴がある。さらに、白響宮の響晶石には、あなたがこの子を“我が子”として認める宣誓を踏んだ踵紋が残っている」


「私は踏んでおりません」


「では、なぜあなたの踵紋がここに?」


「それを調べるのが、裁判というものではなくて?」


 私が一歩踏み出すと、床がちりんと鳴った。


 その音は、今浮かんでいる踵紋の音とわずかに重なる。


 貴族の何人かが顔を見合わせた。


 私を恐れている者。憐れんでいる者。喜んでいる者。


 それぞれの表情が、扇や仮面や微笑みの下から透けて見える。


 社交界とは、ずいぶん親切な場所だ。


 人が落ちる瞬間だけは、全員が同じ方向を見てくれる。


「リディア」


 殿下の声が重く落ちた。


 その声には、怒りだけではないものが混ざっていた。


 失望。


 焦燥。


 そして、何かに怯えるような硬さ。


「君は、なぜ沈黙していた」


「何についてでしょうか」


「無籍児の保護施設に出入りしていたことだ」


 空気が変わった。


 私は初めて、指先の温度が少し落ちるのを感じた。


 知っている。


 誰かが知っている。


 夜裾の家。


 王都の外れにある、小さな保護施設。血譜に登録されず、親も家も曖昧な子どもたちが暮らす場所。


 私はそこへ、匿名で薬や布や小麦を送っていた。


 王太子妃候補としては、褒められた行為ではない。


 血譜院が認めぬ子どもを支援することは、制度への反抗と見なされる。


 だから、誰にも言わなかった。


 殿下にも。


「沈黙は肯定と同じだぞ」


 ユリウス殿下の言葉が、床の冷たさより鋭かった。


 私は背筋を伸ばした。


「沈黙が肯定なら、今この場で喋りすぎている方々は、ずいぶん多くの罪を自白していることになりますわ」


 誰かが咳き込んだ。


 別の誰かが扇で口元を隠した。


 カシアン卿の目だけは笑っていない。


「強がりは、お見事です。ですが王国の婚姻に、曖昧な血は許されません」


「曖昧なのは血ではなく、あなた方の論理です」


「リディア」


 殿下が一歩前へ出た。


 金の肩章が蝋燭の光を受ける。昔、同じ光を私は綺麗だと思ったことがある。


 今はただ、重そうだと思った。


「王太子ユリウス・エルレインの名において告げる。リディア・ヴェルクレインとの婚約を、今宵をもって破棄する」


 大広間が凍った。


 いや。


 凍ったのは、きっと一瞬だけ私だった。


 胸の中心で、何か薄いものが割れた気がした。


 だが、顔には出さない。


 泣く予定は、今日の私の予定表にない。


 私は右手を胸元へ添え、優雅に膝を折った。


「承りました、殿下」


 ざわめきが広がる。


 私が取り乱すのを待っていた人々は、少しだけ物足りなさそうだった。申し訳ない。娯楽の提供までは、婚約者としての義務に含まれていない。


「ただし」


 私は顔を上げた。


「婚約破棄の理由が、私の不貞と隠し子疑惑であるならば、正式な踵紋裁判を請求いたします」


 カシアン卿の眉が、ほんのわずかに動いた。


「この場で証拠は示されました」


「いいえ。示されたのは、証拠らしきものです」


「響晶石を疑うと?」


「疑っているのは人です。石ではございません」


 私は白い床を見下ろした。


 そこにはまだ、私に似た足跡が浮いている。


 完璧なステップ。


 模範のような姿勢。


 けれど、胸の奥で小さな違和感が疼く。


 私なら、そんなふうに踏むだろうか。


 いや。


 私なら、もっと――。


 考えかけたところで、少年と目が合った。


 エルム。


 その小さな名前を、私はまだ口にしていなかった。


 彼はカシアン卿の手袋に指を握られたまま、こちらを見ている。怯えているのに、どこか期待しているようにも見えた。


 私を知っている目だった。


 なぜ。


「再審までの猶予は?」


「通常であれば、三十日」


 カシアン卿が言う。


「ですが王太子の婚姻に関わる重大案件です。七日後、白響宮にて最終審理を行いましょう」


「七日」


 短い。


 笑ってしまいそうなほど短い。


 けれど、笑うなら勝ってからにするべきだ。


「結構です」


「結構、ですか」


「ええ。私を裁きたいなら、最後まで踊っていただきます」


 自分の靴音が、白い床に響いた。


 ちりん。


 その音が、なぜか広間の奥まで届いた。


 沈黙。


 その沈黙を破ったのは、場違いな拍手だった。


 ぱち、ぱち、ぱち。


 乾いた音。


 招待客たちの視線が、一斉に大広間の入口へ向く。


 そこに、見知らぬ青年が立っていた。


 くすんだ金髪。古びた礼服。片耳の銀の耳飾り。貴族の夜会にしては少し軽い笑み。


 ただ、靴だけは異様に美しかった。


 黒い革靴が、蝋燭の灯を吸い込むように磨かれている。


「失礼。あまりに見事な宣戦布告だったもので」


 青年はひょいと肩をすくめた。


 近衛兵が動きかける。


 殿下が目を細めた。


「誰だ」


「ノエル・アシュレイ。舞踏教師を少々」


「招待した覚えはない」


「でしょうね。俺も招待された覚えはありません」


 広間の空気が、妙な方向に傾いた。


 この男、命が惜しくないのだろうか。


 私は横目で彼を見る。


 ノエル・アシュレイ。


 アシュレイ家。


 聞き覚えがある。たしか十年ほど前、踵紋裁判で爵位を失った没落貴族の名だ。


 カシアン卿の表情から、微笑みが一枚剥がれた。


「アシュレイ。あなたに発言権はありません」


「ええ、血譜院にはありませんね。ですが、足音にはあります」


 ノエルはそう言うと、床へ近づいた。


 近衛が止めようとするより早く、彼は問題の踵紋のそばで膝をつく。


 白い床に耳を寄せる。


 貴族たちがざわめいた。


「何をしている」


 殿下の声に、ノエルは片手を上げた。


「静かに。床が機嫌を損ねます」


 この場で床の機嫌を心配する人間を、私は初めて見た。


 ノエルは目を閉じる。


 指先で床を軽く叩く。


 こん、と小さな音がした。


 次に、彼は自分の靴でそっと一歩踏んだ。


 ちりん。


 響晶石が答える。


 彼の横顔から、軽薄な笑みが消えていた。


 そこには、耳を澄ます職人の顔があった。


「……なるほど」


「何がなるほどなのです」


 私が問うと、ノエルは顔を上げた。


 視線が合う。


 彼の瞳は、琥珀に灰を混ぜたような色をしていた。


「失礼ながら、リディア様」


「許していませんが、どうぞ」


「この足跡、あなたに似ています」


「それは今、国中の皆様が楽しそうに確認なさったところです」


「でも、違う」


 広間のざわめきが止まった。


 カシアン卿の白い手袋が、少年の肩を強く押さえる。


 エルムが小さく身を縮めた。


 ノエルは床を見下ろしたまま、続ける。


「上手すぎるんです」


「上手すぎる?」


 殿下が聞き返す。


「はい。気持ち悪いくらいに整っている。教本の上を人間が歩いたみたいだ。でも踵紋っていうのは、本来もっと汚い。迷い、癖、痛み、感情。そういうものが端に残る」


「リディアの舞踏は完璧だ」


 殿下の声は硬い。


 ノエルはにこりと笑った。


「完璧に見える人ほど、足には秘密がありますよ、殿下」


 彼は立ち上がり、私の前へ歩いてきた。


 私は少しだけ顎を上げる。


「私の足に秘密が?」


「あります」


「今すぐその発言を撤回すれば、靴の美しさだけは褒めて差し上げます」


「光栄ですが、撤回はしません。リディア様、あなたは右踵が半拍だけ遅れる」


 息が止まった。


 古い傷が、急に疼いた気がした。


 誰にも知られていないはずの癖。


 幼い頃から矯正し、隠し、殺してきた微かな遅れ。


 完璧な令嬢になるために、私はそれを誰にも悟らせなかった。


 父にも。教師にも。


 殿下にも。


「なぜ、それを」


「聞こえますから」


 ノエルは軽く自分の耳を叩いた。


「あなたの足音は、右だけほんの少し謝るんです。すみません、遅れましたって」


「私の右足は、そんなに礼儀正しくありません」


「では不器用なんでしょう。持ち主に似て」


 この男を雇うことがあれば、まず礼儀から叩き直す。


 そう決めた。


 だが、今は。


「問題の踵紋には、その遅れがないのですね」


「ええ」


 ノエルは踵紋へ振り返った。


「この足跡は、リディア様に似ています。でも、リディア様ではない。少なくとも、俺の耳はそう言っている」


 カシアン卿が低く笑った。


「舞踏教師の耳ひとつで、血譜院の記録を覆すおつもりですか」


「いいえ。耳ひとつでは足りません」


 ノエルは私を見る。


 その目は、先ほどよりずっと真剣だった。


「だから七日で集めましょう。床がまだ飲み込んでいない音を、全部」


 私は、彼を信じていない。


 突然現れた没落貴族の舞踏教師など、怪しさを礼服で包んだようなものだ。


 けれど。


 白い床に刻まれた偽物の私。


 怯えた少年。


 殿下の失望。


 カシアン卿の冷えた微笑み。


 そのすべてに囲まれたこの場で、初めて私の足音を聞いた人間がいた。


 私は一歩、彼の隣へ進んだ。


 床が鳴る。


 ちりん。


 右踵が、ほんの半拍遅れて。


「ノエル・アシュレイ」


「はい」


「七日で私の無実を証明できますか」


「できるかどうかで言えば、かなり難しいですね」


 殴ってよろしいだろうか。


 そんな私の内心を読んだように、彼は笑った。


「でも、踊る価値はあります」


 私は扇を閉じた。


 ぱちん、と音がした。


「ならば、踊りましょう」


 白響宮の床が、再び淡く光る。


 私に似た足跡が、まだそこに残っている。


 美しく、正しく、完璧な偽物。


 ノエルはそれを見下ろし、静かに言った。


「この足跡、リディア様に似ています。でも、リディア様よりずっと嘘が上手い」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ