正常値
適合率がゼロの人間を、見たことがあるだろうか。
少なくとも俺は、なかった。
「それでは、感情適性テストを開始します」
白い部屋に、無機質な声が落ちる。
頭部に固定された電極が、わずかに軋んだ。
正面のモニターには、自分の脳波が数値として並んでいる。
ストレス値、対人応答、感情安定性――すべてがリアルタイムで更新されていた。
「被験者、リラックスしてください」
言われるまでもない。
そういう顔を作るのは、もう慣れている。
そのときだった。
背後で、誰かが笑った。
小さな声。ほんの一瞬。
それだけで、喉の奥がわずかに詰まる。
――まずい。
思考より先に、口角が上がる。
反射だった。誰も見ていないはずなのに。
「軽度のストレス反応を検知」
淡々と告げる機械の声。
モニターの数値が、わずかに揺れる。
問題ない。まだ誤差の範囲だ。
そう自分に言い聞かせる。
もう一度、笑い声がした。
今度は、はっきりと。
耳の奥に残る、あの感覚。
思い出そうとすれば、できる。
けれど、そこで思考を止める。
あれに形を与えると、面倒なことになる。
「次の質問です」
モニターに文字が浮かび上がる。
――あなたは、他者と関わることを好みますか?
選択肢は二つ。
はい。
いいえ。
迷う必要はない。
正解は、決まっている。
指先で「はい」に触れる。
その瞬間、背後で笑い声が弾けた。
今度は、はっきりと自分に向けられた音だった。
胸の奥が、わずかに軋む。
呼吸が浅くなる。
――ああ、そうか。
理由なんて、忘れていいと思っていた。
でも。
体は、ずっと覚えている。
「回答を受理しました」
モニターの数値が、一瞬だけ大きく跳ねた。
ストレス値が上昇し、対人応答が乱れる。
そして。
他のすべてを押しのけるように、ひとつの数値が更新される。
《適合率:0》
部屋が、静かになる。
さっきまで聞こえていたはずの笑い声も、消えていた。
それなのに。
頭の中だけで、まだ響いている。




