90 一方その頃(8)
ディオスガルグ監獄副総監長ルシアム。
若くして天界庁に務め、かの最高位天使ミカエルの補佐官にミカエル直々に任命されたエリート。
そして現在はディオスガルグのナンバー2の地位にいる。
「ヘカテーの権使が騒動を起こしていると聞いて、興味が湧いたんだ。⋯⋯というのは個人的な理由。監獄としては、これ以上事態を悪化させたくない、ということで僕がやって来たのさ」
ルシアムはゆっくりと鎖に繋がれたヘカテーへ近づく。
いきなり現れて何を、とキノは思った。
彼が来たということは総監長の指示の可能性が高い。
ルシアム副総監は確かに優秀な方だ。だがしかし、同時にディオスガルグが抱える問題児でもある。
キノの脳裏に不安がよぎる。
「そなたも、我を魔法で服従させるか?」
自身の計画を止めるべくやって来た新たな職員の姿にも、ヘカテーは臆することはない。
彼女の言葉端からは、やれるものならやってみろ、そう言っているようにも見えた。
「魔法で従わせるだけなら僕は必要ない。そういうのは、彼の十八番なんだからね」
ヘカテーがアルバート長官をチラと見たのに合わせ、ルシアムもアルバート長官の方を見やる。
当のアルバート長官はというと、お役御免状態に反発することもなく、状況を見守っていた。
一方、入り口付近のテディは、先ほどよりも退屈そうな態度を隠そうともせず、ぬいぐるみを抱きかかえたまま大きな欠伸をこぼす。
「とはいえ、時間は有限だからね。早く終わらせてしまおうか」
ルシアムは柔らかく口角を上げると、内ポケットから一枚の四角い紙を取り出す。
真っ白な質の良い便箋だ。それをヘカテーの前にかざすと、彼女はゆっくりと顔を上げた。
そして、目が大きく開かれる。
「それは⋯⋯!」
ヘカテーが見せた初めての感情。
それは驚きと困惑だった。
ルシアム副総監は便箋の中身を出していない。
つまり、ヘカテーは便箋に書いてあるであろう差出人の名に驚愕しているのだろうが⋯⋯。
キノがいくら考えても、便箋の送り主の名も、その中身も、予想することは出来なかった。
ただ分かるのは、その手紙がルシアム副総監宛てであるということのみ。
ルシアム副総監は一体誰からの手紙を見せているのか。
たかだか手紙一つで、何故そこまでヘカテーは驚いているのか。
何一つ分からない中でも、この件はあまり踏み込むべきではない、ということだけは分かった。
奇妙な静寂が独房内を満たす。
キノはなるべく気配を殺すように、手紙には一切の興味を示していない風に振舞うよう心掛けた。
沈黙を再び破ったのはヘカテーだった。
クツクツと、少女の押し殺すような笑い声が響く。
——何を笑っているんだ?
「ペルセウス⋯⋯禁忌を犯した予言の子」
蝋燭の灯のように、吹けば消えてしまいそうなほど小さな声だった。
人に聞かせるためのものではないその声は誰にも届かず、代わりに少女の愉悦の表情だけがキノの目に映った。
——戦慄した。
ひたすらに無感情で、人形のように無垢な彼女の顔に生気が宿り、頬が赤く染まり、瞳が恍惚と輝いていた。
まるで別人のような少女の変貌に、恐怖すら感じる。
「序章、迷宮の章、沼の章、そして英雄の舞台は歓声で終わりを迎え、第二幕は閉幕する。何と素敵な、最高の舞台」
少女の顔は幸福に満ちていた。
あまりの異様さに、キノはヘカテーから目が離せないでいた。
だから、ルシアム副総監がいつの間にか入り口の扉へ向かい、出て行こうとしたことに気づくのにも遅れた。
「——副総監、どちらへ?」
「もう用は済んだからね。僕はオシゴトに戻ろうかな」
いやに含みのある口調。
女性好きなルシアム副総監の事だから、行き先はある程度想像出来る⋯⋯が、用が済んだというのは一体どういうことか。
まだ問題は解決していない。
しかし、キノが追及の続きを発する前にアルバート長官がキノの動きを制する。
「問題ありません」
「⋯⋯ですがっ」
押し黙ったのは、長官の瞳が一層紅く染まったからだ。
口元は緩やかに弧を描いているが、瞳はまるで笑っていない。
先ほどヘカテーと相対した時とは違う、その瞳の奥から僅かに、ほんの僅かに、怒りのようなものを感じた。
「アルバート様、やるんでしょ?」
独房から出ると、テディがアルバート長官の傍に寄り、言った。
彼女は、彼女が「やる」と表現したそれ自体にはまるで興味がないようだった。
ただ事務的に、必要と感じたから述べたのみ。
「ええ。やむを得ません」
ああ⋯⋯やはり——キノは思った。
あれはやはり、見てはいけないものだったのだ、と。
「長官、私も問題ありません」
それは、受け入れることを意味していた。
キノは絶対的な信頼を彼に置いている。
アルバート長官が必要と判断したのなら、それが最善であり、彼の直属の部下であるキノはそれに喜んで従う。
「二人とも、ありがとうございます。やはり、力づくでも動くべきでした」
力がありながら力を使おうとしない者は存在する。
しかし、組織に属する限り、力は嫌でも制限される。
上に行けば行くほど、より縛られていく。
暗黙の了解——決して触れてはいけない闇。
ディオスガルグの闇は一際濃く、そして根深い。
アルバート長官はキノとテディの額に軽く手を添える。
「——忘却」
頭が浮遊するような奇妙な感覚に襲われ——そして目覚めた。
いつの間にか、自分は独房の外の通路に立っていた。
「長官」
目の前にはアルバート長官がいた。
隣のテディは、眠たそうに眼をこすっていた。
心地よい夢でも見ていたかのように、不思議と爽快な気分だった。
「ヘカテーの件は解決しました。戻りましょう」
アルバート長官はそう言うと、そのまま通路を歩いて行ってしまわれた。
解決した? 一体いつの間に——と疑問に感じて思い出そうと記憶を掘り起こす。
——ああそうだ、長官が魔法でヘカテーの魔法を封じ、分身体を彼女へと戻したのだ。
どうしてこれほど重要な事を忘れていたのか。
つい先ほどまでの出来事だというのに。
キノはおかしな事だ、と感じつつも思考を切り替えた。
アルバート長官を追いかける。
「長官、ヘカテーの共犯者と思われる職員についてですが——」
「ユーティウス・レイルですね。彼はあくまでヘカテーに操られていただけのようですし、今回は執行部の出る幕ではないでしょう。上も、人事部部長である、彼の意思に委ねる方向で進めるはずです」
「お腹、すいた」
「あなたは先ほどからそればかりですね。仮にも副長官の身で、囚人のいる房の中で居眠りなど言語道断ですよ」
「ごんご⋯⋯?」
キノは諦めるようにため息をついた。
そして、この少女にどのようにして真面目に仕事をするという事を教えればよいのかを考えた。
しかし結局、答えは見つからなかった。
◇ ◇ ◇
職員の姿の消えた七階層の独房にて、囚われの少女——ヘカテーは一人、幸福を噛みしめていた。
「全ての英雄は揃い、舞台は整えられた。始まりの音楽を奏で、それぞれが己の役を演じ切る。素晴らしき舞台、次は⋯⋯次の演目は⋯⋯」
ターコイズの瞳に欲望が映る。
少女は望む。
英雄の影に潜む脇役であろうと、あるいは相対する敵であろうと。
ただ一つ、願うのは彼らの傍らで、舞台に関わる事。
それさえ叶えば役柄などは些末なものだ。
英雄テセウスを迷宮へと誘うアリアドネ。
あああれは良かった。
ヘカテーは共有された記憶を鑑賞し、うっとりと顔をほころばせる。
その時だった。
どこからか声が届いた。
いや、声⋯⋯というのは少し異なる。
それは、流れる川のせせらぎのようであり、美しき旋律を奏でる笛のようであり、雄大な草原に吹く風のようであり、遠くからこちらを呼ぶように鳴いている羊の鳴き声のようでもあった。
しかし、ただの音でしかないはずのそれは、確かに少女の耳には一つの言葉として届いていた。
あぁ——懐かしき声。
一度耳にすれば決して忘れない、我が君の美しき声。
「貴方様が、終演を望むのならば⋯⋯」
少女は高鳴る心臓を抑えきれぬまま、その望みに応えた。
少女にとって、主人の命に従い、望みを叶える事はこの上ない喜びであった。
我が君のためならば——命など惜しくはない。
「あぁ⋯⋯」
吐息をこぼす。
マッチに火を灯すように、少女の小さな心臓をゆっくりと炎が包み込む。
少女は一滴の涙を流し、幸福のまま祈り続けた。
少女の心臓が燃え尽きて、やがて灰となるまで————




