3「不器用な二人の逃避行」
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仲野宮家に到着した僕は自転車を門の前に置き、敷地内に這入った。ゆめの父親も帰っているだろうし、母親だけだったとしても、夜分に娘が外出するのを快いと思うはずがない――そう、僕はゆめを連れ出しに来たのだ。だからそのためには、馬鹿正直にインターホンで呼び出すというわけにはいかない。
僕は庭を回り、ゆめの部屋の窓を見上げる位置までやって来た。カーテンの隙間からはわずかな明かりも洩れていない。しかし、眠っているのか、暗闇が好きな彼女なので電気を点けていないのか、その判別は難しいものの、どちらにしても部屋にはいるに違いない。どう呼び出せばいいだろうか。
窓に向かって小石を投擲する方法が浮かんだが、傷でも付けたら大変だ。ならば僕がじかに窓をノックするしかあるまい。幸い、ゆめの部屋の窓の下――一階と二階の間にあたる高さ――から小さな屋根がせり出している。と云うか、一階部分が二階に比べて大きいので、その段差めいたものと表現するのが適当か。
僕は一旦その場を離れて、自転車を持って戻ってきた。自転車を壁際に置き、その荷台の上に立ち、せり出している屋根によじ登る。傾斜があるので滑り落ちないように注意しつつ、ゆめの部屋の窓に近づく。
鼓動が早くなっている。緊張のせいで手が震える。しかし、覚悟はもう決まっていた。
僕は手の甲で窓を叩いた。眠っているならこの程度では起きないかも知れないけれど、あまり音を立てるとゆめの両親に気取られてしまう。一階のリビングにあたる部屋の窓からは明かりが洩れていた。
反応がないので、再度同じくらいの強さで叩く。するとカーテンが半分開いて、中からゆめの顔が覗いた。さすがの彼女も驚いたらしく、窓越しに「わっ!」と素っ頓狂な声が聞こえてきた。
開けて欲しいとジェスチャーで示すと、彼女は素直に窓を開けてくれた。だが彼女は一時虚を衝かれたとはいえ、早くも先程の別れ際の雰囲気を取り戻していた。
「なんですか。えらく奇抜な登場ですが、いまの時刻を差し引いても不躾ですよ」
僕は窓を閉められないうちにと思い、ゆめの手を掴んだ。
「ついて来てくれ、ゆめ」
そう云って手を引いたが、彼女は「ちょっとちょっと」と慌てながらも抵抗した。
「い、意味が分かりません」
それは僕だって百も承知だが、理屈で考えてはいけないのだ。僕は、僕らは、そうやって今までずっと間違え続けてきたのだから。だから、今はとにかく衝動的に、思い付くままに行動しなければいけないのだ。
「ゆめ、僕は本気だ。このまま何処か、知らない場所に行こう。ゆめが云っていたとおりにだよ。さっきは詰まらない返事しかできなくてごめん。だけどようやく分かったんだ、ゆめの気持ちが」
ゆめはそれでも混乱しているようで、納得する様子は見られない。ただ、抵抗は止んでいた。僕がまた手を引くと、今度は窓から出てきてくれた。
「さ、寒いですね」
身を縮ませたゆめを僕は抱き上げるようにした。彼女は「真一っ?」と、またも上擦った声を発した。いつもは彼女に振り回され気味の僕だけれど、こうして立場が逆転してみると、案外愉快な気持ちだ。
僕はそのまま屋根から飛び降りた。ゆめの絶叫が夜空に響き渡るように感じられた――耳のすぐ傍で発されたのだから当然だ。僕は庭に着地し、背中から転がるようにして受け身を取った。それでも全身を電撃が奔ったかのような衝撃が駆け抜けた。
「大丈夫ですか!」
僕の上に覆い被さっているゆめが似合いもせず、大きな声を出している。この声量では、彼女の両親にも聞こえてしまっただろう。
「問題ないよ。それよりも、早く行かないと。自転車の荷台に乗って」
僕は身を起こしながら指示した。ゆめは僕の奇行に圧倒でもされているのか、借りてきた猫みたいに大人しく従ってくれた。
「これ、真一の自転車ですか?」
「そうだよ。寒いでしょ、これ掛けて」
荷台に跨った彼女に、僕は自分が羽織っていたコートを渡した。ゆめは部屋着である白シャツ一枚にハーフパンツという出で立ちだったからだ。
「え、でも、真一、ぼ、僕、二人乗りなんてしたこと……それどころか自転車なんて乗れないのですが……」
後ろでまごついているゆめに「しっかり僕に捕まって」と云って、僕はペダルを思いきり踏んだ。庭は足元が芝生なせいもあって安定しなかったけれど構わずに、そのまま道路に飛び出した。
「わ、わ、わわわわ、怖いです怖いです怖いですっ」
僕の身体に万力みたいな力でしがみ付きながら、ゆめは兢々としている。僕の方も後ろに人を乗せて自転車を漕ぐなんて前回がいつだったかちょっと思い出せないくらいなので、割かし集中力を要求されていた。
それでも段々と調子が出てきて、気付けば軌道に乗っていた。ゆめも騒ぐのはやめていた。騒ぎ疲れたか、ある種の諦めがついたか、どちらかだろうけれど。
「も、もう少し、遅めに……わっ、お願いします……」
これは狙っていたわけでもないのだが、初の自転車の二人乗りによってゆめは、僕との間につくっていた張り詰めた空気をすっかり解いていた。
「どこか当てがあって、きゃっ、走っているのですか?」
「いいや、まったく何も決めていないよ」
「ええっ」
とにかく何も考えずに、一心不乱にペダルを漕いでいる。行先について少しでも思い浮かべてしまったら、この行動の意味はたちまちなくなってしまう。冷静な自分を無理矢理引っ込めるために、そしてより遠くまで突っ走れるように、自転車でやって来たのだ。
「我武者羅に、ひたすら知らない場所を目指すんだ。特にゆめは考えすぎる癖があるから、注意してよね」
「め、滅茶苦茶ですよ。真一、いつからそんな破天荒になったのですかっ」
ゆめの声は非難するような内容とは裏腹に、いつになく楽しそうだった。きっと僕の声も彼女に、そんなふうに響いているのだろう。




