89 一方その頃(7)
——数時間前の七階層にて
「一階層は全域が封鎖、階層間の移動が制限されており、職員達は全員階層内に閉じ込められています。通信と監視カメラが遮断され、状況の確認は困難ですが、今だ職員達は囚人ヘカテーと交戦中かと思われます」
「超ピンチ、だね」
冷たく薄暗い通路を進むのは、三人。
整えられた黒髪にすらりと背の高い若い男——執行部懲罰執行課課長キノ・エンシル、ぬいぐるみを抱きかかえた小柄な少女——執行部副長官テディ・ケリファ、そして、気品を漂わせたロマンスグレーの男——執行部部長アルバート・F・ヴァンファルである。
「七階層なんて初めて来た。何だか寂しいところ」
物静かな少女は周囲に視線を彷徨わせながら歩く。
少女の関心は、一階層よりもむしろこちらにあるようだ。
「ここは最下層ですからね。外部との交流は遮断され、職員は滅多に訪れません。——さて、着きましたね」
囚人番号7065、囚人の名はヘカテー。
彼女の囚われる独房はこの通路の中間地点にある。
硬く閉ざされた扉を開く。
冷たい空気が肌に触れ、中から微かな歌声が聞こえてきた。
思わず聴き入ってしまうほど、もの悲しくも美しい旋律だったが、ここは最下層の独房。
キノは思考を切り替える。
「初めまして、私は執行部部長のアルバート・F・ヴァンファル。貴女にお話しを伺いに来ました」
コツコツと革靴の音が響く。
少女の歌声は止み、地面にまで垂れた長い灰色の髪がハラリと落ちる。
「我に話⋯⋯?」
歌声と同じ、憂いを帯びた美しい声だった。
「ええ。現在、ヘカテーと名乗る者が一階層で職員達と交戦している件について。当然、貴女はご存知でしょう」
おおよその予測はついていた。
鎖に繋がれ、首輪をはめられた今の少女には、お得意の呪術で相手を痛めつけることも叶わないだろう。
となれば、今現在一階層で暴れているのは彼女の分身体、もしくは彼女の命に従う姿かたちも全くそっくりな他人ということになる。
答えは恐らく前者の方であろうが、一体いつ、どうやって、分身体を放ったのか。
気味が悪い——とキノは思った。
この感情の読めぬ少女とこうして面を突き合わせていると、底知れぬ闇と恐怖が押し寄せて自分に覆いかぶさってくるようだった。
「いかにも。しかし彼女たちは我であって、我ではない。我の魂を分けた不確かな存在。我と同じ心、我と同じ力を持つ。よって、つまらぬ凡夫に堕とせるものではない」
「⋯⋯っ!?」
動揺を悟られてはならない。
感情を抑えるよう自分に言い聞かせる。
やはり、予想通り、ヘカテーは自らの分身体を一階層へ放っていた。
これで、情報にあった監視カメラに映らない、という疑問点も解決したと言える。
しかし引っかかったのは、「彼女たち」という台詞だ。
それはつまり、彼女と同等の能力を持つ分身体が複数いるということ。
現在一階層に残る戦力のみではとても対処できるはずもない。
大勢が死ぬ。
「マキノ一人で抑えられるかな⋯⋯?」
テディはそう言いながら、呑気にお気に入りのぬいぐるみと戯れていた。
ふかふかの手を動かし奇妙なダンスを躍らせている。
「長官、一階層の戦力だけではとても防ぎきれません。やはり、封鎖を撤回し、応援を送るべきなのでは?」
執行部の一課長であるキノに、決定権はない。
しかし、どう考えても、一階層だけで複数体のヘカテーを相手出来るとは思えない。
そもそも一階層には戦闘向きの職員が少ないのだ。
それに、マキノ・ユービスが階層長となった事自体が戦力が不足する一階層の強化のためだった。
人事部部長であるマキノ長官が兼任してまで一階層の階層長の任についたのにはそういう理由もある。
やはり、職員や囚人の安全と保護の面を考えても、封鎖は悪手であると言わざるを得ない。
しかし、キノの意見に、アルバート長官は首を振り制する。
「必要ありませんよ」
キノがこれ以上追及することはなかった。
アルバート長官がそう言うのならば従う他にない。
そして、この方は選択を誤るような、そんなミスを犯す方ではない。
一方、テディは飽きてしまったのか、後方で椅子に座りパタパタと足を動かしていた。
「貴女に聞きたい事があります。ヘカテー、貴女が一階層に分身を送った理由は何なのでしょうか? 囚われの身である貴女が、このディオスガルグで事を起こすのはそう容易な事ではありません。失敗に終わる事で及ぶ弊害も、貴女なら予測出来ないはずがないでしょう」
紅い瞳が空虚なターコイズの瞳を見据える。
声色は極めて穏やかなものであったが、その瞳には少しの熱も宿っていない。
冷たく薄暗い空虚な間に、静寂と緊張が走る。
一秒、また一秒と時が経ち、やがてヘカテーは形の良い紅い唇を開いて、一言告げた。
「全ては我が君の意。我が魂の共有者たちは、英雄に試練を与えるべく生み出したアリアドネ」
ヘカテーは大人しく自信の思惑を述べる。
だが、キノはその意味を捉え兼ねた。
我が君の意——それは、黒幕の存在をほのめかしているも同然だ。
全て暴かれると思い諦めたのだろうか?
いや、彼女に限ってそれはない。
ここまでの事件を引き起こした彼女が、自白の魔法なしに自白したということは何か意味があるのだ。
ヘカテーはまだ何か企んでいるのかもしれない。
キノは一層警戒心を深めた。
「英雄⋯⋯ですか。では、一階層を選んだのは必然であったと」
アルバートは革靴を鳴らし、ヘカテーに近づいた。
「我が君とは、女神ヘカテーを指しているのですか?」
紅い瞳がゆっくりと細まる。
アルバート長官は魔法など使っていなかったが、並みの囚人なら素直に従ってしまいそうな程に圧があった。
女神ヘカテー——ハデス神、ペルセポネ神に次ぐ冥府の神の一柱であり、「死者達の王女」という異名でも知られる。
そんな冥府の神の名を冠する囚われの少女は神自身ではない。
神と同じ名を名乗る事を許された特権を持つ存在——権使。
それが彼女、ヘカテー・クレネシアだ。
本当の彼女は、傀儡の魔法を得意とする悪魔だ。
「⋯⋯」
ヘカテーは静かに、目を伏せた。
それが、答えるつもりはないという意思表示だとキノたちは捉えた。
「長官」
刻一刻と過ぎていく時間に、キノは焦りを感じていた。
あまり時間は残されていなかった。
このままでは一階層は壊滅的な被害を受ける。
第一、最下層であるここへやって来たのは、ヘカテーの分身体を本体へと戻すためだ。
「良いでしょう。元より、動機を尋問しにここへ来たわけではありません。単当直入に言いましょう。貴女の分身を、貴女の元へ戻して下さい。これは、私からのお願いです」
本物のヘカテー・クレネシアが一階層で暴れているのならば、彼女一人を捕らえるだけで話は解決する。
問題なのは、一階層にいるのは彼女自身ではなく、分身体であるということだ。
鎖に繋がれた状態でヘカテー・クレネシアがどのように分身体を生み出したのかは分からない。
しかし、もしその方法が彼女の持つ神の権能によるものなのだとしたら、分身をいくら捕らえたところでいくらでも分身を増やされてしまえばキリがない。
戦いは分身体を消すことでしか終わらない。
そして、現段階で取れうる唯一の手段は分身体を本体に戻す事だけだ。
アルバート長官の言葉に、ヘカテーは冷たい瞳を地に落したまま唇を開く。
「⋯⋯愚問だな」
ヘカテーは素直に従おうとはしなかった。
当然だ。ここでイエスと言えば、何のために事件を起こしたのか分からない。
「演目は、上演されてこそ。役者だけが揃い、照明がないのでは舞台は闇に包まれる」
「ええもちろん、貴女ならそう仰る事は分かっていました。これは確認です。私は無暗に魔法に頼る方法が好きではありません。初めは言葉で、叶わなければ魔法で従わせる。執行者なりの流儀、というものですよ」
にこやかに言うアルバート長官の瞳は笑ってはいなかった。
紅い瞳が少女を捕らえる。
まるで鷲のように鋭く、捕らえた獲物は決して逃さない。
ヘカテーもまた、臆することなく向き合う。
しかし沈黙の攻防は来訪者の登場により遮られる。
「アルバート様⋯⋯」
椅子から飛び降りたテディが入り口の方を見る。
開いた扉から聞こえる靴の音。
近づくその音はやがて細長い影を呼び、そして正体を現す。
「やぁ、順調かな」
「——!? ルシアム副総監!」
思わぬ人物の登場に、キノは首を垂れ敬意を示す。
それは執行部部長のアルバートとはいえ例外ではない。
「貴方がいらっしゃるとは、上は遂にしびれを切らしたのですかな?」
クリーム色の髪に指で触れながら、男は「いや」とそれを否定する。
首にかけられた銀色のアクセサリーに第二ボタンまで開いた高級職員の制服は、軽薄さを感じさせるが、柔らかく堂々とした佇まいや所作はどこか気品が漂っていた。




