想う人-2
夕方近くになって、喜和子が下階から大きな声で琥珀を呼んだ。
「ごめんなさい急用が入っちゃって。靖彦くんに着替え持って行ってくれる? 二時のバスもうすぐなの、急いじゃって。帰りはボグちゃんに病院に迎えに行ってもらうから」
その甲高い一声で、琥珀は怠い思考回路から引っ張り出された。そうして病院にすっ飛んできた。ボグダンはちょうど何かの用事で外出中だったらしい。
病院前のバス停を降り、正面玄関の大きな自動ドアをくぐった。
病院の中は午前中の診察が終わったにしろ、人の気配が多い。携帯の時刻を見てから大きくため息をついた。
「やっぱり早く車の免許を取ったほうがいいよなぁ」
家からここまでたどり着くのに掛かった時間が、息をつく間もないほど忙しかったような気がする。ホッとすると急に病院内の暑さに汗がにじみ出てきて、マフラーを外しながら到着したエレベーターに乗り込んだ。
最初来た日となんら変わらない様子で、怪我人はニコニコと琥珀を迎えてくれた。
「怪我の具合はどうですか」
ベッドの横に着替えを置いてから、挨拶がわりの文句のような単語を並べる。そうすると怪我人である道旗はにっこりと微笑した。
「ここ数日、腫れもだいぶ退けて来たし。案外早く治りそうな気がして来たよ。リハビリ頑張らないとな」
「あんまり無理しないでください」
怪我の一つ二つで気落ちしたりするような道旗ではないのは判っていたが、思った通りの通常の道旗の調子に安堵した。それと同時にそのほとんど変わらない道旗の様子に、呆れ半分な気分にもなって琥珀はヘラヘラと笑い顔を作った。それから思い出したように、部屋の隅から引っ張り出して来た来客用の椅子に座わる。
「そっちの調子はどうだい」
問われて琥珀は道旗に目をやった。なんら変わらない飄々とした道旗だと思ったが、目の下にうっすら隈がある。
(そうだよなぁ)
「ちゃんと、やってますよ」
ポケットに両手を突っ込んで両足を投げ出す。ぎしっと簡易椅子が音を立てた。
「ちゃんと視えてきてます」
そうか、と道旗は薄く微笑んだ。
「あの、ボグダンさんから聞いたんですが。ボグダンさんと道旗さんは従兄弟だったと」
「そうだよ」
あっさりと道旗は応えた。
「ボグダンさんにもサイコメトリーの能力があるっていうことは、道旗さんももしかして何か視えたり、そういうことあるんですか」
恐る恐る、という風に琥珀は言葉を連ねた。
「ないよ、全然」
「ない、んですか?」
「俺とボグダンは確かに従兄弟同士だったけど、血の繋がりは全然ないからね」
「最初のお父さんの子供なんですよね」
おおよそはボグダンから聞いてはいる。だが、ボグダンは詳細は本人から聞けと琥珀に言った。まさかここでその話題になろうとは自分でも計画していなかったのだが、琥珀はひとまず言い出したからにはと腰を落ち着けた。
「うん、そうなんだけど」
話を一度折ってから道旗はゆっくり窓の外に目線を移した。
「あ、言いにくいんだったら、もういいです」
一度流れた空気の変わり目に気がついて琥珀は慌ててたじろいだ。
「違うんだ、ややこしすぎて何から話したらいいのかと、考えていたんだ」
柔らかい口調で道旗は頭を掻いた。
「父親はイギリスの夫婦に引き取られた養子で日本人だよ。父親の両親は事故でどちらも他界してしまってね、引き取ったのがその日本人夫婦の知り合いだったイギリスの養父母だったらしいね。だけど父親と義父母とは折が合わなかったみたいなんだ。十八になった年に家を出て、その先で母と出会ったらしい。その母が、御山のおじさんの妹だったんだよ」
そこで琥珀は道旗と御山夫妻の関係に合点がいった。
「道旗という苗字は、父親の本当の親の苗字らしいんだけど。母が何度か離婚をしても、俺が引き継いでいたミドルネーム。名前が靖彦というのは、二人が日本人だったからだろうけども。コロコロと苗字が変わるのを母親は楽しがっていたけれど、自分は面倒くさくてね」
だからそのまま苗字に使ったのだという。
「道旗さんの本当の祖父母は日本人だったとしたら、だったら日本に親戚がいるはずですよね」
「うん、本気になって探せば血の繋がりのある人は一人くらいは見つかると思うけれど」
そこまで言って道旗は言葉を呑んだ。
「俺にとっての祖父母は、記憶にしかない血の繋がらないバロー家の祖母と、名前しか知らない血の繋がった道旗という名の祖父、それだけで充分なんだ」
「そうなんですか」
「うん」
「あれ、でもイギリスのおじいさんもいたんですよね。おじいさんの事は覚えてないんですか」
「うん、あまり覚えてないんだな、これが」
淡白に答えて道旗は天井を仰ぎ見た。
「父と特に折り合いが悪かったって聞いてたから、祖父の事は無意識に忘れたのかもしれないな」
「……お父さんのこと、好きだったんですね」
「うん、そうだな。いい父親だった。随分早くに死んでしまったんだけどね」
(そうか、それで道旗さんの母親は再婚をしたのか)
「母親はそれからたがが外れたように再離婚を繰り返して、今に至るわけだけど、どの時代も幸せそうに生きているよ。あのお気楽な性格が何よりの救いかな」
「いいですね」
「いいだろう」
「俺には無理ですけど」
「ああいうのは才能の一つだよ」
真顔で道旗は自分の言葉に頷く。
「あ、そうだった。玉露、売ってましたよ」
ポケットからまだ暖かいペットボトルを取り出して道旗に渡す。
「ありがとう」
顔を綻ばせて道旗はそれを受け取った。
『自分には家庭という縁はないんだろうな』
一瞬触れた指先から、琥珀の中に意識が呟きかけて来た。
(今のは--)
目の前の道旗はすでにペットボトルを傾けてお茶を喉に流し込んでいた。
彼が喉に流し込んでる液体より、ずっとサラサラした薄い意識ではあったが、道旗の静かな底を僅に感じた瞬間のように琥珀は感じた。
居た堪れなくなって視線を泳がす。ベッドの下のゴミ箱にゴミが半分以上入っているのを目ざとく見つけた。サイドテーブルにはメモ用紙が無造作に置かれている。
ポケットに入っていたレシートを握り潰して、琥珀はごく自然を装ってゴミ箱を探す仕草をした。
「ゴミ、捨てていいですか。あ、これ捨ててきます」
道旗と居る空間が苦痛なのではない。彼が居る空間はどんなに気まずくても苦ではない。
だが琥珀は今の一瞬だけ席を離れたかった。その口実をゴミ箱に見出したのだ。
これから自分が言う一言は、あまりにも気恥ずかしくて。せめてそのセリフだけは、目を合わせていう自信がなかった。
ただそれだけの為に琥珀は、思った以上に軽いゴミ箱を抱えて椅子を立った。道旗は飲みかけのペットボトルをサイドテーブルに置き、頷くでもなく琥珀を見やる。
「道旗さん、俺、道旗さんの家族ですよね。少なくとも俺にとって道旗さんは家族です。俺の大事な家族です」
虚を突かれた顔の道旗の表情が変わる前に、琥珀はまくしたてた。
「だから、早く良くなってください。俺、頑張って役に立てるようになりますから」
それだけを言って琥珀は病室のドアを開けた。
「琥珀くん」
呼び止められて琥珀は立ち止まった。
「もちろん家族だよ。家族だから居てくれるだけで、それだけでも、もうかなり充分なんだよ。ありがとう」
彼らしく屈託のない素直な言葉が背中に響く。
自分だったら恥ずかしくて面と向かって言えない言葉がある。むしろそういう言葉ばかりだ。さっきだって恥ずかしくてこの場を離れる口実を作り、ゴミ箱を抱えている自分がいる。道旗の反応がどうくるか怖くて、まくしたてるように言葉を吐き出したばかりだ。その挙句に、早々とこの場所を立ち去ろうとしていた。
もちろん、何気無い顔を取り繕って病室に戻ってくるつもりではあったのだが。
道旗は違う。きっと生まれ育った国の違いかもしれないし、彼のもった素質なのかもしれないけれど。
彼のそういうところが、たまらなく琥珀は好きだった。




