第1章・1節『チァーラの森で』
霧の森
記憶を積みて
負荷の罪
包む星にて
記憶摘み
霧を守りて
歌繋ぎ
億の水守り
門に継ぎ
故に眠りて
成るを待つ
フィバーコ・ラロディシアの歌より
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樹高が20メートルもなく、幹の表皮がガラス状に硬質化しているそれは、人々の間でチァーラの木と呼ばれていた。深夜の森に、その繊細な葉が覆いかぶさるように、さらなる濃い影を作り出している。
「何の匂いだ?」
移動に利用している家畜のロクアシにまたがりながら、カズラが低くつぶやいた。鼻の奥で、つんと鋭い刺激臭を感じた気がしたのだ。それは湿度の高い空気に急速にまぎれ、カズラは警戒したまま、明かりもなしに再びロクアシを進ませた。
樹上に見える、チァーラの黒い小さな実。人に利用され始めてから、既に300年以上過ぎているにも関わらず、いまだに謎が多い。そのひとつに温度維持という性質があるため、様々な動力源などに利用され、人々に高値で取引されていた。
お陰で、こうして夜も警備が必要になる。
猫と人間のキメラ種であるカズラにとれば、闇のなかで明かりは必要なかった。とは言え、見るものすべてが死んだように退色した世界は、飽きの一言に尽きた。嵐が近づいているせいで、木々がざわめいているのが幸いに感じるほどだ。
最近では、ほかの村が管理している森で、何度も不審者が目撃されるようになった。そのせいで警備が強化され、人手不足のためにカズラの勤務時間が倍になった。
黒い世界に溶けこむ、渋くすすけた暗色の肌。
カズラが村の者達にとどまらず、家族にすら疎まれている理由が、その肌の色だった。勤務時間の割を食ったのも、村から一番離れた場所が割り当てられたのも、この肌の色が原因なのだろうとカズラは考えていた。
生暖かい風に、ひときわ大きくチァーラの枝がしなる。朝までに嵐がサヘー島を通過するとの予報が出ていたため、その枝葉はいくらか掻きむしられることだろう。
名の通り6本の脚を持つロクアシの体温が、尻の下からじんわり伝わってくる。脚と言っても、実態は伸びた爪なのだが。その丸い体は白いふかふかの長毛で包まれ、乗り心地は雲に乗っているようだった。
高低差のある深い腐葉土の上を1.5メートルもの長さの脚で、難なくさかさかと歩いていく様は、いつ見ても背中がむずがゆくなる。カズラは思わず、髪と同じ紫色の毛が生えたしっぽを左右に振った。
その時、視界の右隅が赤黄色の光をとらえた。はっと息をのみ、手綱を引いてロクアシを停止させる。光は一瞬で消え失せ、残像すらなかった。風にうごめく木々の影の下で、発光植物が淡くその存在を浮かび上がらせている。
その中でまた小さく光が散った。
生唾を飲み込むと、カズラは音を立てずにロクアシから降り、手綱を細い木の幹に素早く巻きつけた。
腰に下げたホルダーと袋の中から、スリングショットと麻酔弾を手探りで取り出し、最後に光が見えた方向へ目をこらす。耳を向け、葉の擦れる中で異音を聞き取ろうと息をひそめた。
風の流れが変わり、カズラの鼻が突然脂っぽい獣臭をとらえた。カズラとは別のキメラ種、犬と人間の遺伝子を持つドゥルフの臭いだ。
大半がドゥルフで構成されている、治安維持部隊の巡回かと一瞬考えた。しかし、獣臭に混じる腐った雑巾のような臭いが、彼らではないことを物語っていた。
頭から血が急速に引くのを感じ、カズラはできるだけ音を立てずに身を屈めた。
チァーラの森の夜間警備班に入れられてから3年経つが、不審者に遭遇するのは、これが初めてのことだった。
50メートルほど離れた茂みの隙間から、一人のドゥルフが見え隠れしていた。チァーラの木から1メートルも離れていない場所だ。
手元で躍る光に息を吹きかけているのを見ると、何かに火をつけようとしているのだろうか。その弱い光で照らされる顔には、まだ幼さが残っている。
スリングショットの射程距離は、カズラの物では30メートルが限界だ。肩に力が入りつつ、カズラは他にドゥルフの仲間がいないか、チァーラの木の周囲へと目を走らせた。
ドゥルフの手元がひときわ明るく光った時、ガラス状のチァーラの表皮の端に、別の人物の顔が映った。
「!?」
動揺しながら、カズラは目を走らせてその相手の居場所を探った。角度を見るに、ドゥルフから数メートルほど離れた場所で、その様子を見ているようだった。チァーラの表皮に映る姿は、小柄な人間のようだ。
不安定な光と歪んだ表皮の反射で、顔の細部までは見ることができない。
カズラは意を決し、息を殺して2人に近づいて行った。ドゥルフの仲間か、それとも別の不審者か。どちらにせよ、カズラの村のチァーラ管理圏に、無断で入り込んでいる。
各村に割り当てられた管理許可札が、ドゥルフ前のチァーラの幹に鎖で巻き付けられているのが、カズラの位置からでも見えた。




