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ボグダンー4

 浮かない顔のまま琥珀は、椅子に深く腰を掛けていた。

(起きた出来事を誰かのせいにするなんて--)

 自分が真っ先に、良くも悪くも疑った相手は妹だった。瑠璃が仕掛けた事故ではないだろうか、瑠璃が救った事故ではないだろうか。

 自分より何倍も上手を行っている妹だ。様々な人の人生を数多に見てきただけに、嘘の一つや二つくらい平然とした声色でつくのも容易いだろう。

 だが、琥珀にはわかった。

 瑠璃は嘘をついていない。

 それだけに疑っていた自分の心に、細く長い氷柱が刺さったような感覚を覚えた。


 

 御山夫妻はまだ病院に居る。入院の手続きやら何やらと、もう少し帰宅は遅くなりそうだった。

 泉神社境内にある御山家は、喜和子が気を利かせて点けてくれていた玄関灯のみがほんのりと日常だった。車庫に車を入れているボグダンから先駆けて、琥珀は玄関の鍵を開けた。引き戸を開けると、家の中はしんと静まり返っている。猫のみさえさんの気配はなかった。

 靴を脱いで廊下の電気を点けようと、一歩足を踏み込む。

 ジワリとした冷たさが靴下を突き抜けて来た。思わず琥珀は動きを止めた。心の底まで凍てつきそうだったからだ。

 人の気配を感じて、琥珀はおもむろに振り返った。ボグダンがコートを着て玄関口に立っている。

「温かい飲み物が飲みたくない?」

 コートのポケットに両手を突っ込み、無造作に肩を竦める動作をすると、彼が尤も外国人らしく見えた。

「コーヒーでも淹れますか?」

「コーヒーなら自分でも淹れるけどね、ホットレモンが飲みたいなと思ってさ」

「ホットレモンですか。コンビニ行きますか?」

 脱いだ靴を履き直した琥珀は、ポケットの財布を弄った。

「向こうの公園に自動販売機があるよね、そこに行こう。奢るから一緒に」

 ボグダンが親指で後方を指す。

 神社の境内を出て、それほど歩かない場所に小さな公園がある。確かにそこには自動販売機があった。   


 寒々とした公園の、寒々とした街灯の下に自販機があった。夜空には雲が覆っているのか、星のひとつも見えない。その代わりに町の灯りをほんのりと染めて幾分明るい夜に見えた。

 上を向いていると自分の白い息が融けるように夜の空気に馴染んでいく。

「自動販売機、これを押すのが大好き」

 子供のような口調のボグダンの横顔が自販機の灯りに照らされた。

 正直、綺麗な顔だなと琥珀は思う。「イケメン」や「美男子」という表現では追い付かない。ただただ、綺麗だという表現が一番合っている。そのボグダンは4か国語を習得して医者であり性格も朗らかだ。神は二物を与えないとは限らないのだと、この男を見ると否応なしに実感できる。

(俺は……羨ましいのかな)

 琥珀は自分の胸に訊いてみた。イエスと心の奥に文字が浮かぶ。途端に苛立った。

 なぜ人はこんなにも不平等なのだろう。

 そんな事を黙々と考えていた。突然、目の前に大きな手があった。

 白く大きな手だ。目線を上げるとボグダンが薄く笑んだまま琥珀を見つめていた。

「なんですか」

 差し出された手の意味を理解できず琥珀は眉を顰める。

「僕の手に触れることはできる?」

「はぁ?」

「さっき莉子ちゃんの手を握ったとき何が起きた?」

 はっと琥珀は目を見開いた。そういえば彼女の手を握ったとき、彼女の思いは柔らかい光となって静まっただけで、琥珀の中に侵入して来るものは何もなかった。

「あれは……」

 言いかけて琥珀は目をむく。

 ボグダンの手が琥珀の手首を掴んだかと思った次の瞬間、目の前に霞む距離で蒼い瞳があった。

「あ……あ」

 鼻と鼻が触れたのか。唇がどこかに触れたのか。左手は手首を掴まれたまま冷たい空気に晒されている。

(どこから入ってきた?)

 波のような記憶が琥珀の中になだれ込んできた。誰のものか何の記憶なのかも全くわからない。それは数多のうねりを生み、やがて大渦になっていった。琥珀の脳髄の奥に奥にと入り込もうとする。記憶や想いの念が莫大な情報となって琥珀の内部に押し込まれてくるのだ。

(は、はじける)

 

 君は怖いんだろう。

 

 そうだ、俺は怖いんだ。


 


「すまないね、僕は他人と情報を共有することができるけど、ああいう方法でしかしたことがなくて」

 すまなそうにボグダンは琥珀を見下ろした。

「ああいう? 方法?」

 琥珀には曖昧な記憶しかない。

 左手を掴まれて、ボグダンが迫ってきて。

 瞳孔を開いたまま気絶していた。

「まぁ、君のファーストキスでもあるまいし、ね」

 はにかんだボグダンを最初は真顔で見ていた琥珀だったが、やがて蒼白な顔で目線を泳がし始めた。

「ま、ま、まさか」

「うん、実は君と似たような能力が僕にはあるんだ」

 隠してて済まなかった、と申し訳なさそうにボグダンは言う。

「だ、誰とでもああいう方法でやってるんすか?」

「誰とでもないよ、軽々しくできないよ。だから過去に情報を共有したのは数えるくらいしかいない」

 ボグダンが慌てふためいた。

「そもそも、情報を共有するほど今の僕には能力なんてないのだけど」

「僕が伝えたかったのは、僕も君と同じような力があったということ」 

 琥珀は寒さも忘れて、湿り気を帯びた足元のレンガタイルを見詰めていた。午前中に降った雪が染み込んで湿った公園に、またゆっくりと羽毛のような綿雪が降ってきていた。

 足元に落ち、溶けてはなくなる。

 その様を、じっと見ていた。

「僕は、今の君の複雑で不安な気持ちは幾らかならわかる」

 呟くようなボグダンの声が聞こえた。

 その単語がどういう意味合いを持って吐き出されたのか、尋ねなくても琥珀には理解できた。

 ボグダンから流れてきた数多の記憶の塊は、琥珀の中に入りきらなかった分も含めて、ボグダンの中に蓄積された記憶達だ。

 それが意味するもの--。


 ゆっくり琥珀はボグダンを見る。

 彼もまた、サイコメトラーであり、超能力者であり、琥珀と似た力を持つものだ。

 この男を最初見たときの恐怖にも似た違和感は、度が過ぎた親近感だったのかもしれない。

「克服の仕方や受け止め方は人それぞれだけれど、力になれることならあるかもしれない。僕は君ほど完全な力があるわけでもないし、なるべくそれを見ないように避けて来たから、今はほとんどないけれど」

 静かな声だった。

「初めは僕が僕自身を受け入れることができなかった。家族すら僕のことを理解してくれようとはしなかった」

 公園の芝生の色が僅かな白味が差してきた。雪は先ほどから止むことはない。

「そういう意味では、僕はもっとも君に近いかもしれないね」

 うっすらとコートの上に染み込んで形になろうとしている肩の雪を、素早く振り払ってボグダンは再度琥珀の前に手を差し出した。

「どうするかは君に任せるよ」

 決して無理強いはしない、そんなところは道旗に似ているのだなと、病室のベッドにいる相棒を想う。

「よろしくお願いします」

 琥珀は小さく、しかしはっきりとそういうとボグダンの手をしっかり握りしめて握手を交わした。


 自分だけではなかった。

 少なくとも、目の前にいる美しい男はそうらしい。


 ふと、琥珀は苦笑いをした。

 ボグダンにもそんな過去があったのかと。

 そんな話を聞いて心を開きかけて、ふと焦った。

 だけどそれでも、いいかもしれない。


「でもまず、家に戻りませんか」

 急に染み入りそうな寒さを覚えて、琥珀は身体を神社の方に向けた。

「あったかいお風呂が恋しいね」

 先に駆け出したのはボグダンだった。

 呆気にとられて一足遅れた琥珀が駆け出す。

 琥珀はどこか懐かしい感覚にとらわれた。

(ああ、これが楽しいってことかな)

 心の片隅で推理している自分を嘲笑いながら、目の前のボグダンを追った。

 

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