「もたらされた慈悲」(終)
柏崎くんが奇声を発しながら、こちらに駆けてきた。その手には包丁が握られている。
僕は咄嗟に麗子さんと彼との間に飛び込んだ。柏崎くんは麗子さんを殺すつもりだ。そんなことをさせてはならない。だがそれは、僕が代わりに刺されることを意味していると、遅れて気付く。僕は全身に力を籠め、衝撃に備えた。
しかし僕は刺されなかった。
柏崎くんは真っ直ぐ、ゆめに向かって行ったのだ。その手に握られた包丁はゆめの腹に深々と刺さった。僕の背後で麗子さんが悲鳴を上げる。ゆめは未だに自分が何をされたのか分かっていないような表情で、そのまま床に倒れていく。柏崎くんも一緒に、彼女に覆い被さるような格好で倒れる。すると柏崎くんは包丁を引き抜き、再度ゆめの腹に突き刺した。
僕は柏崎くんの身体を全力で蹴り飛ばした。彼はゆめの上から吹っ飛び、壁に激突した。
「どうしてだよ! どうしてゆめを!」
僕は怒鳴っていた。柏崎くんに殴り掛かろうとした――が、そのとき僕は、彼が不思議そうな表情を浮かべていることに気付いた。
「ま、ま、待って欲しい……ゆ、め?」
柏崎くんは本当に困惑しているらしく、床に倒れているゆめを一瞥し、また僕を見据えた。
「彼女は玖貝麗子だろう?」
「え?」
「貴方がそう教えてくれたではないか」
僕も困惑していた。柏崎くんに殴り掛かろうとしていた気勢が消えていた。
「彼女はゆめだ。麗子さんはこっちの――」
「いいや、違う。私は彼女こそ玖貝麗子と教えられた……」
ふと、僕の脳裏で、ある会話がよぎった。
いつだったか、柏崎くんが僕に訊ねたのだ。
――貴方が時々会話を交わしている、あの美しい女性は、何という名前なのだろうか。
美しい女性、という言葉から、僕はなんの疑問もなく、
――麗子さんだね。玖貝麗子さん。
それから僕は麗子さんについていくらかを柏崎くんに教え、その話題はそれきりとなった……。
「しん……いち……」
茫然と立ち尽くす僕の耳に、ゆめの声が届いた。僕は我に返り、床に倒れている彼女に視線を向ける。
ゆめも僕を見詰めていた。腹からは大量の血が流れ、彼女を中心に、床を広がっていく。
ゆめは振り絞るように、云った。
「死にたく……ないです……」
それがゆめの最期の言葉だった。
『ある慈悲深き恋の結末』終。
19歳の冬に書いた小説でした。




