1 ボクサーくずれ
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あいつは37歳。
フリーターだ。
でも朝出勤して・夕方帰ってくるフルタイム勤務でなく、夜勤でもなく、パートタイマーでもない。
登録派遣というやつで・回ってくる作業で・気に入ったものにエントリーする。
数社に登録しているため、Excelを使うようなデスクワーク、交通量調査、ピッキング作業等、で、腹が出てきたなと思ったらガテン系とでもいうのか建設業の肉体労働に精を出す。
「おまえを養うのは、もう飽きたんだ」
これはあいつが父親に32歳の時に云われた文言だ。
大学受験を現役、一浪、二浪と逃し、気づけばパラサイトと化していた息子に父親はその姿を見ると食事中でもTV鑑賞中でも睨んだり・怒鳴ったり・これ見よがしにため息をついたりしたものだが、三十路になった息子を見かねて前言を云い渡したのだ。
でもあいつは黙って自分の部屋に戻ったのみだった。
さすがにあいつももうそろそろヤバいかなと思っていたが、まず働きたくないし、新宿区のこの実家は持ち家だし、自分は一人っ子だし、だから母親はに甘やかされて育ったので、単発バイトでも働き者の息子だと思われている。
介護か警備の会社に入り、失業手当が入る月数まで働き、決まった時間に家を出て、図書館ででも時間を潰して、そんなことをしていれば、二年くらいは逃げられるだろうかと考えていたら、父親が、警察勤めの父親が殉職した。
やくざや犯人に撃ち殺されたとかの華々しいものでなく、夜間のねずみ取りの最中、止めた自動車がサイドブレーキーをかけておらず、無人のクルマに圧迫され、内臓破裂で死去した。
でも殉職には変わらず、見舞金はたいそう出た。
いや、それよりあいつとしてはぎゃんぎゃん自分を責める唯一の存在が死んでくれたのだ。
これに勝る喜びはなかった。
家賃を払わなくてよく、家に財産は見舞金・退職金・保険金まで入ってきて潤沢にあり、ネットを見て・図書館の本を読んで、家事は母親がしてくれる。
あいつは身長170あり、顔もそこそこ良かったので、寂しくなるとマッチングアプリで女性を探せた。
だが、就職する気もない上に結婚する気もないので、半年くらい経つと嫌われるように仕向けた。
今あいつは自転車で坂道を下っている。
中野区のここいらは坂が多く、行きには難儀したものだ。
あいつは自転車通勤できる距離の現場でしか働かない。
電車通勤のラッシュが嫌いなのと、派遣元会社で交通費を出さないことはザラだからだ。
坂道をすいすいと下っていくとダンプカーが突如脇から出てきて、焦ったが見事にかわした。
ブレーキのかけ方から、向こうは驚いたことが判る。
あいつは気にせず自転車を走らせるが、ダンプカーは後ろから近距離で着けてくる。
―面倒な連中に絡まれているな。
連中、そう、あいつは運転席に男二人の姿を認めていた。
ここいらの道は詳しいあいつはバイクも入れないような路地を思い出し、入って行って、右手の中指を立て・舌を出し、運転席の二人へアッピールした。
だがその運転席の男二人はあいつよりさらにここいらの道に詳しく、あいつが路地から出た個所に待ち伏せていたので、あいつは自転車を立ちこぎで、早く走った。
ダンプカーは幅寄せをしてくる。
だがあいつチャリには自信があり、巧くよける。
しかしその運転席の男二人はあいつよりやはりここいらの道に詳しく、幅寄せは建築資材置き場になっている空き地へ誘導するためのものだった。
自転車に乗るあいつは父親のように潰されるかと思う程に幅寄せされ、自転車も傷ついたが、ともかく止まった。
降りてきた二人の男は、ガタイがデカく、ダンプカーに乗っていることからカタギだろうが、暴力臭を帯びていた。
あいつもたまのダイエットに建設の現場で働いた経験が何度もあるが、こういう暴力集漂う、世間や社会を恨むような男たちは大勢いることを知っていた。
外国人の方が未だかわいげがある。
そう、二人とも50代で、暴力の香りがするのに自分が被害者であることを信じて疑わなさそうな感じ。
あいつは37歳にしてフリーターだが、小中高はそこそこ有名な私立校に通学して、都内の一軒家に住むしそこそこの家庭で生まれ・育った。
しかも自転車はプジョー製。
この初夏の頃、Tシャツはユニクロだが、ともかくこの二人の心の何かを逆撫でしたようだ。
いきなり蹴られるか・殴られるかされると思ったが、眉毛の無い体重百は超えるであろう巨漢はあいつの左肩からショルダーバッグを奪い取った。
「お嬢ちゃん、その軽装だ。スマホ、このカバンの中だろう!?」
180は身長があるであろう角刈りの方がそう云った。
(おそらく顔写真、ナンバープレート、車体の会社名を撮影されないための手段)
角刈りが眉無しに命じたことから二人の間の力関係が知れる。
ちなみに倒叙ミステリでないから明言しておくとあいつはれっきとした男である。
眉無しは後方にあいつのショルダーバッグを放り投げると、あいつを殴り始めた。
自転車から巧く降りられない。
それでは面白くないだろう、というようなアイコンタクトを角刈りが送ると眉無しは一歩下がる。
あいつはしぶしぶと自転車から離れるが、その瞬間、二人がかりでの殴る・蹴るの暴行に出会う。
眉無しが腹に食らわした蹴りで、あいつは後方に下がった。
―これで間合いができた。
周囲を見渡すあいつ。
武器を探しているのだ。
だがそれが命取り。
敵は二人。
―角刈りを見失った。
角刈りは直ぐ右横に立ち、右肘をあいつの右のこめかみにブチ当てた。
ひるむあいつ。
あいつの父親は警官であった。
自分もやっていた柔道を息子にも習わせた。
黒帯とかそんなたいそうなものではない。
だが小五から中三までの五年間は続けた。
(高校生になったおまえの耳を潰してやると先輩から云われ、逃げるようにして辞めた)
―この二人は知らない。
そう、あいつに柔道の素地があることを知らない。
―やるのならば、耐久力があるであろう眉無しの方だ。
眉無しは角刈りと反対の方向にいる、つまりあいつの後ろだ。
あいつは角刈りと対峙している。
だからこそ眉無しの油断が手に取るように判る。
角刈りとの間合いの背後に、眉無しの伸びる手を感じた。
―しゃっ!!
一本背負い、見事に決まる。
だがあいつは二つの失敗を犯した。
一つは投げた眉無しを角刈りにブツけたことに失敗。
二つ目はボクシング経験者の角刈りの闘争心に火をつけたことだ。
元ボクサーとはいえ、拳闘経験者のパンチはたいそう痛かった。
あいつはそのダメージより、眉無しが起き上がってくる方に焦りを感じた。
地面はコンクリートではなく、草の上。
起き上がってくるのは時間の問題。
角刈りのラッシュは早い。
しかもようやく気付いた。
―先ほどのお嬢ちゃんとは、こいつら二人がホモで、オレを輪姦することこそ、目的であったんだ!
あいつの脳内の奥の奥で、何かがスパークした。
そして腹にうづき。
あいつの防衛本能が理解ではなく、生き残りたいという欲望で、ズボンのベルトを取り、ズボンとパンツを直ぐずり落とした。
あいつの推理は正しかった。
角刈りは男性の同性愛者であるから、あいつの男性器に目を奪われた。
そこにスキが生まれた!
あいつは左足から靴を脱ぐ余裕ができた。
―股が広げられる!
角刈りはもう戦闘態勢を取り戻す。
そのパンチは早い。
だがあいつは右手に瞬時に排泄した糞を握っていた。
本能で(触りたくないから)角刈りは右手のパンチをどけた。
だから糞を握ったあいつの右拳が角刈りにヒットする。
握って手にまとわりつく糞を角刈りに塗りたくるあいつ。
鼻に口に己の糞を押し当てるのだ。
あまり匂いと味でうずくまる角刈り。
そこにすかさずあいつは、顔面に蹴りを浴びせた。
何度も、何度も、蹴った。
角刈りの顔は糞と血でまみれ判らないが、痛みと臭みで泣いていたのだ。
アナルセックスの経験はあってもスカトロジーのそれは角刈りにはなく、それは眉無しにも同様であった。
そう眉無しは片膝をつけるくらいにはなっていた。
そして眉無しはあいつを見失っていた。
「うぐわぁ!」
これは眉無しのうめき声。
背後から右手で角刈りに使って余った糞を、左手では新たに排出した二度目の糞をつかみ、塗り付ける。
あいつは眉無しの喉を三回蹴り、地面に倒した。
そして、倒れた眉無しの顔面にあいつは脱糞を始めた。
顔に大便が乗った。
「糞喰らえ~~~~~~~~~~!」
その大便を眉無しに口内に押し込める。
ちなみにこの「糞喰らえ~~~~~~~~~~!」は本作の決めセリフです。
糞尿を使っての攻撃は自然界で無数に存在する。
虎は尿を使って敵を威嚇し、犬はそれでなわばりを示す。
糞尿にまみれること、それは動物界以上に人間社会ではこれ以上ない、敗北、屈辱、恥辱となります。
でも誰もがそれをやりません。
いや、どんな格闘技でもそれをやりません。
肛門攻めや金的蹴りは未だ〈反則技〉としては存在しているというのに。
あいつは、今破いて眉無しのシャツを奪いました。
角刈りのシャツと違って自分の糞がついていないからです。
資材置き場なので水道の蛇口がありません。
だからこれから数分の後にあいつはよく知る児童公園で血や糞を洗い流します。
その距離に行く前に乾拭きでも自分の手や身体についた自分の糞をふき取りたかったのです。
糞にまみれたシャツを倒れた眉無しに投げ、ショルダーバッグを拾い、自転車ダンプカーの前面から取り出します。
乗車すると判ります、ひしゃげた個所がないことに。
あいつの心が高鳴るのは確かに二人潰したバトルで勝利のためのアドレナリンやエンドルフィンが溢れだしたことによります。
だが、彼はもう気づいたのです。
自分の使命に、生まれてきたことの意味に。
―体内にこれだけの武器が装備されていて、何故に誰も使わなかったのか!
あいつに付け加えると、それは漫画や映画でも描かれていません。
なので、あいつをこの本作でもう少し追い続けます。
後に、この戦いをあいつの団体では、直ぐ裏に神田川が流れていたことから「神田川人糞戦争」と呼ばれる。




