第1話 インクと汗と、町屋の夏
ガシャン、ガシャン、ガシャン。
規則正しい金属音が、うだるような熱気の中に響き渡る。
西暦2050年、8月。
東京都荒川区、町屋。
かつては「下町」と呼ばれたこの街も、今では頭上を音もなく滑空する配送ドローンや、巨大な空中回廊に空を奪われている。
だが、一歩路地裏に入れば、そこには50年前と変わらない景色がへばりついていた。
密集する古い木造家屋。錆びついたトタン屋根。
そして、俺の城である「石神印刷所」から吐き出される、油とインクの染み付いた匂い。
「くそっ、今年の夏は一段と堪えやがるな……」
俺、石神鉄男、42歳。
首に巻いた薄汚れたタオルで、顔中から吹き出す汗を乱暴に拭った。
工場の隅で首を振っている旧式の扇風機は、生ぬるい風をかき混ぜるだけで、何の役にも立っちゃいない。
目の前で唸りを上げているのは、親父の代から使い続けているオフセット輪転機だ。
今の時代、広告なんてものは個人の網膜に直接配信されるのが当たり前だ。紙のチラシなんて、資源の無駄遣いだと笑われる。
だが、ここ町屋の商店街には、まだ「紙」の手触りを愛する人間たちが残っていた。
「あなた、お茶入ったわよ。少し休んだら?」
工場の奥から、妻の由美、38歳が麦茶の入ったヤカンとコップを持って現れる。
手拭いで髪をまとめた彼女の額にも、うっすらと汗が滲んでいた。
俺たちはこの狭い工場で、共に歳を取り、共に汗をかいて生きてきた。AIに家事を任せてタワマンで暮らす連中とは違う。だが、俺はこの「手触りのある生活」が悪くないと思っていた。
「おう、サンキュ。……翔太のやつは?」
「また外で遊んでるわよ。元気なんだから」
由美が呆れたように笑ったその時だ。
「とーちゃん! まだ終わんないの?」
工場の入り口から、12歳の息子・翔太が顔を覗かせた。
ランニングシャツからはみ出た、日焼けした細い腕。
泥だらけの膝小僧。
その手には、近所の駄菓子屋で買ったらしい、安っぽいソーダ水の瓶が握られている。
全身から湯気が出そうなほどの、生命力の塊。
AIがどれだけ精巧に人間を模倣しても、この荒川の日差しを吸い込んだような「夏の匂い」だけは再現できまい。
「うっせえな、あと100枚だ。これ刷り終わらねえと、精肉店の田村さんが楽しみにしてる特売ができねえんだよ」
「ふーん。じゃあさ、刷り上がったら俺が届けてやろうか?」
翔太がニカっと笑って、白い歯を見せる。
こいつは、俺の仕事を手伝うのが好きだった。インクで手が汚れるのを嫌がる今どきの子供とは違う。
「おっ、言うじゃねえか。じゃあ頼むわ。その代わり、小遣いは弾んでやらねえぞ」
「えー! ケチだなあ」
俺たちは笑い合った。
輪転機の音が止まり、最後のチラシが排出される。
インクの独特な匂いが、ふわりと舞い上がった。
俺は、出来たての、まだ温かいチラシの束を紐でくくり、翔太に手渡した。
「ほらよ。駅前の田村さんのところだ。都電の線路沿いは危ないから通るんじゃねえぞ」
「わかってるって! 行ってきまーす!」
翔太はチラシの束を抱え、軽快な足取りで工場を飛び出していった。
町屋の狭い路地へ、小さな背中が溶けていく。
「気をつけてね!」
由美が背中越しに声をかける。
翔太は一度だけ振り返り、チラシを持った手を大きく振った。
――それが、最後だった。
俺があいつの、五体満足な姿を見たのは。
あいつが自分の足でアスファルトを蹴り、自分の手で俺に手を振った、正真正銘の最後だった。
工場には再び、扇風機の回るブーンという音だけが残された。
俺の手には、まだあいつに渡したチラシの温もりが、インクの染みと共にこびりついていた。
この数時間後。
俺たちの日常は、唐突に、そしてあまりにも理不尽に終わることになる。
続く




