2、3「お風呂の問題」
2
「お兄さんは、どうしてそんなに堅苦しい喋り方なの? 自分のことを私って云うのも、高校生らしくないし」
トーストを食べ終えた彩音さんが、そう訊ねた。
彼女の拘束はもうすべて解いてある。彼女が巧みな方便で私を欺き、脱走しようとしているなんて有り得ないとは、人の感情を読むのが苦手な私でも確信していた。そんな策を弄さずとも、監禁らしい行いに不慣れな――慣れている人というのも珍しいかも知れないが――私から逃げるのは容易だろうという自虐的な打算もなく、もっと本質的な部分で確信していたのだ。
「人と話す機会がほとんどない私だから、下手に一般的な日常会話のそれに合わせようとすると、余計におかしくなってしまう。だから、こういう喋り方しかできないのだ」
「変なの。それでも〈私〉じゃなくていいのに」
彩音さんは可笑しそうに笑う。彼女が笑ってくれるなら、私としてはそれ以上のことはない。
「私は中学のころは読書に凝っていた。主に学術書の類だ。機能的で、人間らしい部分のないところが、私でも趣味にできると思わせた。その文体に影響されているのだと思う」
「今はもう読まないの?」
「人の書いた文章であることには変わらないと気付いてから、読むのが辛くなってしまった。生きていくのにどうしても必要でない限り、もう読まないだろう……」
「なんだか勿体なくないかな。せっかく、頭良さそうなのに」
「それは、分からない。他のみなの知能がどれほどのものか分からないから、相対的に自分がどのくらいに位置しているのかも不明瞭なのだ。いちおう、目立たないくらいの成績に調整しようとは、しているが」
「生きづらそうだね……。それなら普通に生きる方が全然簡単だと思うんだけれど、お兄さんにとってはそうじゃないんだよね」
「そ、そうだ……」
そのとき、思わずあくびが出た。これは痴態だと自責の念が湧き上がったが、しかし彩音さんは特に気にした様子もなく、
「お兄さん、眠いんだよ。だって、昨日の夜から一睡もしていないでしょ?」
その通りだった。興奮や緊張でとても寝付ける状態ではなかったのだ。彩音さんの方は今朝にサンドイッチを食べた後、椅子に拘束された状態で数時間眠っていた。
「寝ようよ。大丈夫、彩音は逃げたりしないよ」
だが少女と同じ部屋で寝る、ということに妖しげな響きを感じ、私はすぐに同意できなかった。起きていようが寝ていようが少女と同じ部屋で二人きりな時点で大差はないし、私が勝手に不埒な意味合いを見出してしまっているだけとも分かっているけれど、理屈ではない部分でどうしても脈拍が早くなる。
「あ、その前に、お願いしてもいいかな」
「な、何だろうか」
彩音さんは照れるようにはにかんで、云った。
「お風呂に入りたいの」
3
お風呂と云っても私の部屋にあるのはトイレを兼ねた狭いユニットバスで、湯船を張った試しなんて一度としてないので、シャワーを浴びるのみとなる。
女性が身体を洗わずに長い間いることに耐え難いだろうとはさすがの私でも分かるし、彼女にはできる限り快適に過ごして欲しいので、私は当然シャワーを貸した。
シャワーの水が床や壁を叩く音が、扉一枚隔てて聞こえてくる。
私は落ち着かなかった。すぐ近くで、少女が裸になっているのだ。平然としていられるはずがない。しかし、こんな疚しい考えばかりが浮かぶなんて、私はなんて心の穢れた人間なのだろうか。
心を落ち着けるために、別のことを考えようと決めた。今まではずっと彩音さんが目の前にいたので――なにぶん、狭い部屋である――あまり考えに没頭できなかったのだが、考えるべき事柄があるのだ。
彩音さんは、私が女神と呼び崇める玖貝麗子の妹なのだ。
これは何という巡り合わせだろうか。数奇、という言葉では追いつかない。奇跡と云っていい。まず起こり得ない確率の事象だ。
私はいま、女神の親族を手中に収めているのである。手中に収めている、なんて云い方は思い上がりも甚だしいが、興奮のあまり、つい思い浮かんでしまった。それに私が彩音さんを下に見ているなんて有り得ない。私こそが下で、彩音さんは私に光を与えてくれる高位の存在と云うのが正しい。
彩音さんは私を救ってくれたのだ。彼女は私と共に過ごしてくれると云う。人間が怖くて、孤独で、死にそうだった私……それでも感じてしまう人恋しさが肥大化し、一世一代の大仕事とばかりに少女に拉致まがいの行為を働いた……その相手が、私を傷付けるのではなく、受け入れてくれると云うのだ。
こんなに慈悲深いことはない。
玖貝麗子と同じ血が流れているのも頷ける。麗子さんが女神ならば、彩音さんは聖女だ。この世界に溢れ返っている暴力の権化とも呼べる人間達とは違い、優しく、穢れなく、私のような欠陥品にも救いの手を差し伸べてくれる聖女。
私は打ち震えた。私が辛うじて生きてこられたのは、女神――玖貝麗子のおかげだ。私は彼女の美しい姿をたまにでも、少しでも拝見できればと思い、生きてこられた。彼女に縋り、彼女を崇め、祈りを捧げた。それでも限界が近づいてきたかと思えば、今度は聖女――玖貝彩音が現れたのである。きっとこれは、麗子さんに祈りを捧げ続けた敬虔な私に訪れた福音なのだ。身にあまる幸福である。
彩音さんに拉致まがいの行為を働いたのは、いくら切実な思いで以てだったとしても、許されざる罪である。そのときの私に疚しい気持ちが一切なかったとも、恥ずかしながら云えないのだから。
それでも女神は、聖女は、私に情けをかけてくれた。
だからこそ、私はこの救いを裏切るような真似をしてはいけない。彩音さんを穢すような行為は絶対に許されない。それは聖女どころか女神に仇なすと同義だ。
「お兄さん」
扉の向こうから、彩音さんが私を呼んだ。気付けば、シャワーの音は止まっていた。
「な、何だろうか」
「下着は無理だと思うんだけれど、服、貸してくれないかな。パジャマじゃなくても、ジャージでも、何でもいいんだけど」
たしかにいつまでも制服では疲れてしまうだろう。さらにそれで寝るともなれば、制服だって皺になってしまう。
しかし外出を最小限に抑えるように生活している私なので、私服が極端に少ない。スウェットを貸そうかとも思ったが、そういった部屋着は私の生活臭が特に染み付いている気がして、彩音さんに着せるのは躊躇われた。それに、そもそも、私は大柄な方ではないが、女子中学生である彩音さんの身体のサイズに合うものとなると、ひとつもなかったのだ。
私が頭を悩ませていると彩音さんが、
「シャツを一枚貸してくれるだけでいいよ」
その言葉どおり、私は学校指定の白シャツを浴室の扉の前に置き、居間に戻った。やがて着替えた彩音さんが浴室から出てきた。彼女は、彼女が着るには随分と大きなそのシャツをワンピースのように着ており、裾から出ている足には何も履いていなかった。まだ乾いていない髪や、赤らんだ顔、そういったすべてが私の目には途轍もなく扇情的に映ってしまい、咄嗟に視線を逸らした。
「お兄さん、ドライヤー持ってない?」
「も、申し訳ないが、持っていない」
「じゃあ自然乾燥でいいかな。お兄さんもシャワー浴びてきたらどう?」
彩音さんは綺麗に畳まれた自らの制服を部屋の隅に置いて、そう云った。不潔な男と思われたくはないし、今の彩音さんが発する色気には否応なしに気まずいものを感じてしまうので、私はその言葉に甘えることにする。
箪笥から下着やスウェットを引っ張り出して、まだ熱のこもっている浴室に逃げるように這入った私は、服を脱いでからやっと重大な事実に思い至った。
私はこれから、彩音さんがつい先程まで使っていた浴室でシャワーを浴びるのだ。畏れ多い。実に畏れ多い。そう云えば、この浴室がほのかに、彩音さんの香りで満たされているようにも感じる……。
自らを落ち着かせようと、深呼吸を繰り返しながらシャワーを浴びた。




