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どうか平穏が永遠に

 何処か訝しむような思いが消せないまま、時は進んでいく。否応なしに、その中で生きる者たちなんて置き去りにして。

「久遠さま」

 呼び声に振り返ると、そこには玻璃が立っている。

「……玻璃。雪水も」

 彼女の美しい金の目が僅かに歪んでいる。その後ろにいる雪水の表情も曇りがちだった。

「――西の団と、北西の団が」

「うん。分かってる」

 顔を上げ、西の方を見遣る。

 風に乗って流れてくるものがいくつかあった。血の匂い。様々な攻撃の音。飛び交う怒号、そして悲鳴。総て、戦いが起こっている証拠である。

「皆には警戒を強めるように周知徹底しておいて」

「はい」

 返事を残し、玻璃は静かに去っていく。が、雪水がその場に残ったまま。首を傾げると、彼女は眉を下げて俯いた。

「どうして、こんな……最近、おかしいです。中央の団に争いを仕掛けてくる輩も、増えました」

「……うん」

 月読との結びつきが生まれたことで、この辺りの巫女は道端で会えば挨拶してくれるほどになった。それなのに、今まで落ち着いていたはずの妖怪との関係が悪化し始めている。

 多分、去年の夏に長雨が続いて、作物が不作であることも関係していると思う。妖怪も食べずに生きてはいかれない。人間の負の感情を食い物にしている者は別だが、そうでない者たちはどんどんと弱っていく。ヒトと同じように、不作というものは争いの種に成り得る。

「あの辺りはそもそも水はけが悪くて作物が育ちにくいからな……」

 ひとりごちるように呟くと、雪水は更に顔を曇らせる。

「どちらかが滅びるまで終わらないでしょうか」

 彼女の悲しげな声と、風が運んでくる悲鳴が耳を撫ぜ、胸を重くさせていく。

「……きっと」

 始めたものは、総てが片付くまで決して終わらない。それが世の常だ。

 唇を噛む雪水の背中を軽く叩いて、おれは鈴菜の部屋へと足を向けた。

「鈴菜。いる?」

「久遠さま? はい、おります」

 声が聞こえてすぐ、鈴菜が襖を開けて出てきた。彼女も戦に気づいているのだろう。何処となく表情が暗い。

「念のため……結界、強化しておいてくれ」

 許可なき者が立ち入ることができないようにと、鈴菜には加入以来結界を張ってもらっている。本拠地が平和でいられるのはそのおかげだ。だがこれから先、おれたちに喧嘩を売ってくる可能性がないわけではないし、争いの種はできるだけ回避したい。

「承知しました」

 軽く頷いて頭を下げる鈴菜の頭をぽんぽんと撫でる。不安げに眉根を寄せていた彼女はそれにますますくしゃりと顔を歪めた。

「鈴菜。団員が、不安がるから」

 彼女の気持ちは痛いぐらいに分かる。情勢がどう変わっていくか、おれたちには読むことができない。未来は見えないから進むことができるけれど、見えないからこそ不安でたまらなくて、足を止めてしまいたくなる。

 でもおれたちはこの団をまとめていく立場だから。上が揺れては、ついてきてくれている者たちもまた足元が定まらなくなってしまう。

「――はい。申し訳ありません」

 唇を引き結びまた頭を下げるので、おれは首を振った。

「でも、こんな状況なのに……風巻が戻ってこないことも、不安で」

 自分の中においてもこっそりと巣食っていた不安が、彼女の言葉で顕在化する。表情に出さないようにするのに必死で、鈴菜の声が少しだけ遠のいた。

 風巻。どうして戻ってこない。

 理由があって帰ることができないときは必ず文が来ていたのに、それすら梨の礫。しかも、おれから猫に任せて出してみても返事がないのだ。

 何か大変なことが彼のことに起きているのかと想像しては、不吉な予感を追い払う。考えてしまったら拭えない黒となって心にこびりついてしまうから。

「今まで、こういうことがあればすぐに戻ってきていたのに……」

「里の方が忙しいのかもしれない。大丈夫、風巻はちゃんと約束を守る奴だよ」

 俯く鈴菜の頭をもう一度優しく撫で、微笑んでみせる。

「おれの夢を一緒に叶えてくれるって、約束してくれた。必ず帰ってくるよ。此処は、風巻のもうひとつの帰る場所なんだから」

 他の何が信じられなくなっても、彼の言葉だけは絶対に疑わない。

 おれをじっと見つめていた鈴菜にしっかりと目線を返すと、少しだけ表情を緩めてくれる。それにもう一度笑って肩を叩いて、自室に戻るために歩き始めた。

 明日には初めて双念が訪れるというのに、どうしてこうも穏やかでないのだろう。


 誰かが糸を引いている?


 ふと浮かんできたとんでもない想像に、勢いよくかぶりを振った。

 窓の隙間から覗く月は、今にも消えてしまいそうなぐらいに細く、儚い。何ということはない景色のはずなのに、胸騒ぎがして仕方がなかった。

「風巻……」

 無意識に紡ぎ出した名は、震えていた。

 早く、帰ってきてくれ。取り返しがつかなくなってしまう前に。

 しかし、異変が起きているのは、妖怪たちだけのことではなかった。

 この翌日、月読を交えて双念を団に案内することになっていたため、いつも通り桜の木のほとりで待ち合わせをしたのだが。

「月読……!? どうしたの、その怪我……」

 袖口から包帯が覗いているのが視界に入って、思わず息を呑むぐらいに驚いた。うっすらと赤い色が滲んでいることからして、それなりに深手だということが想像できる。

「昨晩、西と北西の団の抗争に乗じて、普段押さえつけられていた雑魚妖怪たちが暴れていたようで……その退治に向かったのですが。久々に不覚を取りました」

 苦笑する月読に眉を顰める。

 『月読』である彼女は、相応の実力を備えている。そういう巫女が雑魚妖怪にしてやられるなど有り得ないし、実際そのような彼女は一度も見たことがない。

「攻撃に集中するあまり、結界への気配りが足りていませんでした。見た目ほど深くはないのですよ、ただ少し大きいだけで……すみません、ご心配おかけして」

 怪我をしている方ではない左手をぶんぶんと振る月読に、一応は頷く。彼女がそう言うのならそうなのだろうと思うから。

 だが、気がそぞろになっていたとはいえ、彼女の結界がそう簡単に破られるはずがないのに。頭の片隅に嫌な思いが浮かんでしまうと、思考が同じ場所をぐるぐると回り始める。

 ほとんど散れてしまっている桜が、より一層彼女の存在を薄く見せる気がして、昨日の晩のように勢いよくかぶりを振った。

 不思議そうにしている彼女の向こう側に双念の姿が見える。何でもないと返す代わりに笑ってみせてから、彼に向かって軽く手を挙げてみせた。

「申し訳ありません、お待たせしてしまいましたか」

 錫杖の遊環をしゃらしゃらと鳴らしながら、双念は少しだけ焦ったような表情で足を止める。おれも月読もそれには笑顔で首を振った。

「昨晩の傷は大事ありませんか」

「ええ、あの時は本当に助かりました。双念殿や弟弟子殿がたがいらっしゃらなければ、妖怪を散らしてしまうところでした」

 会話を聞きながら歩き始めると、二人もゆっくりと進み始める。内容からして、どうやら双念が助太刀に入ってくれたことで事なきを得たらしい。

「月読も双念も、無茶はするなよ。最近妖怪の動きが妙だから……」

 心配になって眉を顰める。こうも不確定要素が多いと、二人のような手練てだれでもどうなるかは分からないのだから。

「ありがとうございます」

 月読は微笑みながら返してくれた。双念もそれに続く様子で首肯する。

 人間妖怪にかかわらず、できる限り皆には幸せでいてほしい。大なり小なり関わったことのある相手ならなおさらだ。

「月読殿は特に、お強いからといって一人で抱えてしまわれがちでしょう。いくら歴代最強の『月読』とはいえ、無茶はいけませんよ。ただでさえ、妖怪と親しくしていることで敵視する者もいるのですから」

 そして彼自身月読が心配だったのか、少し眉を顰めて諭すように言葉を紡いでいる。法師たる双念にはそういう口調がよく似合った。月読も逆らえなかったのか、また小さく微笑んで頷いている。

 おれはそれにほっとしかけたが、違和感を覚えて眉を顰めた。二人には決して気づかれないように。


 月読を見つめる双念の目が、一瞬、酷く冷え切っていたように見えたから。


 考え過ぎだと思う自分と、警戒を増す自分がいる。その狭間で揺れている。

 談笑する二人を微笑ましく思うのに、背筋を這い上がる寒気が消えない。

 増える妖怪の小競り合い。月読の怪我。双念から感じるように思われる冷たい気。一見何の関連もない事柄なのに、総てが一本の線の上にあるような思いを拭い去ることができない。

 気取られぬように注意深く双念を見ていたが、間もなく本拠地に辿り着く。団員たちには月読のときと同じように傷つけないように言い聞かせながらも、もやもやとした嫌な予感が消えなかった。

 人間たちと接するときと同じように目線を合わせ、微笑みを湛えてくれる彼が、悪い人のはずがないのに。月読が深く信頼している相手なのに。おれはいったい、何を考えているのだろう。

 総て彼が仕組んだことなのではないかと、どうしてそんなことを思ったりしているのだろうか。



 双念を連れて団を一回りしたが、巡回があるというので彼とは別れた。日は暮れ落ち始め、逢魔が時を迎えようとしている。法師や巫女たちにとっては最も警戒しなければならない時間のひとつ。月読も社に詰めている必要があるので、送っていく途中のことだった。

「……久遠さん?」

 会話が途切れた時、恐る恐るといった様子でそう呼ばれたのは。首を傾げると、月読は迷いのある表情でおれを見上げてくる。

「何事か、あったのですか? 今日、何処となく気がそぞろでいらっしゃった気がして……」

 躊躇いがちではあったが、心配そうな目の色ははっきりと見て取れた。どうやら悟られてしまっていたらしい。思わず自分に対して苦笑いがこぼれた。

「うーん。あったか、って聞かれれば、まだないけど」

「まだ……ということは、西と北西の抗争を気にしておいでなのですか?」

 それも心配ごとのひとつには違いないため、しっかりと頷く。

「妙だな、と思ってさ。これからどんどんと妖怪同士の争いが増えてくような気がして……それは、おれにとっても中央の団にとってもあんまり好ましい状況じゃないから」

 抱いている懸念を形にすれば、昨日の幹部たちのように月読の表情も少し曇った。

 胸の辺りで握られた白い両手。また覗いている包帯が、おれの不審をまた煽ってくる。何かがおかしいと。

「月読」

 見上げてくる瞳は、いつものように澄んでいて、綺麗で。

 この目が絶望を映すことなんてあってはならない。悲しみで歪められることなんて、あっちゃいけない。

 彼女は巫女で、この世の辛い部分を何度も目にしてきていることは知っているけれど、できることなら幸せに笑っていてほしいから。

「双念も言ってたけど……無理も、無茶も、しちゃ駄目だよ」

 合わせた目が、ゆらゆらと揺らめく。

「ね? きっと巫女の仲間たちも法師たちも団の皆も、……勿論おれも、月読が怪我をするのは、嫌だから」

 その視線をしっかりと捕まえて言葉を重ねると、ようやく月読は頷いてくれた。

「……はい。しかし、久遠さんも約束してください。私も、貴方が傷つけば胸が痛むのですから」

 強さを湛えて揺るがない彼女の眼差しが、おれにはとても愛おしくてたまらなかった。

「分かってるよ。おれは多分、自分で思ってる以上に、皆に大切にしてもらってるってことは」

 最後の最後までおれを生かそうとしてくれた家族。驕り、間違うおれを導いてくれた翠子。義兄として、第一の仲間として、背中を常に安心して預けていられる風巻。いつだってあたたかく迎え入れてくれる団員たち。妖怪と巫女という本来ならば敵同士の立場に在りながらも、こうして向き合ってくれる月読。そういう人たちにおれは支えられているし、救われている。

「自分で自分を粗末にするような真似は絶対にしないから。だから月読も、約束、守ってくれよ?」

 逢魔が時、大禍時。そんなふうに呼ばれるこの夕間暮れだけれど、どうしてそんな悲しい名がついてしまうのだろうか。

「はい。絶対に」

 微笑む彼女の顔がほんのり紅く染まって、とても美しいのに。

「じゃあ、またな」

 いつも通りの表情で手を振ると、月読は控えめに振り返してから社へと続く石段を上っていく。木々が視界を覆って見えなくなってしまうまで、おれはずっと手を振っていた。

 思わずため息が零れてしまいそうになって、ぐっとこらえる。

 双念への疑念は結局誤魔化してしまう形になったことを、今さら申し訳なく思っているのだ。しかし、同時に彼女には伝えたくないとも思う。

 月読は巫女だ。清らかで、妖怪を憎んではいたけれど、おれとの交わりで「境界線とは何なのか」と考え込んでしまうぐらいには、優しい。おれも風巻から『お人好し』と呆れられるが、多分彼女はおれの比ではない。

 彼女には綺麗なままでいてほしい。双念を疑うのは、とりあえずはおれだけでいい。もう少し、この胸騒ぎの原因を探ってから言いたい。

 ふと見上げた空は、血が滲んでいるように紅くて――ようやく、夕暮れは何故悲しい印象を多く持たれるのか、少しだけ分かった気がする。

 夜へと向かう紅色は、寂しさを招くのだ。とても美しいからこそ。

「……紅霞」

 いつもは呼ぶだけで安心をもたらすはずのその名は、どうしてかなおさら胸騒ぎを呼んだ。

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