宮中の女
翌治承三年正月、西八条の邸では、身内だけとはいえ贅を尽くした宴が催されていた。
邸内には梅の香が満ちわたる。まさにこの世の春の始まり。平家の栄華も同様にこれからますます花開くであろうと、皆、言祝ぎ合う。
春の除目で、重衡は左近衛中将に。これは順当なものであるが、一族がこれ見よがしに昇進してはうまくないと、清盛も配慮した。故に、今もって殿上は藤氏で占められていたが、徳子の男皇子誕生によって清盛は次代の天皇の外祖父という目で見られている。一族の将来を思うとき、平家に何の憂いがあろうか。
人々が笑いさざめくなか、ふと清盛が席を起ち、廊に出たところを見かけて、重衡は後を追った。
酔いを醒ますためであろうか。広縁の欄干に寄りかかるようにして、父清盛は庭を眺めていた。
晴れ渡る空の下、暖かなそよ風とともに香気を寄せる白梅の林。
枝には積もる雪かと見紛うほど花が咲き重なり、見る者へ季節を惑わした。
「まるで夢の中にいるようだ」
父の言葉に重衡もうなずく。
「今年の梅は一際美しく咲いたようです」
庭の梅も主の幸福を言祝いでいるように思えた。
しかし、清盛は、
「そうではない」
遠くを見るような目つきで言う。
いったい、今日の平氏の繁栄を誰が想像できただろうか。先々代正盛のころは、上皇や貴族の番犬としていいように遣われていた我らが。それが今では・・・・・・
「一つ、面白い話をしようか」
清盛がまだ若かったころの出来事である。
京の郊外、蓮台野で狩りをしていたとき、目の前に一匹の狐が跳び出してきた。とっさに矢を射ようとした清盛だったが、その狐が人語で、
「我を助けよ」
と言った。
茶枳尼天の使いかと慌てて矢を逸らすと、狐は美しい女性に変じ、
「そなたには覇者の相がある。この日本国の権勢を一手に収めることも夢ではない。つとめて自ら励め」
そう言って、忽然と消えた。
「――それこそ夢ではないかと思いつつ、功徳に預かろうと本道を忘れ茶枳尼天を信奉した時期があった。まぁ、昔のことだ。・・・・・・どうして、こんな話をしたと思う?」
清盛は息子を見て言った。
「邯鄲の夢のように、狐に見せられた幻。この幸福が消えてしまわぬか恐ろしくなったのですか?」
重衡は微笑みながら答えた。中宮亮であった彼は、男皇子の立太子を受け、東宮亮の職に就いていた。
「そうだ、人は幸福の絶頂にあるとき、ふと不安になるものだ。ここから全てを失ってしまうのかと」
父の言葉に、重衡は微笑みをそのままに首を振る。
「絶頂? いいえ、父上、現今が我が一族の頂点ではありません。姉上の産んだ皇子も未だ東宮の位。公卿の多くは藤氏が占めており、平氏はその末席を汚す程度です。我らはまだまだこれからでありませんか」
重衡の曇りのない笑顔に清盛もつられて笑う。
清盛の福原隠棲は名ばかりだった。折り合いのわるい法皇や彼の近臣と二重の意味で距離を取るべく、さらに将来の都遷りも視野に入れた清盛の深慮による。平家惣領の実権は未だ彼の手中にあった。
「その通りだ。今日、我らは上り坂にある。この程度で栄華を極めたなどと誤解してはならぬな」
と、彼はここで言葉を切った。
「ただな、ただこのところ、先に申した狐女の、その女性の顔がやけに浮かんでな。とても美しい女性だった。色の白い、切れ長の目にこぼれるような色香があって・・・・・・。いや、このような益体もない話はやめにしよう。所詮、あれは夢であったのだろうから」
清盛は話を切り上げると、息子を誘って宴の席に戻った。
狐女の話題は、これきりになると、清盛も重衡も思っていた。
けれど、一月後のこと。
清盛は宮中に参内して驚く。
回廊を渡る途中、先日息子に語ったばかりの女の顔が、数十年の時間を超えて御簾の影から現れたからだ。
当時、本内裏は度重なる火災に荒れ果て、帝は藤原冬継の豪邸跡、二条大路の閑院を里内裏の一つとした。
その日は二月も末、東宮の百日儀にあたる。儀式は外戚の役目であるが、清盛は入道の身をはばかり、諸役は息子たちに任せていた。彼は内々に挨拶を述べようと後宮へ足を運んだ。
本内裏に倣って改築された閑院の後宮は、中宮の住まいたる飛香舎(藤壺)へ。
幾重にも曲がる回廊を渡ると、とある部屋の前に桜の花びらが散りこぼれていた。
はて、この近くに桜の木があったかと周囲を見回すが、それらしき樹木はない。不審に思って回廊の床に目を落とすと、すぐかたわらの御簾がふわりと揺れ、奥に白い女の顔が浮かんでいた。
清盛は驚きの余り、言葉を失った。
「――それが例の狐女とそっくりだったというわけですか」
過日の昔話のこともあり、清盛は息子の重衡に相談を持ちかけた。
「妖しでしょうか? しかし宮中に出る妖しなど・・・・・・」
「いや宮中にも妖しは出るのだよ。本内裏、里内裏に限らず。女御が鬼に魅入られた話も記録に残っている」
「鬼と。では父上が見ましたものも、邪なものでありましょうか」
「何とも言えぬ」
辣腕家らしからぬ父の自信なげな態度に、
「それでは私が捕らえて確かめてみましょう」
重衡は心安げに微笑んだ。
翌日、重衡は件の部屋の前へ、供を連れて向かった。
父の言うとおり、回廊の板張りには桜の花びらが散り乱れ、風に舞い上がっては落ちるをくり返していた。
そして御簾が揺れ、現れた女の顔。
重衡ははっきりと目があった。
「皆はここで待っておれ」
部屋に近付くと、御簾越しに人が立ち上がる気配を察した。はね除ける間を惜しみ、重衡は御簾ごと影を捕らえ局の中に押し入った。
「あ・・・・・・」
腕の中の女は男の顔を見上げると、そのまま意識を失い、くたりと身体を預けた。女を抱き締めるかたちとなった重衡は、するすると腰を床の上に落ち着ける。払い上げた御簾が、揺れながら二人の姿を従者から隠した。
腕の中にある白い顔を覗き込んだ。
女はやはり、ただの女だった。
足を伸ばすと何か固いものにあたった。大振りの桜の枝を生けた壺である。重衡は回廊の花びらの由来を知った。
やがて女が息を吹き返し、重衡を見上げて、すぐに顔を伏せる。
怯えるようにふるふると身を震るわせるから、大丈夫、安心してと言うようにいっそうやさしく抱き締めた。
――己れで怖がらせておいて・・・・・・
と可笑しく思いながら、
「失礼しました。女房殿。この部屋に妖しが出たと言う者がおりまして、確かめに参ったのです。けれど、何かの間違いでしたね。女人が顔を見せるのも不思議と思い、てっきり・・・・・・」
言いつくろう重衡に、女は目を伏せたまま答えた。
「お恥ずかしゅうございます。人の出入りのないときを見計らって花びらを集めていましたものを」
壺に生けた桜の花びらが板敷きに落ち、風がさらっていく。その妙なる風情に、たしなみなく端近まで寄ってしまったという。
無人の回廊へ御簾の下からそっと手を伸ばし、拾い集めた花びらを扇に受ける。
その景色を想像すれば、この女性の仕草の方がはるかに妙なる風情と思えた。
衣に焚きしめた香が鼻腔をくすぐる。肩にかかる髪の落ち方もいい。
彼は、抱き締めていた腕を解く気が失せた。
重衡が咳払いすると、御簾向こうの従者たちはその場を後にした。
「お名前を伺ってもよいでしょうか」
「ゆかり子と・・・・・・」
女の肌は白にほんの少し紅を入れた、それこそ辺りに散り敷かれた桜の花びらと同色をしていた。
「良い名だね・・・・・・ ゆかり姫・・・・・・」
その花色が顔ばかりでないことを間もなく知る。