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プロローグ

十一月も終わりに近づいた夜の街は、容赦のない冷気につつまれていた。

北側の山から吹き下ろす乾いた風と、海からの湿った空気が混ざり合い、しとしとと細かい雨を降らせている。

街灯の光を反射してぎらぎらと鈍く光る濡れたアスファルトの上を、一人の男が歩いていた。


男は傘も差さず、ただ黙々と歩を進めていた。

周囲を行き交う人々が色とりどりの傘を広げて家路を急ぐ中、その姿は異質だった。

男は黒い格安の帽子を目深にかぶることで、街頭の防犯カメラや他人の視線から執拗に顔を隠している。

さらに顔の半分を覆う白い不織布のマスクと、体型を完全に隠すかのように大きめのポリエステル製ジャンパーで身を固めていた。


男の右手を待ち受けているのは、ジャンパーの右ポケットの奥深く。

そこには、周囲の冷気よりもさらに冷徹な、ずっしりとした鉄の塊が収まっていた。

男の息は、すでに限界を迎えたかのように荒かった。

マスクの隙間から吐き出される白い息が、冷たい空気の中で一瞬だけ揺れては消えていく。

街の喧騒や、時折遠くから聞こえる電車の走行音が耳の奥で歪んで響く。

緊張と恐怖のあまり、男の顔色は血の気を失い、幽霊のように蒼白だった。

心臓が早鐘を打ち、自分の胸を内側から激しく叩きつけている。


目的の場所が近づくにつれ、男の歩調は自然と緩やかになった。

ビルの谷間に位置するその角を曲がれば、すべての始まりであり、終わりでもある場所に行き着く。角の手前、わずかに街灯の光が届かない影の中で、男は一度完全に足を止めた。

大きく息を吸い込もうとしたが、肺が縮こまったように浅い呼吸しかできない。

冷たい雨がジャンパーの肩を濡らし、容赦なく体温を奪っていく。

男は震える左手を持ち上げ、帽子をさらに深く目元へと引き下げ、マスクのワイヤーを鼻の形に合わせて強く押しつけた。

視界を狭め、覚悟を固めるための儀式だった。

ポケットの中の右手が、じっとりと汗ばんでいるのが分かった。


そして――男は一歩を踏み出し、角を曲がった。


「わぁぁぁぁ!」


喉の奥から絞り出すような、雄叫びとも悲鳴ともつかない狂った声が夜の静寂を切り裂いた。

それと同時に、男は右手をポケットから勢いよく引き抜いた。

現れたのは、光沢を失った黒い自動拳銃。

男は迷うことなくそれを両手で構え、銃口を正面のビルへと向けた。


標的を見据える余裕などない。ただ、引き金にかけた人差し指に渾身の力を込める。


パン! パン! パン!


狭いビルの隙間に、乾いた破裂音が三度、激しく木霊した。

発射の衝撃が男の手首を突き抜け、硬い衝撃が脳を揺らす。

放たれた弾丸は、夜の闇を切り裂いて黒っぽい雑居ビルの窓ガラスへと着弾した。

ガシャガシャと派手に砕け散ることはなく、強固な防犯ガラスの表面に、白い蜘蛛の巣のような小さな傷とひび割れが三つ、冷酷に刻まれただけだった。


男はそれ以上の追撃をあきらめ、即座に拳銃をジャンパーのポケットへと突っ込んだ。

硝煙の臭いが鼻腔を突く中、彼は弾かれたように背中を向け、元来た道を全力で走り出した。

濡れた靴底がアスファルトを蹴り、水飛沫が舞う。


男が走り去ってから数秒も経たないうちに、静まり返ったビルの奥から地を這うような怒声が響き渡った。


「ダボがぁぁぁ!」


それは激しい怒りと、治安を揺るがす暴力の気配を孕んだ叫びだった。

同時に、先ほど男が銃撃した黒いビルの重厚な鉄扉が、凄まじい勢いで内側から蹴り開けられた。

中から飛び出してきたのは、血走った眼をした三人の男たちだ。

彼らは一様に殺気を放ちながら、逃げ去る男の影を探して視線を走らせる。


彼らが飛び出してきたビルの入り口の横には、冷たい雨に濡れそぼりながらも、街灯の光の中で不気味な存在感を放つ看板が掲げられていた。

そこには重苦しい筆文字で、はっきりと刻まれている。


『2代目浅間組』


夜の街に、新たな抗争の火蓋が切って落とされた瞬間だった。

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