第2話|迎えと、芽生える欲
ベルナール伯爵家の屋敷は、どこか華やいだ空気に包まれていた。
公爵家との縁談が正式に整ったという知らせは、屋敷中を瞬く間に駆け巡り、
使用人たちは誇らしげに囁き合っている。
「リリアーナ様は公爵家へ輿入れされるのですもの」
「なんと名誉なことでしょう」
磨き上げられた床に映る自分の姿さえ、どこか晴れやかに見えるほどだった。
書斎では、ヴィクトルがゆったりと革張りの椅子に身を預けている。
手にした酒杯の中で琥珀色の液体が揺れた。
「まさか、シュヴァイン公爵自ら迎えに来るとはな」
その声には抑えきれぬ優越が滲む。
法外な支度金。
公爵家との縁。
この縁談は、自分の選択が正しかった証だと信じて疑わない。
隣でヴァネッサもまた、上品な微笑みを浮かべていた。
――これで、あの娘がいなくなれば。
ベルナール伯爵家は、完全に自分の掌の上にある。
その時――
正門前に、重厚な黒塗りの馬車が静かに止まった。
馬車の扉が開く。
漆黒の外套を纏った長身の男が、ゆっくりと地に足を下ろした。
その存在だけで、空気が張り詰める。
だが彼は威圧することもなく、ただ静かに屋敷へと歩を進めた。
無駄のない所作に、揺るがぬ姿勢。
その一挙手一投足が、自然と周囲を従わせる。
すらりと伸びた体躯。
歩くたび、外套の裾がゆるやかに揺れる。
整った横顔は彫刻のように端正で、高い鼻梁と引き結ばれた薄い唇が、静かな威厳を湛えている。
そして――
深く澄んだ青い瞳。
夜明け前の空のような色。
冷たいはずなのに、どこか奥に熱を秘めている。
その視線が一度向けられるだけで、周囲の空気が、自然と張り詰めた。
声を荒げるわけでもなく、
威圧するわけでもない。
それでも、誰もが悟る。
この男は、揺るがない。
視線が、ゆっくりと重なる。
深く澄んだ青い瞳。
すべてを見透かすようでいて、
どこか静かな灯を宿している。
応接間で待つリリアーナは、胸元のペンダントにそっと触れた。
知らせを受け、迎えに出向く。
ディートリヒは彼女の前で立ち止まった。
「本日は、我が公爵家の別邸へ案内したい」
低く落ち着いた声。
命令ではない。
だが、確かな意思を含んだ響きだった。
リリアーナの喉がわずかに震える。
「……別邸、へ?」
「あなたに、お見せしたいものがある」
ほんの一瞬。
彼の表情が、わずかに和らぐ。
それは誰にでも向けられるものではない、
選ばれた者にだけ向けられる視線だった。
リリアーナの胸が、強く打つ。
その様子を――
廊下の奥、窓辺の陰から見つめる影があった。
冷徹と呼ばれる宰相。
情など持たぬ男。
そう聞いていた。
なのにーー
あの視線は何?
あの微笑みは何?
胸の奥に、小さな棘が刺さる。
自分はエドガーに選ばせた。
自分は常に奪う側だった。
なのに、今。
奪われる側に立っているような、この感覚。
唇をきゅっと噛みしめる。
――あれは、私のものになるはずだったのに。
リリアーナよりも、私の方が、愛されるに相応しい。
静かな嫉妬が、ゆっくりと形を持つ。
そしてそれは、
欲へと変わった。
――奪ってみせる。
エドガーを奪ったように。
次は、あの男を。
セリーナの瞳に、淡い炎が灯る。
その一方で、屋敷の誰一人として疑わなかった。
この迎えが祝福の象徴であることを。
この縁談が家の繁栄をもたらすことを。
だが――
真実は、まだその奥にある。
リリアーナは、差し出された手を見つめた。
母の手紙。
胸元のペンダント。
そして、目の前の彼の青い瞳。
それは母と同じ、
そして自分と同じ色。
静かに、確かに、何かが共鳴している。
何かが、静かに動き始めている。
覚醒の扉は、すぐそこまで来ていた。
馬車は静かに森道を進んでいた。
車輪が石を踏む音が、規則正しく響く。 その単調な揺れが、かえって胸の鼓動を際立たせる。
向かいに座るディートリヒは、窓の外に視線を向けている。
必要以上に語らないが、その横顔にはわずかな緊張が滲んでいた。
リリアーナは、胸元のペンダントにそっと触れる。
森の奥へと進むにつれ、空気がひやりと変わる。
光は細くなり、木々の影が長く伸びていく。
その時――
かすかに、石が脈打った。
「……っ」
思わず息を呑む。
ディートリヒの視線が、ゆっくりとこちらへ向く。
「……何か、感じたか?」
低く、短い問い。
命令でも追及でもない。
逃さない声音。
確かめるような、静かな響き。
馬車は別邸へと到着した。
扉が開く。
一歩、足を踏み入れた瞬間―― 空気が変わった。
澄みきった、清らかな気配。
それでいて、どこか懐かしいーー
胸の奥に、忘れていた感覚がよみがえる。
シュヴァイン公爵家の別邸に続く、奥の扉が静かに開いた。
現れたのは、柔らかな金の髪を揺らす女性。
そして、深い青の瞳。
その色を見た瞬間、呼吸が止まる。
「……リリアーナ」
震えるような声。
「お母様……?」
信じられない思いで名を呼ぶ。
次の瞬間、そっと抱きしめられていた。
懐かしい香りと温もり。
幼い日の記憶が、堰を切ったように溢れる。
「ずっと、会いたかった」
囁きは涙を含んでいた。
リリアーナの指先が、震えながら母の背を掴む。
生きている、 幻ではない。
それだけで、胸がいっぱいになる。
落ち着いた後、三人は小さな応接室へ移った。
窓から差し込む光が、卓上に置かれたティーカップを淡く照らす。
アデリーヌは、リリアーナの胸元を静かに見つめた。
「その石を、大切にしてくれていたのね」
優しさを含む声に、リリアーナはうなずく。
「これは……ただの装身具ではありません」
ゆっくりとした口調で、母は続ける。
「それは“継承の石”。
後継者の瞳と同じ色を持つ者にのみ応える魔導具です」
その言葉に、リリアーナは思わずディートリヒを見る。
深い青。
母と、自分と、同じ色。
「石は、血と意思に反応します」
アデリーヌは静かに告げた。
「あなたが守りたいと願う場所に、力を貸すのです」
胸元の石が、淡く光る。
「……では、ベルナール家にいた時も?」
かすれた問い。
母はやわらかく首を振る。
「あなたが“家族”と認めた場所に、です」
その言葉は、不思議と胸に落ちた。
守られるだけの存在ではない。
自分が立つ場所を、守る。
石が、ひときわ強く脈打つ。
室内の空気が、わずかに震えた。
ディートリヒが静かに言う。
「覚醒の時が近いのだろうな……」
その声には、焦りも恐れもない。
ただ確信だけがあった。
リリアーナはそっと目を閉じる。
母の温もり。 胸元の鼓動。
そして、隣に立つ彼の存在。
何かが、確かに動き始めている。
覚醒の扉は、すぐそこまで来ていた。




