第8章 記憶という嘘
午前10時。
ヴァルネア・テクノロジーズのオフィス。
エレナはいつもと変わらぬように、自分のブースに入り、AI端末にログインを済ませていた。
「エレナ・クロノヴァ様、本日も正常にログインされました。
タスクプランを最適化し、以下に表示します。」
タスク一覧が、ホログラフィックのパネルに静かに並ぶ。
日常業務。
プロトコル点検。
過去のシステムアーカイブの処理──
その中の一行に、エレナの手が止まった。
【ファイル照合リスト:EN-0046、EN-0047、E.C.0007-R】
“E.C.0007-R”。
見慣れない、しかし、どこか深い場所がざわめく。
胸の奥に、目に見えない火花のような違和感が走った。
指先が、無意識にそのファイルを選択する。
パスコードロック。
しかし、次の瞬間、画面が自動で切り替わった。
何も入力していないのに──ロックが、解除された。
[Accessing: E.C.0007-R]
Enhanced Consciousness Experimental Unit No.0007 - Resonance Model(強化意識実験体・第0007号──共鳴型モデル)
・シナプス同期率:52.3%(不安定)
・AI融合適応率:安定
・人格テンプレート:回復処理中
・複製モデル:ELANA-R07
【備考ログ】
“ヒトの記憶再現率は不完全。ただし感情反応に兆候あり。観察継続中。”
画面に映る文言を、エレナは無言で見つめた。
まるで、それが“他人の記録”だと信じたいように。
……E.C.0007-R。
これは、誰?
昼休憩。
彼女はフロアを離れ、社員用の食堂へ向かう。
何を食べたか、誰がいたか、そんなことは一切記憶に残っていない。
ただ一つ、食堂の奥の席に座る“あの男”の姿だけが、視界から離れなかった。
先日、紙片を託してきた男。
彼もまた、エレナに視線を向けることなく、静かに食事をしていた。
エレナは、なぜか彼の方へ足を向けた。
それは意志というよりも、引力のようなものだった。
すれ違いざま──男が、ほとんど息を吐くように、小さな声で言った。
「本当に君は何も知らないんだね……」
その言葉が、足元を崩すように響いた。
エレナは立ち止まり、振り向こうとした。
だがその瞬間、食堂の照明が一斉に切り替わった。
AIによる時間管理が、休憩終了を告げる。
「……あなた、誰なの?」
そう呟いたが、男の姿はもう見えなかった。
代わりに、さっき見たファイル名が、頭の中で繰り返されていた。
E.C.0007-R──それは、自分自身だったのではないか?
そんな考えが、声にならない問いとなって喉元まで上がっていた。
だが、答えはなかった。
ただ、その問いだけが、確かに自分の中にあった。