第12章・93節『外側にあるもの』
「ああ言う奴に優しく説いても無駄だ。この世は喰うか喰われるかだぞ」
カーネルシアを大げさに諭しつつ、公衆トイレの死角になる通路をカズラがさり気なく探す。子供はカズラの容姿に肝をつぶしたのか、立ち尽くしたまま茫然としている。
カズラは急ぐ素振りを見せずにカーネルシアの手を引き、通路へと実に自然に足を進めた。厄介な子供から距離を置くため、少しだけ離れているのだと態度で示しながら。カズラは内心、不埒なミチアキモラの子供に感謝した。
「かぽ……カポイ煮のクースフローだ」
後方から、子供が喉の奥から言葉をどうにか絞り出した。海洋生物のカポイと言えば、古き時代の人々がイカっぽいと呼んだことが名前の由来だ。そんなどうでも良いことを思い出しながら、カズラは慣れたように子供を無視した。
子供の意識がカーネルシアからカズラに向かったのなら、尚のこと良い。カーネルシアを守れるのは、トイレにこもっている営業猫などではない。カーネルシアの危機を察知したとしか思えない速度で、排泄物をデュケーセ・へーナーに分解させてきたカズラなのだ。
「カーネルシア、お待たせしました!」
公衆トイレが通路の壁に隠れるより前に、背後から甘ったるい声が追いかけてきた。あともう少しと言うところで、ルク・ミィアがカーネルシアの姿をとらえていたのだ。逃走の機会を、カズラはまたしても逃した。
「お手洗いは狭いですが、ついでに歯を磨いていきましょう。歯石ができてしまいますから」
ルク・ミィアは空いているカーネルシアの手をにぎると、再び広場へとカーネルシアを連れ戻した。
カズラは眉間を激しく寄せながら、カーゴパンツのポケットに入れていた小袋から、ゴンゾー街で買った2本の歯ブラシを取り出した。ニューニュー蔦の茎を途中から細かく裂いて作られた、簡易歯ブラシだ。
保護者たるカズラが部外者のルク・ミィアより先に、カーネルシアの歯の維持を考えずして何とする。
「今度は俺が磨く番だ」
カズラは自分に言い聞かせるように声をあげ、公衆トイレの入り口付近に設けられた手洗い場へと、カーネルシアを率先して引き連れた。
「は?」
ルク・ミィアも長鞄を漁って歯ブラシを取り出し、後を追いかけてくる。諦めるという言葉を知らないのか。きっと、譲るという言葉も頭には無いのだろう。と、カズラは自分を棚に上げて思った。
手洗い場の壁の上部には、斜めに溝が彫られており、そこから水が途切れることなく流れて来ていた。壁に途中で大きく窪んだ段がつけられ、水を受けている段から奥に向けて傾斜がつけられている。最も低い場所に穿たれた排水溝から、水がどこかに流れていく音が聞こえてきている。
跳ねている水を吸わせるためか、足元にいくつものブヨ袋が転がされており、いい具合に水を吸って育っていた。
地下の職人が、どうやってこの上下水道を作り管理しているのか、カズラには想像がつかなかった。
「僕は自分の歯ブラシを持っているぞ?」
カズラとルク・ミィアに挟まれる形で、カーネルシアが手洗い場に立った。両者から突き付けられている歯ブラシを、困惑したように見ている。
カズラは自分が持っていた歯ブラシの1本を、瞬く間にポケットへと戻した。そしてカーネルシアがカバンから取り出した歯ブラシを、横から素早くかすめ取った。流水でカズラの分と共にそれを濡らすと、手洗い場からカーネルシアを連れ、広場の隅へと移動した。
ルク・ミィアは徐々に不快感をあらわにしつつ、負けじと2人を追跡した。その後ろではトイレから出てきたばかりのラグが、3人の姿を見つけて安堵のため息をついていた。
「さあ、歯を磨いてやるから口を開けろ」
カズラはそう言うと、カーネルシアの歯ブラシを持ちながら、背を曲げてカーネルシアの口の中をのぞこうとした。
「過保護はよくないですよ。カーネルシア、私の真似をして、ご自分で磨いてみましょう?」
ルク・ミィアが、手の平を返すように作戦を変更する。
「君たちは、そんなに子供の面倒を見ることが好きなのか」
カーネルシアは呆れる風でもなく、むしろ感心したように2人を見上げた。ルク・ミィアが親しげに首を横に傾け、微笑みながらカーネルシアの瞳を見つめ返す。濡れたように青紫の光を反射するカーネルシアの虹彩は、うっとりするほど複雑な色加減だ。
「カーネルシアも、にゃんにゃんの世話をするのがお好きでしょう? それと同じことですよ」
その物言いに、敵ながら思わずカズラもうなずく。カーネルシアの両眉が、くくっと上に引き上げられる。しかし、カズラの手からひょいと抜いた歯ブラシを咥えると、何か考えごとをしているように動かなくなった。
「磨き方が分からないのか。だから俺が磨いてやると言っている」
カズラは早速カーネルシアの口に入れられた歯ブラシの柄を持つと、カーネルシアのあごを左手で上げ、歯を磨く準備をした。
しかし、カーネルシアは歯ブラシをくわえたまま、ごりごりと不気味な音を立てて、茎を噛み砕き始めた。
そこに、同じく歯ブラシを持ってラグがやって来た。
「待っていてくれてありがとう、みんな」
カズラとルク・ミィアは、ラグの声も聞こえていないように、異音を発するカーネルシアの口を凝視していた。
「おい、それは噛み砕いて使う物じゃない。口を開けろ」
カズラの声の輪郭が、少し震える。ラグが2人と同じようにカーネルシアの顔をのぞき見る。カーネルシアはカズラにちらりと目を向けるも、数秒口を止めた後、また歯ブラシをごりごりと噛み砕きだした。
絶句している3人をよそに、カーネルシアはニューニュー蔦の茎の残骸を、ごぐぎゅと飲み下した。
「……の……飲んだんですか……カーネルシア……歯ブラシ」
ルク・ミィアが、恐怖にも似た表情を浮かべる。カーネルシアはかちかちと歯を鳴らし、瞳孔が開ききったカズラとルク・ミィアに、口の中を開けて見せた。
「きれいになっただろう?」
確かにカーネルシアの言う通りではあった。口の中に残っている歯は、どれもがみな、今しがた生えてきたように白く照り輝いて見える。
「腹を壊すぞ」
カズラがまだ信じられない様子で、自分の歯ブラシとカーネルシアの顔を交互に見ながら、かすれた言葉をかけた。試しに歯ブラシを口に入れてみるも、細く幾重にも裂かれたニューニュー蔦の茎からは、強いしなりを感じる。
カーネルシアを除く3人は、誰も目を合わせないまま、自分の歯を恐る恐る磨き始めた。それぞれがカーネルシアを真似て、数回茎を噛み切ろうとする。だが歯に力をかける毎に、表情は強張ったものへと変わっていった。
しかし、カズラは考え直した。限度を知らない子供だからこそ、己の限界をいとも簡単に乗り越えてしまう。その結果、奥歯をチァーラの根で損壊させたのではないか。大人ならリスクの存在を知っており、回避も出来る。だが、カーネルシアは知識量からみても、まだ子供なのだ。
多分、いや、バラノ村の孤児であるならば絶対に。
カズラは理性を保つため、必死で納得できそうな理由を探した。薄い境界の外には、理解できない何かが蠢き、カズラを遠巻きに取り囲んでいる気がしてならなかった。




