地下牢の子−1
〔 地下牢の子 〕
琥珀は静かに目を閉じた。
ボグダンの渡したバレッタから伝えようとするものはほとんどないが、精神を研ぎ澄ませば見えてくる景色があった。
オレンジ色の眩い光。
--夕焼け。
西日がいつもより濃い夕刻だった。
秋にはまだ早い季節だが、西に傾いた陽の光は晴れた日の晩秋を思わす色彩だ。
サーシュという名の少年は、周りを何度か見回した後に、屋敷を巡らす壁伝いに歩いていた。街でも一番大きな屋敷だ。
正面から大きく左に回り、塀が一度折れて奥へ続くその手前に、大きな古い木があった。いつの頃からそこにあったのかわからない程、大きな古木である。そこの根元に隠れるように古びた扉があった。
なんのために作られたのかはわからない。おそらくはこの屋敷が作られた当時にはすでにそこにあったかの如く、古く小さな木製の扉にはそれ相当の年季が入っていた。
もしや今は屋敷の住人の誰もがこの扉の存在を忘れているのかもしれない。
サーシュは身を滑らすように木陰に潜り込んだ。
この扉を唯一知っている者の処へ行く。
この扉を教えてくれた者の処へ行く。
サーシュが忍び込んだ屋敷は、広大な敷地に森と湖を有していた。膨大な広さゆえに警備はそれほど厳しくない。
世は安泰だ。貴族は浮かれ、日夜華やかな宴が開かれている。二百年あまりそれは続いていた。つまり、この屋敷は安泰の世と同じほどの歴史を刻んでいる。
今一度、サーシュは入ってきた扉を見た。
自分で閉じたとはいえ、初めて触れた当時より扉は静かに開いて静かに閉じる。その見た目には想像もつかないスムーズさでだ。
屋敷の窓にはほとんどカーテンが引かれていた。夜な夜な宴を開く住人が、一時眠ったかのように静まるのは今の夕方の時間帯だった。
夜が訪れると、金銀に輝く馬車が激しく行き交うようになる。さながら夜街の賑やかさに屋敷は包まれるのだ。その頃になると屋敷や庭には灯りが煌々と灯され、昼か夜とも区別のつかない有様になるらしい。
サーシュはその光景を見たことはないが、この界隈のなら誰しもが噂し、知っている事実だ。
この屋敷の主人はアルバドールガル三世。齢は八十も近い。屋敷を事実上牛耳っているのはその嫡男なのだが、そんなことはこの安泰の世にはさほど重要でもなかった。
他の貴族より豪華で盛大な宴を開くことが貴族の仕事。
皮肉たっぷりに町人は口々に言う。
だが、誰もそれを咎めたりはしなかった。
世は安泰だからだ。
敷地内に入ると屋敷の壁に沿うように生垣が植えられている。その生垣に沿ってサーシュは歩いた。やがて建物の角まで来ると、生垣は大きく左に曲がる。その向こう側には屋敷の居間や来客用のラウンジなどに面する大きな庭があるのだ。それを迂回するように生垣は植えられている。
右手を横に差し出し、サーシュは歩いた。指に触れる生垣の葉の感覚が楽しい。そしてそんな些細な物音を不審に思う者などどこにもいない。
生垣が切れる頃には、下刈りの行き届いた奥庭と呼ばれる広葉樹林に入った。辺りはゆっくりと夜に近づいていたが、林の中に入ると一気に夜の気配がする。
そこから足取りを早くして、小走りに芝生の敷かれた奥庭を横切った。
ちらりと目をやった屋敷の窓には、遠目に見てもしっかり分厚いカーテンが引かれ、案の定誰の気配も感じない。
広葉樹林を抜けると今度は花木の庭を通り抜けた。花壇には高級なレンガどころかタイルまで張られてあり、美しいモザイク模様の通路まで存在する。花を愛でるのか通路を観覧するのかわからないデザインだったが、サーシュはこのちぐはぐさが好きだった。
やがて、大きなバラのアーチを抜けると、屋敷の壁が見えてきた。
表側の豪華な造りとは少し落ち着いた、質素で赤いレンガの壁だ。ここだけは屋敷と少し切り離された場所にあるようで、おそらく物置などに使われている建物なのだろうとサーシュは思う。
その赤レンガの壁伝いに建物の反対側に回ると、雑木の林が鬱蒼とする別世界になる。北側に位置するこの場所は、屋敷の豪華さや絢爛さとは全く違った面差しで、空気がひんやり冷えていた。
同じ建物である赤いレンガでさえ、南側のレンガとは比べ物にならないほど、黒い苔が生えて黒ずんでいる。木製の窓は三つ。こちら側は開けられることもあまりないのだろう。小さな木の葉が窓枠に積もっていた。
そういう陰鬱な北側の壁と地面の境目に、幅四十センチほどの窪みがあった。その窪みには外から土砂が流れ込まないように僅かばかりの板が土留めにあり、それが深さ三十センチほどしかない窪みを更に狭くさせている。その窪みには赤茶色の鉄格子が縦に八本収まっていた。
サーシュは周りを見渡してから、その窪みにかがみこんで中を覗き見る。
窪みの奥は仄暗い空間があった。地下室だ。
柔らかいランプの灯りが揺らいで見える、水中のようなその空間に突如白いものが過ぎった。
「サーシュ」
窪みの鉄格子の向こうから、囁くようなサーシュを呼ぶ声が聞こえた。同時に、暗闇に浮かび上がる白い顔。
「サーシュ」
その顔の持ち主は、一際嬉しそうにサーシュを見た。紅い眼である。
髪も肌も全て白いその人物は、まだ幼い顔立ちの少女だった。豊かな白髪をゆったりと後ろで束ね、赤茶けた鉄格子に添えた白い細い指が何より可憐に暗闇に映えた。
「遅くなった」
サーシュは窪みに向かって腰を下ろすと、あぐらをかき、窪みの中の少女と対峙する。
「いいのよ」
街に住む少年と屋敷の地下室に住む少女の秘密の逢瀬であった。
鉄格子の向こう側にいる少女の名はエディタ。この地域一帯を治めるバロー伯爵家の〔忌まわしき女児〕としてこの世に生を受けた。
バロー伯爵には見目麗しい妻が三人の子をもうけていた。嫡男は後継者に相応しい豪奢な資産の使い方と回収の仕方を心得ている冷血な壮年で、二つ下の次男もまた母親似の清楚な顔立ちに、父親譲りの好色で刺激を求める貴族の女達に不自由することはなかった。
一番問題だったのは、同じく父親譲りの好色と母親譲りの美貌を兼ね備えた末の娘、アンジュに他ならない。
十六歳を過ぎて社交界にデビューするや、彼女の男の噂は絶えることがなかった。昼も夜もかまわずアンジュは相手を求めた。
ある日、バロー伯爵はアンジュが身籠っていることを妻から知らされる。
散々な好色ぶりと豪遊を繰り返しているバロー伯爵だが、その安泰をもたらしてくれているものは何者でもない。神であると疑うことはなかった。バロー伯爵は熱心な信教者だった。この時代の信教者はバロー伯爵だけではない。裕福な者達は競うように教会に寄付をし、己の権力を見せ合った。
時の宗教家は言った。
色に溺れても、金を撒いてもさほど罪にはならない。だが、子を殺すことは大罪なり。
アンジュに産まれた子は、父親の特定のつかない女児だった。ましてや婚姻すら済ませていない娘が産んだ子供だ。
アンジュの好色ぶりを知っていながらも、その類い稀な美貌を見込んで、様々な貴族から婚姻の話が舞い込んできているのも事実。
「女児であったのは不幸中の幸い」
バロー伯爵はアンジュの子をなかったことにしようと結論した。
アンジュが子を出産したのは、雨の降る午後だった。
初産で出産までには長い時間がかかった。だがアンジュは、自ら産んだ子供に僅かな興味さえ示さなかったのだ。
子は母体を離れたその瞬間から、乳母の手に一切を任せられた。
産まれた子は、肌も毛髪も白かった。正確に言えば、毛髪に銀糸を埋め込んだ陶器の人形のようだったと。
養母を任命された乳母は、青白い室内でその子を見た瞬間、雷に打たれた感覚になった。
子を殺すことは大罪なり。
バロー伯爵に命じられた通り、乳母はその子を地下室で育てることになる。
白き孤児
仄暗い地下室の一角で、彼女は質素な木製の揺りかごに揺られている。その様子が琥珀の意識には見えた。
これは--。
乳母の視線だ--。
はっと琥珀は目を開いた。
目の前には先ほどと変わりないボグダンがいる。自分はバレッタを掌に置いたままの姿勢で立っていた。意識を集中する前と全く状況は変わっていない。
「何か視えたりした?」
時は幾らも経っていないようだ。だが、長い時間あちらの記憶を見た気がする。それくらい、今までにはない情報量だった。
「ええ、まぁ」
曖昧に返事をして琥珀はボグダンを見た。
「随分古いものだと記憶が幾つも重なって、どれが重要なのか判断するのが難しいけど。これにはハッキリと視える時代があったんです」
「うん」
「古いヨーロッパの方かなと思います」
「うん」
「サーシュという名前の少年が出てきました」
「サーシュ?」
琥珀の言葉を聞いて黙り込むボグダン。
「このバレッタはね、我が家に代々伝わってきたという古いものなんだ。実家の改装工事の際に物置から祖母のバックと共に出てきたんだよ」
「ボグダンさんの?」
「そう、祖母。うちの家系にサーシュという人は該当したかな」
バレッタを見つけた当時、ボグダンは祖母や親族に先祖の話を訊いて廻ったという。どうして自分がそれほどこのバレッタに興味を示したのかは、今考えてもはっきりわからない。ボグダンの知識はほぼ初代に近い代まで家系図を書けるほど熟知していた。
彼はやがて首を何度か振ってから、ゆっくり肩をあげて「やっぱり心当たりはないなあ」と眉を顰める。
「その少年の名前がどうしてハッキリ視えたのかはわからないけれど、バレッタに関連する直接的な人物は彼の他にもまだいるみたいです」
揺れるゆりかご。
仄暗い地下室に出入りする乳母となった女性。
産んだ赤子に全く関心を示さない若い母親。
夜な夜な犇めく欲望に歪んだ屋敷。
出入りする数多の着飾った人たち。
燃えるような夕日の色。
赤子の銀糸の産毛。
--全て視覚だけだ。
琥珀が感じる特有の匂いや感覚はまだ伝わっては来ない。
重苦しくため息を吐くと、琥珀はおもむろに天井を仰いだ。やはり疲労感が押し寄せてくる。頭を押し付けるられるような重圧感に、身体は無意識に抗おうと天井を仰いだのだ。
ふと、視界の隅にボグダンが見えた。
「すまないね、疲れないわけがないのに」
労いの言葉をかけた後、ボグダンは机の上に放り置かれていた教習所の予定表に目をやった。
「君はどんな車を買うつもりなの」
ボグダンがそれとなく聞いてきた。
「……まだ買うつもりはないです」
「車が欲しいから免許を取るんじゃないの」
「車が欲しいわけじゃないんです」
「資金面ならヤースーに相談したらいいんじゃないかい」
「お金がないというのは確かですけど、俺は別に車はなくても生活には不便していないんです」
道旗の為--。
そう言おうとしてボグダンに先を言われた。
「ヤースーの為か」
「御山さんの為でもあります」
「君はこの家やヤースーの事をとても大事にしているんだね」
大事、そうだ。大事だ。
ある日のコンビニの駐車場で出逢った一片を思い出す。
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