第二章 変わり行く世界(1)
自然豊かな山脈に周囲を囲まれた小さな村、エルム。
天高くから照り付ける陽光がこの季節特有の蒸し暑さを醸し出し、村人達の額に汗が伝う。男達は外に出て農作業を営み、又は山に赴き狩りをする。女は家事に勤しみ、幼い子供は村の小さな広場で遊戯に興じていた。ありふれた、日常。決して裕福という訳ではないが、貧しい訳でもない。平穏な生活が、其処には根付いていた。
「お、おい……あれ見ろよ」
「ありゃ、フィーシャんとこの小僧だな。ん? おいおい。また妙なもんを───」
ふと沸き起こる動揺の声。それは村の平穏を俄に乱す。
村の外れにある畑で日課の農作業をしていた男は、山の山道から降りて来た青年に目を向けた瞬間、目を見開くと隣で作業をしていた男に声を掛けた。それを受けた別の男も、青年を目にした瞬間、戸惑いの表情を浮かべる。否、正確には青年の肩に担がれた少女を目にした瞬間、と言うべきか。
「おい! フィル、その女はどうしたんだ? 確かお前、山に狩りに行った筈だよな?」
「だははははっ 女を狩って来たってか? オメェも隅に置けねぇな」
冷やかしの言葉を投げ掛ける男の言葉を受け、男達の傍までやって来た青年が表情をしかめる。「そんなんじゃないですよ」と身の潔白を口にし、真実という名の弁解を始めた。
「いやぁ、僕も驚きましたよ。山に狩りをしに行ったつもりが、まさかこんな事になるなんて」
青年、ウィルの弁解はこうだった。狩りをしに山に入って一時間。山の中腹に来ていたウィルは偶然、泉の岸に倒れていた少女を発見、出来る範囲で容態を診た後、手当てをする為に村に引き返して来たとの事だった。少女の容態は、意識を失っているものの、外傷は診られなかった。その変わり、身に付けていた衣服は濡れており、早く着替えさせないと風邪をひく可能性は十分考えられた。ウィルが男でなければ、その場で対応を出来たのだろうが、ウブな彼には些か無理なものだった。
「じゃあ僕はこれで」
ウィルは男達への説明もそこそこに、家へと急いだ。
家に着くなり、ウィルは台所に立っていた母に歩み寄る。
「ただいま。母さん、ちょっといいかな?」
息子の声に振り返った母、フィーシャは肩に担がれた少女を認めるなり「あらあら」とにこやかに、何か含みを感じさせる微笑みを漏らした。
優しい色合いをした金色の長髪は緩やかに波打ち、綺麗な顔立ちをしている。日向の様な暖かな雰囲気を持った、おっとり美人妻である。村の男達の間では、絶大な人気を誇る。彼女の血を受け継いだウィルも、小さな村に置いとくのは勿体無い美青年風だ。
それはさておき、母の心理に気付いたウィルは早々に「そんなんじゃないからね」と、誤解を解く。
「まぁ、そうなの? お母さん残念だわ。ウィルもいい加減、もういい歳なんだから───」
「はいはい。今そんな事はいいから。それよりも母さん、この娘、着替えさせてあげてくれないかな?」
ウィルの困りきった顔を見て、フィーシャは少女へと視線を移す。そして「わかったわ」と頷く。
「じゃあ、お母さんの部屋に運んでくれるかしら?」
その後、少女はフィーシャの部屋へと運ばれ、彼女の手によって着替えを済ませた後、そっとベッドに寝かせられた。
「それにしても……綺麗な娘」
整った目鼻立ちに見事な曲線を描く柳眉。瑞々しい果実の様な潤いを帯びた唇。そして何よりも、その毒々しくも華麗な深紅の髪まで。全てが整い過ぎた(・・・・・)美貌。
フィーシャの心に羨望と嫉妬、畏怖の感情が渦巻く。一人の女としてではなく、一人の人間として、少女に魅入っていた。どれくらい時間、そうしていただろうか。不意に聞こえてきたドアをノックする音に、フィーシャは顔を上げる。
「母さん、終わった?」
「ええ、終わったわよ。目が覚めるまで、寝かしておいてあげましょう」
フィーシャの返答に何処か上の空な相槌を打つウィル。
その後、二人は居間へと移動、ウィルは事の経緯を詳しく語り始めた。
「何故あんな場所に倒れていたのか、まぁ気になるところだけど……」
「きっと、何か事情があるのよ。本人から話してくれない限り無理に聞く事じゃないわ」
専ら、平和な村の日常はそんな風に過ぎて行くのだった。
───それから三日が経ったある日の夜。
フィーシャは、今日という日を平穏無事に過ごし、夕食を終えて床に就いていた。そして、彼女が重い瞼を閉じ、睡魔に身を委ねようとしたしたその刹那、不意に聞こえてきた木製のベッドが軋む音に、彼女は再び意識を覚醒させた。
「───此処は、何処? ん? あなた……誰?」
部屋にある小さな窓から差し込む月明かりの下、目覚めた件の少女が開口一番フィーシャにそう問い掛けた。
一方、ここ数日間もの間死んだ様に眠り続けていた少女の突然の目覚めに、呆然とするフィーシャ。だがそれも束の間の事で、やっと目を覚ましてくれた少女を見て、フィーシャは表情を綻ばせた。
「やっと目を覚ましてくれたわね。良かったわ……」
「え? あ、えっと……何この状況。私、死んだんじゃ……あれ? もしかして、助かったの、私」
少女は何やらブツブツと独り言を漏らし、フィーシャは安堵の表情を浮かべる。少女が自らの頬をつねったり引っ張ったりしている間、フィーシャはそっと少女に身を寄せた。
「何があったのか知らないけど、アナタ、ずっと眠ってたのよ? 本当、良かったわ」
「っ! あ、あの……此処は病院ですよね? 私あの後どうなったんですか!?」
あたふたとしながらも、少女は、何とか言葉を紡ぎ出す。この時少女は、フィーシャの事を看護婦なのだろうと思っていた。だが、返ってきた言葉は、その考えを根本から否定する。
「ビョウインって何んの事かしら? 此処は貴女の言うビョウインではないけれど。因みに、此処は私の家よ。
小さい村だから、大きな町のように医療院はなくて、満足な治療も出来ないけど、もう大丈夫みたいね。特に怪我もなかったし、心配ないと思うわ。
それと、もし良かったら……名前だけでも教えてくれるかしら?」
少女はフィーシャの醸し出す独特の雰囲気に、我知らず気を許す。自分の名を教える事に、何ら抵抗もなかった。
「……神城 雀鵺。それが私の名前です。それで……私はどうやって此処に……その……」
部屋の中を見回してみるが、流石に月明かりだけでは灯りとして頼りない。夜目に慣れていない所為か、部屋の全容はぼんやりと分かる程度だった。
「そう、私の名前はフィーシャっていうの。宜しくね? ……でもカミシロって珍しい名前ね。貴女は私の息子に、山の泉で倒れていたところを助けられたの。それで、此処に運ばれて今に至るのよ」
返すフィーシャの言葉に、雀鵺は「え? フィーシャ……さん? 外国人の方ですか?」と無意識に言葉を漏らす。フィーシャの口から語られた経緯よりも、彼女に名前に対する関心が勝る。また、それと同時に、雀鵺は自分の置かれている状況にも少しずつ違和感を覚え始めていた。
雀鵺本人の認識では、自分はあの日友人達と行ったお寺での肝試しで不自然な事故に合い、境内の一角にあった古井戸に落下。溺れかけたのを覚えている。
じゃあ自分の置かれている現状はなんなのか。仮にフィーシャの言う通り自分が彼女の息子に助けられたとして、其処に疑問を差し挟む余地は十分ある。 第一に、あの場で助けられたとして、自分を救出した人物はあの場で共に行動していた友人か、もしくはその友人達によって呼ばれ駆け付けた警察関係者になる筈。この、自分の隣に居るフィーシャという女性は明らかに場違い(・・・)だ。
しかも、段々と視界もよくなって行く──夜目に慣れる──につれ、此処がログハウスの様な造りの一室だと知る。そう、病院ではないのだ。
(……どうなってるの、これ。どうなったの、私は……)
まるで、チグハグだ。意識を失う前の記憶と現在の、決定的な違和感。普通であれば、混乱し、取り乱すのが一般的な反応だろう。だがしかし、幸いな事に雀鵺は違った。このような窮地に立たされた場合、意識は混乱するばかりか、逆に冷静になって行く。雀鵺はピンチに強い人間だった。
改めて、この非常事態を再認識した雀鵺は、意を決して開口した。
「……あの、色々とお話したい事があるのですが。出来れば、灯りか何かお願い出来ますか? あまり、暗い所には慣れていないもので」
それから直ぐ、雀鵺の要望を受けて、灯りは用意された。だがここでも雀鵺は自分の目を疑う事になる。
用意された灯り、それは頼りなく小さな篝火が揺れる蝋燭だった。しかし、このお陰で視界がより鮮明になった事は確かだ。
「はい、これで大丈夫かしら?」
「え、えぇ。ありがとう、ございます」
部屋にあるであろう照明器具のスイッチを押す訳ではなく、お洒落なキャンドルに火を灯した訳でもない。ただの蝋燭だった。
それに加えて明らかになったフィーシャの容姿。特にその金色の髪を目にした時は息を飲む勢いだった。染料で染めた様な色ではなく、西洋人の様な生粋のブロンドヘア。
(……何だか、イヤな予感がする)
「それで、お話ししたい事───というよりはお訊きしたい事があるんです。
実は私、友達と遊んでる時に古井戸に落ちたんです」
「古井戸?」
「えぇ、古井戸です。でも、私を助けてくれたアナタの息子さんは、私を泉で発見し、助けてくれた。
……間違いありませんよね?」
慎重に言葉を紡いで行く雀鵺に、フィーシャは「えぇ、そうよ」と答える。
(…………これは、所謂……アレかしら。いやいや、有り得ないわよ。あんなの、空想でしかないじゃない。でも、この人が嘘を言ってないとしたら……まさか……)
背中に冷たい汗が伝う。喉が急速に渇く様な錯覚を抱き、雀鵺は次の言葉を、疑問を口にするのに時間を要してしまった。 有り得ないと頭を振るが、どうやらその希望的観測は脆く、今にも幻想に消えて行きそうだった。
「あの、変な事を訊くようですけど───」
「何かしら。何でも訊いてちょうだいな」
「じゃ、じゃあ遠慮無く。
えっと、此処って日本、ですよね?」
その問いに対し、フィーシャは始めて表情を歪めた。眉間に皺を寄せ、困惑した表情で雀鵺を見る。
「…………(ドキドキ)」
「………………」
数秒の間、交わる雀鵺とフィーシャの眼差し。雀鵺は心臓の鼓動が早まる音を感じつつ答えを待つ。恐らく、フィーシャの口から紡ぎ出されるであろう、最悪の(・・・)答えを。
対し、フィーシャは、心配する様に雀鵺の顔を覗き込んでいた。まるで病人を労る様な、そんな目で。
(……記憶障害でも患っているのかしら? だとしたら……)
夜風が窓を揺らす。カタカタとその音だけが、静寂に包まれた部屋を支配する。
けれどそれは、嵐が起こる前触れか。雀鵺にとって不吉な静寂だった。
「可哀想に……、記憶がないのね?」
「……えっ?」
労る様に口ずさまれた言葉。それに小さく疑問を漏らした雀鵺の言葉を遮り、フィーシャは一拍言葉を置いて続けた。
「此処はね───」
雀鵺にとって、残酷な答えを。




