お仕事は整理整頓から
恐ろしいと噂の医薬院長白蓮様とは一体どんなお方なのか?
雪と仕事を代わった澪は、白蓮様の執務室に向かいます。
翌朝の四時半。
私は身支度を済ませると仕事道具一式を持って、雪と交換した持ち場に向かった。
本当は医局の他の部屋のお掃除係の子たちと一緒に行けばいいんだけど、雪との入れ替わりが知られると色々と厄介なので、一人早めに準備をする。
下女の朝はとにかく早い。
城に勤める役人たちは八時過ぎから仕事を始めるので、それまでには一通りの掃除を済ませておかなければならないからだ。
こちらの世界には時計はない。定時に鳴らされる鐘の音と太陽の傾き具合で大体の時間を知るだけだ。
デジタルの分刻み生活に慣れていた私にはその大雑把さが驚きだったのだけれど、これが生活してみると意外と不便はないし快適だった。それでもお城の生活は農村に比べると慌ただしいと、農村出身の娘はよく嘆いているけどね。
王城は大きく二つの領域から構成されている。
王城の構成を説明するには、まずこの国の統治について説明が必要だ。
この国、天虹国は「至王五師十院制」という制度で統治されている。
王政の元に、五人の老師という宰相や大臣のようなとても偉い人がおり、王と五老師の対話によって大まかな方針が決められる。そして決められた方針を、機能ごとに十個に分けられた「院」という省庁のような部署が遂行するのである。
王城はこの各院が執務を行う前宮と、王族の住まう奥宮の大きく二つに分かれている。そしてほとんどの場合、執務を行う各院長室は前宮に置かれていた。
しかし件の白蓮様の執務室がある医薬院は前宮と奥宮の境目にある。多分、城のどこで怪我人や急病人が発生しても駆けつけやすいように城全体の中心に近い位置に置かれてるのだろう。
その代わり前宮の端の端の最末端に位置する私たち下女の寮からは、移動するだけでも大変な距離だ。
当然、城は王族の生活圏である奥宮に近づくほど警備が厳しくなる。私は医薬院にたどり着くまでに三回、警備兵の誰何を受けることになった。
一回目の時は持ち場の交代がバレるのではと緊張したけど、私が医薬院長室の掃除に向かうと知ると、どの兵士も途端に親身になり励ましの言葉までくれた。
最後の誰何を終えた私は、見送る兵士たちの視線に励まされながら、掃除道具を抱えて一人とぼどぼと前宮と奥宮の間にある中庭を歩く。
色々な意味で早めに寮を出発してきてよかった。
真っ暗だった空も白み始めて朝らしくなって来た頃、ようやくいかにも病院らしい白い建物群のある一角に辿り着いた。私は建物の裏側に回って通用口に向かうと、入り口に立っていた警備兵に用件を告げる。
「医薬院長室の担当ははじめてか?」
警備兵はなんとも言えない眼差して、私を上から下までじろりと見た。
「はい」
「他の部屋の係は一緒じゃないのか?」
「すぐに来ると思うのですが、その……医薬院長室は早めに行ったほうがいいと言われて……」
少しヒヤッとしたけれど、用意していたそれらしい言い訳に納得してくれたようだ。警備兵は小さなため息をついて踵を返した。
「ついて来い」
建物内をぐるぐると回って辿り着いたのは三階にある扉の前。飾り気のない大きくて分厚い扉は、前に立つだけで気後れするような威厳を漂わせている。
警備兵は閉ざしたままの扉の前に立ち、淡々と説明をはじめた。
「この扉を開けた先にある大きな部屋が医薬院長室だ。部屋の中にはさらに三つ扉がある。向かって右側の手前にある扉は厨に、奥の扉は資料室につながっている。左側の扉の先にはさらに二つ扉があって、小さい方の扉は侍従の控室、その奥の大きな扉は院長の私室だ。掃除するのは院長の私室以外全て。資料室は院長の指示に従え」
私はこくりと無言と頷いた。
「……いいか、院長の私室は立ち入り厳禁だ。破ればどうなるか……保証はできない」
警備兵は何を思い出したのか青い顔をする。
「それと、部屋の中では何を見ても驚くなよ。いいか、俺たちに相談されても困るからな!」
言うことだけ言い切ると、私の返事を待たずに警護兵は身を翻してさっさと持ち場に戻って行った。私は一人ぽつんと扉の前に取り残される。
まだ朝の五時前。ようやく日が差しはじめたとはいえ、ちちちっと数羽の鳥が鳴く声のみの静まり返った建物。ごくりと唾を飲み込む音も響きそうな静寂。
警護兵の去り際に何かとんでもない警告を聞いたような気がするが、ここまで来たらもう腹を括るしかないか。
少し高い位置にある取手に手をかけ、力を込めて手前に引いた。扉は思ったよりも軽く、よく手入れされた蝶番は小さな軋みも立てずに大きな扉を動かす。
中には誰も居ないと知りつつも、私は深く頭を下げ念のため朝の挨拶を告げた。
「……おはようございます。朝の清掃に参りました」
顔を上げて、一歩踏み出そうとしたところで固まった。
そのまま数秒。
私は慌てて飛び退くと急いで扉を閉めた。
な、なんだこれ!!?
二、三度深呼吸して息を整える。それでも跳ね上がった心拍はばくばくとしてなかなか落ち着かない。今度はもっと慎重に扉を開け、隙間から中を覗き込む。
「な、なんだこれ……」
思わず、思っていたことがそのまま口をついてでてしまう。
だって、医薬院長室だと聞いていた扉の向こうの部屋は、紙! 紙! 紙! の紙の山!! 覚書、報告書、手紙、巻物、木簡、竹簡、地図、何かの表、あらゆる種類の資料が雪でも降ったかのように部屋中に積もっている。
ある部分は地層のように重なり、ある部分はやりかけのジェンガのように堆く、特に執務机と思しき小山の周辺が酷いことになっている。
この惨状はまさか泥棒か間諜にでも入られた!?
私みたいな何処の馬の骨とも分からないような小娘を、あんな簡単な誰何でホイホイ通すような警備、ヤバイと思ってたのよね!
さっきの警護兵を呼びに行こうと踏み出すが、たたらを踏んで思い止まった。
待て待て、ストップ! もしかして、これって……。
気になることがあり、改めて部屋の中を見回す。落ち着いてよく見れば、机の椅子や長椅子の端にようやく人一人が座れるほどの空間が空いていた。さらに見回せば、床にはギリギリ机にたどり着ける程度の細い獣道の様な隙間もある。
なるほど。
私は腕を組むと目を閉じて何やら一人でうんうんと納得してしまった。
扉の前で靴を脱ぎ慎重に部屋に滑り込む。
書類を踏んでも汚さないためだ。
すぐ後ろでぱたりと扉が閉まった。持ってきた道具を壁際にそっと置くと、散らかった書類の隙間を縫って部屋の中をぐるぐると見て回る。
「なるほど、これは厄介ね……」
再び心の声が漏れる。
近くに落ちていた書類を幾つか拾い上げてざっと内容を見て確信する。
この部屋の書類はぶちまけられているのではない。
これらの書類はこの部屋の主の独自の法則に乗っ取って、きちんと整理されているのだ。
ただし、整理の手法と規則が独特で、さらにこの部屋の主人の場合は桁違いに書類の量が多いため、結果、ぶちまけられているようにしか見えないのだけれど……。
まあこの感じだと、手が回りきらなくてただ積み上げられただけの書類も多そうだ。私は長椅子の周辺を睨む。
これらの書類が整理されていると私が分かったのは、こういう惨状に遭遇するのがはじめてではないかったからだ。
前の世界でお世話になった、昔の上司がこういう整理をするタイプの人だった。
サラリーマンなのに学者肌で少し頑固なこだわりの強いタイプの人だったけど、いつ聞いても打てば響くような答えの返ってくる切れ者として有名だった。机の上は酷いのに、頭の中の情報はものすごく整理されているのだ。
私は急いで掃除する他の部屋も見回る。しかし書類がここまで散乱しているのは最初の部屋だけだった。
奥の資料室も覗いたけれど、そちらは意外にも綺麗に整理整頓されていた。部屋の主のルールを把握した別の管理者がいるに違いない。給湯室も侍従の控え室もむしろ綺麗に使われている方だった。
うーん、これは確かに下女泣かせね。私は再び腕を組んで唸る。
この部屋は掃除してもしなくても怒られるという地雷案件なのだろう。
この部屋を片付けるためには、まずこの一見散らばった書類をどかさなければならない。だけど適当に移動させると整理のルールが混乱し、部屋の主人を激怒させることになる。しかし書類をどかさなければ部屋が掃除できず、それはそれで怒りを買う。つまりどちらにせよ怒られるのだ。
私は方策を立てるべく、足元の書類に集中しながら部屋の中をもう一度歩き回った。
と、その時……。
「……今、何時だ」
突然、後ろから声がして私は飛び上がった。
急いで振り向くが相手の姿は見えない。
まだ薄暗い部屋の中、少し掠れた低い声。
一瞬で恐怖と緊張が高まり私の背中をたらりと冷や汗が流れ落ちた。
澪は白蓮様とニアミス!するも、まだ声のみのご登場でした(笑)
次はもう少し、白蓮様のご様子が明らかになります。
そして澪は、どんどん白蓮様のペースに巻き込まれていくのでした。






