1「奇妙な監禁生活」
1
「トイレに行きたい……」
彩音さんが沈黙を破ってくれたのは幸いだった。重苦しい空気がいくらか和らぐ感じがするからである。
私は彩音さんの背後に回り、各部のビニール紐の結び目を解いていく。
「は、早く、して……」
彩音さんはだいぶ我慢していたらしく、焦りが見られた。それが私にも伝播し、思うように作業がいかなくなってしまう。
「も、も、もう少し、耐えて欲しい」
「手、手はこのままで、いいから」
「あっ、わ、分かった」
胴と足のビニール紐が解けた彩音さんは、背中側で結ばれた手はそのままに、トイレに駆け込んで行った。私は扉の前に立ち、彼女が出てくるのを待つ。
彩音さんが脱出や反撃を試みる可能性が絶対にないとは云えないため、私は彼女の胴を座椅子にビニール紐で拘束し、手首と足首もそれぞれビニール紐で縛るようにしていた。本当に監禁じみていて、本意ではないのだが、四六時中気を張っているのも無理があるので致し方ない。ただ、トイレの際はこうして拘束を解くと決めていた。それから、食事の際にも手の拘束は解くことにしている。
「ねえ……」
扉の中から、彩音さんの声が聞こえてきた。少し震えている。
「何だろうか」
「脱がせて……」
その言葉の意味にはすぐに得心がいった。手を拘束されたままでは、スカートを脱げないのだ。焦りばかりが先行し、私も彼女も気が回っていなかった。
「い、いや、し、し、しかし……」
「早く……お願い……」
このまま躊躇していたら、彩音さんにもっと恥辱を味わわせてしまう。私は緊張で息を荒げながら、扉を開けた。
彩音さんが悩ましげに眉を寄せ、潤んだ瞳を私に向けている。恥ずかしさのあまり、その顔は紅潮し、唇は小さく震えている。
「あ、て、手の拘束を、外すことにしよう」
スカートを脱がせるなんてできるわけがない。私は両手を少女の背中に回し、ビニール紐の結び目に手を掛けた。抱き付くような格好になっていると自覚し、私も顔が火照るのを感じる。彩音さんは呻き声をあげていて、我慢の限界が近いのだと窺える。
ビニール紐を解いた私は逃げるように廊下へ出た。途端に全身がガタガタと震え始める。強張っていたのが急に解けたせいだろう。
トイレの水が流される音がして、私は扉に凭れていた背中を離した。最悪の事態は回避できたようで一安心だ。
扉が開いて、彩音さんが出てくる。まだ赤い顔を、若干俯けている。
「音を聞かれるのも、恥ずかしい……」
「え、音? あっ、いや、気にしなくていい。じ、自分の心拍音がうるさくて、まったく聞いていなかったから、本当に」
彩音さんは私の言葉が可笑しかったのか、少し笑った。
「また、縛るの?」
「そ、そうだ……。今後は、尿意等は我慢せずに、い、いつでも云って欲しい」
居間に戻り、私は再び彩音さんを座椅子に拘束する。
「お腹が空いてはいないだろうか?」
私も彩音さんも、買い溜めしてあったサンドイッチを今朝に食べたのみである。時刻はもう午後六時となっている。
私の部屋には遊びに使えるようなものはひとつとしてないので、今日一日は会話も弾まず、何もしないままに気付けばこんな時間である。だが私は、彩音さんを楽しませられないことに歯痒さを覚えつつも、辛くはなかった。そのくらい、可愛らしい少女が同じ部屋にいてくれるのは幸福なことだからだ。私はずっと、生まれてはじめての、こんな夢みたいな時間に浸っているだけでも充分と思っていた。
「少し」
「今、つくる」
私はトーストを焼くことにした。あいにくと塗るものはマーガリンしかないのだが、またサンドイッチというのも芸がない。こんなことなら、彩音さんを連れてくる前に、気の利いた食材を買っておくべきだった。味覚に趣向を凝らすなんて一切してこなかった私だが、今更になって後悔の念に駆られる。
「お兄さんはテレビもパソコンも持っていないんだね」
彩音さんが話し掛けてくれた。
「ああいったツールはすべて暴力的だから。……私は極力、外部からの情報を入れないようにしながら生きている」
「どうして?」
彩音さんは不思議そうに首を傾げた。目が合うのが気まずくて、私はトースターとしての機能も備えている電子レンジの中で回転するトーストを見詰めつつ、会話を続ける。
「私は他人というものが怖いのだ」
この告白ははじめて他人に本心をさらすに等しかったが、こうして私の部屋にいてくれる彩音さんのためと思えば、案外素直に言葉は出てきた。そもそも私は理解者を欲して、それを少女に求めたのだから、どのみち避けては通れない話だ。
「誰とも関係を持ちたくなかった。実際、そうやって生きてきた。路頭に迷わないよう、学校には通い続ける必要があったので、学生生活を送りつつも意識を外部と遮断するすべを身に着けた」
淡々と語るつもりが、徐々に熱が入っていくのが自分でも分かった。
「人間は怖い。みな、私を攻撃する。傷付ける。それが意図的である場合はもちろん、本当に恐ろしいのは彼らが無自覚である場合すら溢れているということだ。同じく人間である私がこう云うのも滑稽に映るかも知れないが、私はきっと欠陥を抱えて生まれたのだと思う。みなは平気で生活しているのに、私にはそれができない。私は弱者でいるしかなく、被害者でいるしかなく、反旗を翻すのはおろか、逃げる勇気さえ持ち合わせていないのだ。しかし、最も救いようがないのは――」
私は彩音さんに顔を向けようとして、やはりそれはできず、俯き、言葉を続けた。
「――私は独りで生きる強さもなく、人恋しくなってしまう愚か者だということだ」
嗚呼、穴があったら入りたい。そんな常套句が浮かぶのは、これまでの人生で勘定しきれないほどだったが、今が最たるものだった。
堰き止められていた水が一気に溢れるかのように、勢いで喋ってしまった……。こんな恥ずかしい告白を、会ってまだ一日経ったくらいの少女……それも、ほとんど会話すら交わせないでいる少女に打ち明けるなんて……。
私は心の内側に防壁を築こうとする。これまで通りに。どんな反応を見ても、傷付かないでいられるように……。
「それで、彩音を拉致したの?」
その声だけでは、彩音さんが私の告白をどう思ったかは測れない。しかし、顔を見るなんて私にできるはずが……。
「こっちを見て、お兄さん」
期待してしまう自分がいる。どうせ裏切られるのに、傷付けられるのに、期待してしまう自分が。
私はまるで金縛りにでもあったかのような首を、無理矢理に、ゆっくりと動かして、薄く開いた瞼の隙間から彩音さんを見た。
彼女は薄く微笑んでいた。決して私を嘲笑しているのではなく、蔑んでいるのでもなく、ただ優しく、すべてを受け入れてくれるような微笑みを浮かべていた。
「それで、彩音を拉致したの?」
私は自然と首を縦に振っていた。
少女はまた、可笑しそうに少し笑った。
「お兄さん、朴訥とした感じなのに、やることは突飛って云うか……大胆だね。いくら孤独に堪えかねても、最初に取る手段が女子中学生の拉致なんて普通じゃないと思うよ」
責めているふうではなかった。茶化すような調子だが、嫌ではなかった。
彩音さんに悪意はないのだと、希望的観測ではなく、真理であるかのように知覚した。
「ずっと怯えているみたいだったのも、本当に彩音に怯えていたんだね。だけど、もう安心して。彩音、お兄さんのこと嫌いじゃないよ。変わったところもあるけれど、面白いし、優しい人だっていうのは分かるから」
視界が微かに滲んだ。胸のうちから湧き上がるこの熱は、一体何という名前の感情なのだろう……何もかもがはじめてで、私は窒息しそうなくらい、幸福だった。
「彩音がお兄さんと、一緒にいてあげる」
私は膝からその場に崩れ落ちた。様々な思いが全身を掛け巡るなかで、確かに意識できたのは〈私は救われた〉ということだった。
「ありがとう、ございます……。ありがとう、ございます……」
私は、救われた。