治療
その姿をしばらく眺めていたリネイセルは、やがて深く息を吐くと、視線を私に戻してきた。
「彼は、どうなったんでしょうか」
地面に倒れ伏してピクリとも動かない様は、まるで命を失ってしまったかのようだ。思わずリネイセルの袖をぎゅっと握りしめる。
「……命については、問題ありません」
私を安心させるかのように、応えるように背中に暖かい手が当てられる。
「あなたの魔力は、肉体を傷つけるようなものじゃない」
真っ白な顔面に、ピクリとも動かない瞼。
「しばらくは急な離脱症状が彼を苦しめるでしょう。そこから立ち直れるかどうかは、彼次第、というところになります」
「そうですか……」
始めは優しくて紳士的だった彼を思う。
どこで間違ってしまったのだろう。
私はどうすればよかったのだろう。
考えてみても、分からなかった。
地上に降り立ったリネイセルの髪は、もう元の銀に近い綺麗なプラチナブロンドに戻っていた。
彼は私に手を伸ばして、繊細な手付きで私を地面に下ろした。まだ宙に浮いているような、妙な感覚が続いている。フワフワした感覚に慣れずにフラついた私を、リネイセルが後ろから肩を持つように支えてくれた。
少しの間二人で、焼け野原になった地面を見つめていた。
やがてリネイセルは、焼け焦げた肉体のまま、僅かに生き長らえている男の元へと歩む。
「黒姫様」
リネイセルは、虫の息の火傷の男を見下ろした。
「私には、まだやらなければならないことがあります。もう一つ、ご協力願えませんか」
そのそばにしゃがみ込んだリネイセルを見つめる。
「この男から詳細を聞き出さなければなりません。あなたを守るためにも、放っておくわけにはいかないのです」
リネイセルは僅かに躊躇う様子を見せたが、結局はまっすぐに私を見上げてきた。
「……あなたにこんなことを頼むのは、心苦しいが……死なない程度に奴を蘇生したい。もう一度魔力をいただけませんか」
目の前の、人とは思えない物体に目をやる。
私を殺しにかかった男。躊躇いもなく何度も振り降ろされた鈍い銀色の刃。
正直、助ける義理はないと思ってしまっている。
……でも私は黙って、リネイセルに手を差し出した。
「……すみません」
リネイセルは一瞬、痛ましげに視線を伏せると、そっと私の手をとった。
そのままリネイセルは反対の手で男に触れる。するとリネイセルの手から、黒い靄のようなものが溢れ出してきた。
「黒姫様」
リネイセルはすぐにそれをかき消した。
「黒姫様、こちらの魔力では彼を混濁させてしまう。思い出してください。私を助けて頂いた、あのときの魔力を」
あれは、リネイセルのことを思う一心で流した涙が、たまたま彼を癒やしたというだけだ。
目の前の丸焦げの誘拐犯に、そんな気持ちなど抱けるわけがない。
顔を顰めた私に、リネイセルは「止めましょうか」と手を離そうとした。
「いえ、……やります」
離れようとした手を握りしめる。リネイセルは暫く私を見つめていたが、やがて視線を伏して男の方に遣った。
リネイセルはまた男に触れた。すると、今度は触れたところからジュワジュワと、肉が焼け焦げる音がした。
「っ……!」
正直、我慢できない音と匂いだった。
胃液が逆流して吐き戻しそうになるのを、反対の手で口元を抑え、必死に堪える。遠ざかりそうになる意識をつなぎとめるために、私はリネイセルの手を力の限り握りしめた。
それにリネイセルも応えるように、力強く握り返してくる。
永遠にも感じるような、長い拷問のような時間。
やがてリネイセルが男から手を離す。
その途端全身の力が抜けて、立っていられなくて崩れるように座り込んだ。そんな私を、リネイセルが自分に座らせるように抱きとめる。
「黒姫様。……頑張りましたね。ご無事でいてくれて、本当によかった」
溢れてきた涙に、両手で顔を隠す。
恐怖、緊張、気持ち悪さ、不快感、安堵感に疲れ……ずっと溜まっていた色々な感情がないまぜになって、ぐずぐずと涙がこぼれては流れていく。
わけも分からずに泣きじゃくる私を、リネイセルはしばらくなにも言わずに抱きしめていてくれた。
リネイセルはしばらく男の様子を冷静に観察していたが、私が落ち着いたのを見ると、そのそばから立ち上がった。
男は相変わらず意識を失ったままだったが、呼吸が落ち着いたことで、少なくとも命の危機は脱したのだろうということが分かる。
「後続の騎士も到着しました。あとは彼らに任せましょう」
リネイセルが振り返った先に、騎乗した見知らぬ騎士が何人も到着していた。
「では、行きましょう」
再びリネイセルが手を差し出してくれる。
彼はそばで大人しく待ってくれていた、光る羽を持つ天馬を見上げた。
「この馬は……」
確か、ギルノールが太陽の馬だとか、呼んでいた。
「……これは太陽の馬といって、建国時代にカーディナル・イスタルシアが太陽の乙女に授けられたものだと言われています。この太陽の馬は、イスタルシア王の許可が出た者――イスタルシア一族しか操ることができない」
見上げる私を、リネイセルがまっすぐに見下ろしてくる。
「黒姫様、私はあの一騎打ちを申し込むと決めた時に、イスタルシア一族へと戻る決心をいたしました。あなたと共に、歩むために……この先、沢山の苦労をかけることになると思います。それでも、ついてきてくれますか?」
静謐な湖畔を思わせる翠の瞳が、希うように私を見ている。
それに深く頷きを返した。
帰りの道すがら、私はリネイセルと色々な話をした。
こんなに長い時間、リネイセルと二人きりで言葉を交わすのは初めてかもしれない。
地平線の向こうに太陽が沈んでゆく。空がゆっくりと色を変えてゆく。
すべてのことに方が付けば、次の日からはまた新たな一日が始まって。
そうして、二年前からずっと止まっていた私の時間は、リネイセルと一緒に、やっと動き出し始めるのだろう。




