残響
笑い声は、もう聞こえていない。
それでも、消えない。
検査室を出てから、ずっとだ。
廊下は静かで、さっきまでのざわめきもない。
それなのに、耳の奥だけが騒がしい。
――あの時と、同じだ。
足がわずかに止まる。
思い出そうとすれば、できる。
けれど。
やめる。
形にすれば、それは「過去」になる。
過去になれば、終わったものとして扱わなければならない。
それは、違う気がした。
まだ、終わっていない。
「また会ったな」
声をかけられる。
振り返ると、あの男だった。
端末を片手に、変わらない表情で立っている。
「再検査、どうだった?」
答える前に、少しだけ間が空く。
「同じだった」
短く返す。
男は、わずかに眉を動かした。
「ゼロのまま?」
「……ああ」
「珍しいな」
それだけ言って、小さく笑う。
その音が、また引っかかる。
同じはずなのに、違う。
「別に、困ってないならいいんじゃないか」
男は続ける。
「数値なんて、ただの指標だしな」
そう言いながら、自分の端末を軽く振る。
整った数値。
ブレのない波形。
それが“普通”だということを、改めて突きつけられる。
「……そうだな」
同意する。
反射的に。
考えるより先に。
「でもさ」
男が少しだけ声を落とす。
「さっきの反応、本当に無意識か?」
視線が合う。
逃げるタイミングを、少しだけ逃す。
「笑い声のとき」
また、その話か。
「普通だろ」
言葉が、わずかに硬くなる。
「誰だって気になる」
「そうか?」
男は首を傾げる。
「俺は、別に」
言葉が、続かない。
代わりに、音が蘇る。
――あの時も、そうだった。
笑っていた。
二人で。
何かを話しながら。
その途中で、こっちを見た。
それだけだった。
それだけなのに。
足元が、少しだけ揺れる。
「……大丈夫か」
現実に引き戻される。
「問題ない」
即答する。
間を空けない。
考えさせない。
それが一番、安全だ。
「そういう顔、してるな」
男が言う。
「どういう意味だ」
「平気なふりが上手い顔」
一瞬、言葉が止まる。
否定するより先に、納得しかけた。
「……別に」
それだけ返す。
それ以上は、続かない。
「まあ、いいけど」
男は肩をすくめる。
「無理に合わせる必要もないだろ」
合わせる。
その言葉が、少しだけ重く落ちる。
無理、ではない。
自然にやっている。
気づいたときには、もうそうなっている。
「笑われるくらいなら」
気づけば、口に出ていた。
男が、わずかに反応する。
「最初から、合わせておいた方が楽だ」
言い切る。
それが、自分の中では一番整合性の取れる答えだった。
男は少しだけ黙った。
何かを考えるように。
「……それで、ズレたのかもな」
静かに言う。
否定も、肯定もしない声だった。
廊下の奥で、誰かが笑った。
今度は、遠い。
けれど。
確かに響く。
「再評価の対象になるらしい」
男が端末を見ながら言う。
「お前のデータ」
「再評価?」
「システム側で解析するってさ。例外処理」
例外。
その言葉が、妙にしっくりくる。
普通から外れたもの。
処理しきれないもの。
「……そうか」
それだけ返す。
廊下の先は、変わらず白い。
どこまで行っても、同じ色だ。
笑い声は、もう聞こえない。
それでも。
頭の奥で、まだ続いている。
終わらないまま。




