第16話「神が遺した言葉」
深層の闇の中で、俺はコメントを読み続けていた。
世界を動かしている根幹のコードは、数千年前に書かれたまま一度も修正されていない。ドキュメントもない。バージョン管理もない。でも、コードの隙間に、書いた人間の言葉が残されていた。
注釈。プログラムの動作には影響しない、作り手が自分のために書き残したメモ。前の世界でも、コードの合間に同じようなものがあった。「ここは後で直す」「この処理は暫定」「なぜこうしたか忘れないために書いておく」——エンジニアの独り言が、コードの中に化石のように残る。
前の世界では、こうした古いまま放置されたコードの山を、遺産のようなコードと呼んでいた。誰も触りたがらない。壊すのが怖いから。でも動いている。だから放置される。放置された時間が長いほど、手を入れるのが難しくなる。
エルディアスのコメントは、その遺産そのものだった。
最初に見つけた二つはもう読んだ。
`// TODO: いつか直す`
`// この実装は美しくない。だが動く`
どちらも、エンジニアなら見覚えのある言葉だ。でも、この先に続くコメントは——違った。
* * *
俺はコードの奥へ進んだ。深層の空間は暗く、コードの文字列が淡い光を放つだけだ。浮遊するコードの断片の間を縫うように、古い処理のブロックを辿っていく。
三番目のコメントが見えた。
`// 彼らは予想以上に面白い`
「彼ら」——住人のことだろう。エルディアスは世界と住人を作った。住人の行動が、予想を超えて複雑になっていった。面白い、という言葉に、驚きと愛着がにじんでいた。
コメントの近くには、住人の行動パターンを処理するロジックが走っていた。驚くほど複雑だ。住人の感情、記憶、選択——それらを処理するための分岐が無数に重なっている。最初はもっとシンプルだったのだろう。でも、住人が複雑になるにつれて、処理も複雑にならざるを得なかった。
追加されたコードの層が、幾重にも重なっている。最初の設計を壊さないように、その上に新しい処理を積み重ねていった痕跡。応急処置の上に応急処置。それが数千年分。
前の世界では、こうした積み重ねを技術的な借金と呼んでいた。今は動く。でも、直さないまま先送りするたびに、借金は利子を生んで膨らむ。いつか返済しなければならない日が来る——でも、その日は来ないまま、借金は積み上がり続ける。
エルディアスの世界は、数千年分の借金を抱えていた。
「ノード」
「……はい」
ノードの声が、さっきからどこか遠い。
「大丈夫か」
「えーと……大丈夫、です。ただ、このコメントを読んでいると——なんか、頭の奥がずっと光ってるみたいな感じで……」
「無理するな。離れた方がいいなら——」
「いえ。いてください。わたしは——見たいんです。エルディアス様が、何を書き残したのか」
ノードの声には、静かな決意があった。
* * *
四番目のコメントは、世界の劣化に関する処理の近くにあった。
`// 失敗した。もう手遅れかもしれない`
短い一行だった。でも、その前後のコードを読むと、意味が見えてきた。
世界の基盤が劣化していく——その速度を、エルディアスは計算していた。劣化は止められない。時間が経つほど加速する。最初は数千年かけて少しずつ。でも、やがて数百年、数十年と短くなり——最後は、一年もたずに崩壊する。
エルディアスはそれを知っていた。知っていて、止められなかった。
「……失敗した、って」
ノードが呟いた。
「エルディアス様は——この世界が、いつか壊れることを知っていたんですか」
「そう読める」
「じゃあ——わたしたちが今やっていることは——」
「壊れかけの世界を、なんとか持たせようとしている。エルディアスが先送りした問題を、俺たちが今、引き受けている」
ノードが黙った。
* * *
五番目のコメントは、もっと深い層にあった。
世界の根幹——住人の生成と消滅を管理する処理のすぐそば。その中に、一つの機能が埋め込まれていた。
世界の存続を判定する機能。
定期的に実行される。世界が所定の負荷に耐えられるかを試す。耐えられれば、世界は「まだ動ける」と判定される。耐えられなければ——終了処理が走る。
そのコードの横に、コメントがあった。
`// 終了判定。住人が抵抗できる形にした。せめてもの`
俺は画面を凝視した。
コードを読み進めた。終了判定の処理は、驚くほど丁寧に書かれていた。深層の他のコードは応急処置の山なのに、この機能だけは——きれいだった。設計に迷いがない。何度も書き直した痕跡がある。エルディアスが最も時間をかけた機能だということが、コードの密度からわかった。
「住人が抵抗できる形」——まさか。
世界の存続を判定するテスト。定期的に負荷をかけて、世界が耐えられるかを確認する。そのテストを、エルディアスは「住人が戦える形」にデザインしていた。機械的な判定ではなく、住人が抵抗できるように。勇者が立ち向かえるように。倒すことで「世界はまだ健全だ」と証明できるように。
もしこのコードが今も動いているなら——魔王は、敵ではないのかもしれない。
世界が生き残るための、試験として設計された何か——なのかもしれない。
「ノード——」
振り返った。
ノードの目が——光っていた。
普段の淡い青白い光ではない。深い金色が、瞳の奥から湧き出している。体の輪郭が一瞬ぶれた。ノイズが走ったように、姿が乱れて——すぐに戻った。
「ノード!」
「……ッ——」
ノードが自分の頭を押さえた。金色の光がゆっくりと薄れていく。
「……すみません。今——何か、思い出しかけました」
「思い出した?」
「えーと……エルディアス様が、この機能を作ったときのことが。わたし、そばにいたんです。あの方が——住人が抵抗できる形にしたいって、すごく悩んでいたのが——」
ノードの声が震えた。
「あの方は、世界を終わらせたくなかったんです。でも——終わりが来ることは避けられないから、せめて、住人の手で運命を変えられるようにしたかった。試験に合格すれば、終わりは先延ばしにできる。住人が強ければ、世界は続く——」
ノードの目から、金色の光が消えた。代わりに、いつもの青白い光が戻った。
「……あっ。すみません。今、何を——」
「大丈夫か」
「えーと……はい。大丈夫です。でも——今言ったこと、あんまり覚えてなくて……何か言いましたっけ」
いつものノードに戻っていた。フラッシュバックの記憶は、本人に残らないらしい。
「エルディアスが、世界の終了判定を作ったとき、そばにいたと言っていた」
「……そう、ですか。わたしが?」
「ああ」
ノードが少し黙った。
「えーと……覚えてません。でも、さっき頭の奥が光ったとき——すごく懐かしい感じがしました。怖いんじゃなくて、懐かしい」
ノードの体の輪郭が、まだ少しだけ揺れていた。フラッシュバックの余韻が消えきっていない。でも、怯えている様子はなかった。むしろ——安堵のような表情だった。
「ノード、痛かったか」
「えーと……痛くはなかったです。ただ、光がすごくて。目の奥にずっと残ってるみたいな感じで……でも不思議と、嫌じゃないんです。もっと見たかった、って思って」
エルディアスのそばにいた記憶。数千年前に失われた記憶が、深層のコメントに触れて蘇りかけている。ノードの中に、まだエルディアスとの繋がりが残っている。
* * *
最後のコメントは、深層の一番奥にあった。
`// 次に来る者へ。すまない`
俺はその一行を、しばらく見つめていた。
エルディアスは知っていた。世界が壊れることを。借金が返せないほど膨らむことを。終了判定がいつか不合格を出すことを。
でも、止められなかった。だから——去った。次に来る誰かに、すべてを託して。
ドキュメントも引き継ぎもなく。
前の世界でも同じだった。限界まで抱え込んで、ある日突然いなくなる。残されたチームは、引き継ぎのないコードの山と、期限のない「TODO」の群れに囲まれて、どこから手をつけていいかわからなくなる。
でも——恨む気にはなれなかった。
エルディアスのコメントを読んで、わかった。この人は世界を愛していた。住人を面白いと思っていた。終わらせたくなかった。だから終了判定を「住人が戦える形」にした。
でも、自分の失敗を許せなかった。借金が積み上がっていくのを見ながら、返し方がわからなくなった。そして——去った。
「ノード」
「はい」
「エルディアスは、俺たちに謝っている。でも、謝るべきは——いや」
俺は言葉を飲み込んだ。
誰が悪いとか、誰の責任だとかは、今は関係ない。大事なのは、今ここにある問題だ。
もし魔王が、世界の終了判定だとしたら。定期的に負荷をかけて、世界が耐えられるかを試している存在だとしたら。勇者が倒せれば合格。倒せなければ——世界が終わる。
そして今、魔王軍の侵攻が過去最大の規模で世界を試している。処理能力は95%。あと半日で限界に達する。
この仮説が正しければ——世界が不合格を出したとき、終了処理が走る。
「ノード」
「はい」
「まだ読んでいないコメントがある。エルディアスが深層に何を残したか、全部読む必要がある。解決の手がかりが、この中にあるかもしれない」
「……わかりました」
「それと——お前が思い出しかけたことも大事だ。エルディアスのそばにいたお前の記憶が、鍵になるかもしれない」
ノードが少し黙ってから、頷いた。
「えーと……わたし、全部は思い出せません。でも、悠真さんがここにいてくれるなら——もう少し、光の中に入ってみようと思います」
深層の闇の中で、エルディアスの言葉が光っていた。
「次に来る者へ」——それが俺だ。
お読みいただきありがとうございます。
【今回のIT用語】
レガシーコード:長い年月にわたって動き続けてきた古いコードのことです。誰も全容を把握していない、ドキュメントがない、修正すると何が壊れるかわからない——多くのエンジニアにとって「触りたくないが、触らなければならない」存在です。エルディアスが数千年前に書いたコードは、まさにこの状態でした。
技術的負債:「今は動くけど、後で直す」と先送りした問題が借金のように蓄積していくことです。利子のように膨らみ、返済を先延ばしにするほど手がつけられなくなります。エルディアスの`// TODO: いつか直す`は、数千年分の利子がついた借金でした。——ちなみに「いつか直す」は永遠に直されない、というのはエンジニアの間では定説です。
次話「巻き戻すか、前に進むか」もよろしくお願いします。
感想・ブックマークいただけると励みになります。




