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世界が落ちる前に ~勇者が魔王と戦っている裏で、異世界がバグらないようにひとりで回してます。なお前任の神は辞めたそうです~  作者: あべのちょふ


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第35話「もう一度、世界を動かす」

 エンターキーを押した瞬間、世界が、止まった。


 すべての音が消えた。風が止まった。ダンジョンが凍った。地上の住人のステータスウィンドウが、一斉に消えた。


 一秒。


 二秒。


 三秒——


 その三秒のあいだ、俺は何も考えなかった。考えなかった、というよりも、考える余裕がなかった。いままで積み上げてきた判断のすべてが、いまこの瞬間に試されている。失敗したら、戻す手段はもうない。前の世界のロールバック手順は、今回ばかりは用意できなかった。


 その三秒のあいだ、北部の戦場でも、時が止まっていた。


 剣を振り下ろしていたアリアの腕が、空中で固まっていた。盾を構えていたカイルの足が、地面を踏みしめたまま動かなかった。フィオナの術式の最終段階が、輝きをそのままに止まっていた。リーゼルの祈りの杖の鈴が、鳴る寸前で止まっていた。ヴェルノスの周りの黒い霧でさえ、渦巻く途中の形のまま、宙に貼りついていた。


 止まっていたあいだに、最後の旧シャードは、丸ごと新世界へ運ばれた。剣の軌道も、盾の重みも、術式の組み目も、祈りの音も、ヴェルノスの霧も——進行中だったすべてが、形を保ったまま、新しい世界の上に置き直された。


 そして。


 世界が、再び動き出した。


 新しい設計の上で。


          * * *


 北部の戦場。


 アリアの剣が、止まっていた軌道の続きを、何事もなかったかのように振り抜いた。手応えは、なかった。


 彼女は一瞬、目を瞬いた。空気の感触が、ほんの少しだけ、違っていた。


「……いま、何か——」


「気のせいかもしれねぇな」と、カイルが盾を下ろした。「でも、肩のあたりが、急に軽くなったような気がしねぇか」


「するわ」とアリア。「重い空気が、晴れた感じ」


 フィオナがノートを閉じた。何ページも書き込んでいた術式の最終段が、整然と並んでいた。


「術式が、なめらかに通りましたわ。今までで、いちばん」


 リーゼルの祈りの杖の鈴が、ようやく鳴った。澄んだ、よく響く音だった。


 ヴェルノスの周りに渦巻いていた黒い霧が、ふっと、晴れていった。


 その中に立っていたのは、もう、鎧の魔王ではなかった。半透明の人型——どこかエルディアスの面影を持つ、静かな存在だった。


 ヴェルノスが、自分の手のひらを見つめた。


「……命令が、消えた」


 はじめて、彼の顔に、表情が浮かんだ。困惑。そして——安堵。


「私は……もう、滅ぼさなくていいのか」


 彼の声には、武力の重みではなく、長く与えられ続けた役割を、はじめて自分の意志で確かめている響きがあった。


 アリアが、剣を降ろした。


「あなたも、この世界の一部だったのね。ずっと」


「……私は、何になればいい」


「何にでもなれる。あなたはもう、自由だから」


 ヴェルノスがアリアを見た。それから、自分の足下を見た。それから、もう一度、空を見上げた。


 そのとき、戦場の端から、ひとりの男が、ゆっくり歩いてきた。


 銀灰色の髪。左目だけ青い色。軍服風の装束。剣は持っていなかった。


「ゼーレ——」


 ヴェルノスが、彼の名を呼んだ。


 ゼーレは、彼の正面に立った。


「主よ。……いや、ヴェルノス。命令のない世界で、共に歩きませんか。私も、何になるかはまだ決めていません」


 ヴェルノスは、長く長く、息を吐いた。


 それから、ほんの少しだけ、うなずいた。


 二人が並んで、戦場を歩き始めた。アリアは、しばらくその背中を見送ってから、剣を鞘に戻した。


          * * *


 管理層。


 俺は、ダッシュボードに視線を戻した。


 新しい設計の上で、世界が動いていた。リソースの再配分が始まっていた。サブプロセスたちのコンソールに、戻ってきた数値が、一つずつ反映されていた。


「おお……力が、戻ってきおる」


 ダンジが、自分の体を見下ろした。灰色がかっていた輪郭が、もとの色に戻っていく。彼の声に、感情がはっきり乗っていた。


「しかもこれは……前より、良いぞ」


 ダンジが、新しいダンジョンの構想を、その場で書き始めた。彼の目が、職人の目に戻っていた。


 セレスのコンソールから、明るい声が届いた。


「あら……お天気が、わたしの思った通りに動いてくれるの。前より、ずっと素直ね」


 彼女が嬉しそうに制御を緩めた瞬間、世界中の空に、虹がかかった。何箇所も、何箇所も、同時に。


「あら、あらあら、こんなに——ごめんなさい、嬉しくて」


 彼女の髪は、もう、空色に戻っていた。


 カルクのコンソールには、新しい数式が、整然と並び始めていた。前よりも、なめらかで、なめらかで、美しかった。


「数式が……数式が、正しい……! 完璧に正しい!!」


 カルクが、メガネを外して、目を擦った。涙が出ているのを、隠そうとしていた。


「カルク」


「は、はい」


「約束、守ったぞ」


「……は、はい——っ」


 彼が、結局、メガネを外したまま、泣き始めた。


          * * *


 ノードのコンソールが、最後に応答した。


「あれ……わたし、昨日何を食べましたっけ」


「管理層に飯はねぇよ」


「あっ、そうでした。……えへへ」


 ノードが笑った。


 数千年で初めて、「忘れっぽい自分」を、笑える余裕ができた笑顔だった。


 目の光は、完全には戻っていなかった。記憶の一部は、たぶん、これからもときどき欠けるだろう。でも、彼女はそれを、もう恥ずかしがらなかった。


「悠真さん」


「なんだ」


「えーと……みんな、戻ってきましたね」


「ああ」


「あの、悠真さんも、ちゃんと、いますか」


「いるよ」


 ノードが、ほっとした顔をした。


「……良かったです」


          * * *


 俺は、メインダッシュボードを開いた。


 ステータスが、画面の上から下まで、淡い緑色で表示されていた。


 全サービス、正常稼働。

 世界の状態、安定。

 アラート件数——ゼロ。


 俺は、しばらく、その「ゼロ」を見つめていた。


「悠真さん? どうしました?」


「いや」


「えーと……嬉しくないんですか?」


「いや、嬉しい。ただ、こう思ったんだ」


 俺はダッシュボードを、一度閉じた。それから、すぐに、開き直した。


「——運用は続く」


 ノードが、小さく吹き出した。


「えーと……それ、悠真さんが、いちばん言いそうな言葉です」


「うるさい」


          * * *


 夜。


 俺は、新しい設計の深層に、まだ見たことのない領域を見つけた。


 古い設計を停止する作業の最中、新しい設計の中に、エルディアスが残していた最後のコメントが、浮かび上がってきた。たぶん、新しい設計が動き出した瞬間に、参照できる状態に切り替わったんだろう。


`// 次に来る者へ。世界を終わらせるか続けるか、私には決められなかった。`

`// だが、もし続けるなら——ひとりで背負うな。`

`// 私はそれができなかった。`


 俺は、しばらく、その三行を見つめていた。


 長い間、画面に向かったまま、何も書かなかった先代の姿が、ふっと頭に浮かんだ。たぶん、この三行を書くまでに、彼は何度もカーソルを行き来させた。書きかけては消し、書きかけては消し——最後に残ったのが、削ぎ落とした三行。


 それから、誰に言うでもなく、つぶやいた。


「……遅ぇよ。もう知ってる」


 画面の中の三行は、答えなかった。


 ふと、思い出した。ガルドの台帳に残っていた、ダンジョン最深部の人影。装備のない誰かが、何度も最深部を歩いていたという、複数件の目撃証言。あれが何だったのか、結局、確かめる機会はなかった。


 でも、いまならわかる気がした。


 たぶん、前任者の、消えきれなかった残り香だった。世界の終わりを設計しながら、終わらせきれずに迷っていた誰かが、深層と地上の境目を、ひとりでうろついていたんだろう。


 その誰かは、もう、いない。新しい設計の中には、終わりも、迷いも、組み込まれていない。


 ノードが、後ろから覗き込んだ。彼女の目に宿るやわらかい金色が、エルディアスの三行を読むあいだ、ほんの少しだけ深くなった。それから、また、いつもの光に戻った。


「……今、なんだか、懐かしい気持ちになりました。なんでだろう」


 俺は、ノードの頭に、ぽんと手を置いた。


 彼女は何も言わず、ふっと、笑った。


          * * *


 新しい設計の上で、世界は穏やかに動いていた。


 数値の上では、ただの「正常稼働中」の表示しかなかった。だが、その緑色の文字列の裏側で、いま、いくつもの人生が、それぞれの場所でひっそりと続いている。


 北の戦場跡では、ヴェルノスとゼーレが、剣を置いて、どこかへ歩き始めていた。

 南部のリオン村では、ミラが土に水をやっていた。

 神殿では、リーゼルが、回復魔法の代償で削った生命力を、ゆっくり取り戻していた。

 ギルドでは、ガルドが、ペーパーウェイトの折れた剣の柄を、いつものように軽くなぞっていた。

 森の中では、フィオナが、新しい魔法体系のノートを、最初のページから書き直し始めていた。

 町の中では、カイルが、革細工の道具を取り出して、誰かのために何かを縫っていた。

 北部の街道では、アリアが、空を見上げて、ふっと、ほほえんでいた。


 みんな、それぞれの場所で、新しい世界を、生き始めていた。


 俺はダッシュボードを、そっと閉じた。


「ノード、明日も、運用だ」


「えーと……はい」


 管理層の片隅で、俺たちは、夜を迎えた。


 世界が、続いていた。


お読みいただきありがとうございます。


【今回のIT用語】

ブルーグリーンデプロイの瞬断:稼働中のシステム(ブルー)から新しいシステム(グリーン)への切り替えは、ロードバランサーの向き先を一瞬で切り替えることで実現されます。利用者にとっては、ほんの数秒の沈黙のあとに、新しい環境で動いている——そんな体験になります。本作の「世界が一瞬止まる」描写は、まさにこの瞬断の演出です。


deprecated機能の削除とプロセス残存:システムの一部機能を「廃止扱い」にしても、プロセス自体は残せることがあります。本作のヴェルノスは、「終了プロセス」という機能だけを失い、存在そのものは残りました。これは、現実のシステムでも「機能は廃止、データは保全」という運用パターンとして存在します。


次話「今日も世界は動いている」もよろしくお願いします。

最終話です。最後までお付き合いいただき、ありがとうございます。

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