理想を共有できたら
月の光は柔らかく あたたかく
それ故に冷たさなど知らず
● ● ●
春がやってきた。
冬の間眠っていた生命たちが一気に芽吹き、煌めき始める。植物も動物も、妖怪も人間も、穏やかな気持ちになる季節――そして、彼女と出会った季節。
「久遠さん」
駆けてくる月読を見つけておれは顔をほころばせた。
「月読」
軽く手を挙げてみせると、彼女も笑みを浮かべながらおれの手前で止まる。その息は大きく弾んでいる。どうやら大急ぎで来たらしい。
「そんなに焦らなくてもいいのに」
「いえ、こちらから呼び出させていただいたのに、お待たせしてしまって……」
胸の辺りを押さえながら申し訳なさそうに笑うので、首を振った。
「気にしないで。おれも今来たところだからさ、どうせ」
途端、月読の表情が少し緩んだ。それに笑ってみせながら、すぐ傍にすっくと立っている木を見上げる。
「もうそろそろ、桜の季節もお終いですね」
彼女もそれに釣られて見上げていたようで、少しだけ頬を綻ばせた。
「散ってしまうのは悲しいですけれど……美しいです」
「そうだね、綺麗だ。とっても」
ひらひらと舞い降りてくる小さな花弁。掴む真似をしたら、何枚かがおれの手のひらの中に収まった。笑って月読にそれを示すと、彼女は更に目を細めて笑った。
しばらく、二人とも何も言わずに見上げていた。月読は見惚れたようにしていたけれど、おれは考え事をしていたのだ。
あの日から一年が経ってしまったのかと思うと、感慨深いような。長かったような、あっという間のような。そんな気分に囚われて。
「久遠さん」
呼び声にふとそちらを見遣ると、愛おしそうな表情をしながら桜を見上げている月読の横顔が目に入る。
「あの日も桜が舞っていましたね。私、桜は散り際が一番好きです」
彼女と初めて出会った日も、確かにこんなふうに花弁が楽しげに舞っていた。月明かりの下、とても美しかったことを鮮明に覚えている。
「おれも好きだよ」
桜も、そうして花吹雪の中に佇む月読のことも――とは、流石に言えなかった。
形のいい唇が感嘆の吐息を漏らしている様子とか、穏やかな時を過ごしていてもその瞳にしっかりと湛えられた強い光とか、呼吸に合わせて小さく動く白い喉とか、胸元で合わせられている細く長い指をした手とか。そういうものを見るたび、心が落ち着かなくなる。抱きしめてこの腕の中に閉じ込めてしまいたいような気分にもなる。
だけど、それはできない。
おれだって互いの立場を一応は分かっているつもりだ。彼女は巫女。おれは妖怪。どれだけ好いたところで、結ばれることはない。
月読がいくらおれたちに協力してくれようとしているとはいっても、それはあくまで『巫女として』。彼女は巫女であることに徹しようとしているし、おれもそれをありがたいと思っている。
多分、彼女の方もおれを嫌ってはいない、とは思う。しかし関係が此処から動くことはないと言える。おれたちの夢のためにこのまま進んでいくのならば。
「久遠さん?」
横顔をじっと眺めていたからか、不意にこちらを見た月読が不思議そうに首を傾げた。おれは慌てて首を振る。
「今日はどうしたの?」
「あ、そうでした、失念するところでした……」
話題を切り替えた途端に、不思議そうながらまた少し慌ててみせるから、そういうところがまた愛おしい。普段はしっかりとして完全無欠のように振る舞っている彼女が、おれにはおっちょこちょいな部分も見せてくれているみたいで。
「以前、共生に興味があるとおっしゃった法師殿――双念殿がいらっしゃる、と申しましたのを覚えていらっしゃいますか? あの方がこちらにお戻りになったのです。今日、時間が空いていらっしゃるというのでお声をかけさせていただいたのですが……」
「あ、ほんとに? 会いたい会いたい。何処にいるの?」
「今はお寺の方に。社の山の麓を待ち合わせにしておきましたので、用が済み次第式神で連絡を頂けると」
にこりと笑う彼女は、『双念』という法師をおれに会わせることを楽しみにしているらしい。
「そっか。じゃあ、おれたちも行こうか?」
微笑みを返すと、月読も笑んだままで頷く。
「じゃあ……背中乗る?」
その麓までは三、四里ほどの距離がある。人間の足では結構な時間が必要だ。おれが彼女を抱えるなり背負うなりして走った方がかなり早く着く。
前にも同じように思って抱えたことがあった。しかし、最初に彼女を団に連れて行った時は前置きもなくいきなりだったことでだいぶ彼女を消耗させてしまったようであり、風巻にも怒られた。反省し、許可を取ることにしてみたのである。
「あ……ええと、よろしいのですか?」
恥じらいからか少し躊躇ったような表情をしつつも、控えめに言ってこちらを見上げてきた。そんな仕草もまた可愛らしくて胸の音がうるさくなった気がするが、黙殺。笑顔で頷いた。
遠慮がちに身を寄せてきた彼女を落とさないようにしっかり背負い、風を切って走り始めた。月読は少し驚いたような声を上げている。
「どした?」
「久遠さんが普段見ている景色はこうなのだと思って改めて見ると、楽しいです。私は普段見られないものですから」
ちらりと振り返ったおれの着物の肩を掴み、はにかんで笑う月読。
「そっか。楽しんでもらえてるならよかった」
平静を保つのがやっとだった。弾む胸には気づかないふりをして、意識的に呼吸を深くする。
背中から伝わってくる体温が心地いい。ずっとこの時が続けばいい、なんて、くだらないことを思う。
「久遠さん。吉野には素晴らしい桜があるらしいのですよ」
「それは見てみたいな。月読もまだないの?」
「はい。社に預けられた直後のとても幼い頃、月読の名を戴くために伊勢へ参ったことはあるらしいのですが……それが生涯で一番西へ上った遠出です。私が回るのはほとんどが東国ですから。一度は見てみたいものですね」
何処からか飛んできたらしい桜の花びらが、会話するおれたちの周りを楽しげに舞っていた。二人で見上げた幻想的な景色。世界にはおれたちだけだった。
「――いつか、さ。一緒に見に行こうよ」
風が吹き抜け、あたたかく、そして柔らかくおれたちを包み込む。微笑みながらまた振り返ると、彼女は嬉しそうにはにかんで笑っていた。
「はい。きっと」
肩を掴む彼女の手に、僅かに力がこもる。それにまた心地よさを覚えながら、おれは一気に残りの道のりを駆け抜けた。
「あれ。袈裟姿の人がいる……あれが双念?」
もう少しで麓というところで見えた人影。月読は「あ」と小さく声をあげてから勢いよく頷いた。
「そうです。双念殿です」
おれは頷いて速度を上げ、少し離れたところで一旦足を止めてから彼女を降ろす。
「月読殿」
あちらも彼女のことに気づいていたようで、人のよさそうな笑みを浮かべながら近づいてきた。錫杖の遊環がしゃらしゃらと涼やかな音を立てている。
「申し訳ありません、お待たせしてしまいましたか?」
駆け足で彼に寄っていく月読の後ろから、微笑んだままの法師の姿を興味深く眺める。おれが目に入っているだろうに、特に敵意を向けてくる様子はない。
「そちらが久遠殿ですか?」
「ええ、そうです。久遠さん、こちらは双念殿。とても強い法力をお持ちで、武蔵の国の法師殿方を統べる御方なのですよ」
「またまた、月読殿にそんなことをおっしゃられても。貴女の方が素晴らしい力をお持ちでしょう」
「いえ、巫女ならば『月読』に匹敵すると方々の高僧の方々から伺っておりますよ?」
「いえいえ、そのような……身に余る光栄です」
謙遜をし合っている二人にけらけらと笑って、軽く頭を下げる。
「二人とも強いってことでいいんじゃない? どちらからも同じぐらいすごい力を感じるよ、おれも」
月読と双念はおれを見て目を瞬かせ、それから顔を見合わせる。そして照れ臭そうに笑い合い、どうやらそういうことで解決してくれたらしい。
「貴方が久遠殿ですか。月読殿から御噂はかねがね。窺っていた通り、お強いようですね。初めまして、双念と申します」
改めてこちらに向き直った彼は、穏やかに言って頭を下げる。そのあたたかい微笑みは、確かに見た者の心を解す。前評判通りだ。
「初めまして。久遠――中央の団の団長。そちらこそ、月読から聞いてた通りだよ。穏やかな人だって」
「それはそれは……少し照れ臭いですね」
こちらも一礼を返しつつ笑ってみせると、照れ臭いという言葉の通りに困ったような笑いを浮かべながら頬を掻く。やはり敵意は全く感じられないままだ。
見せしめに滅ぼされた出身の猫又の里のこともあり、もしかすると油断させておいて攻撃をしてくるつもりかもしれないと正直のところは危惧していた。月読には申し訳ないけれど、それぐらいは警戒しておかなければ、おれだけでなく仲間をも巻き込んでしまうことになるから。嘘か真か、それを見分けるためにも直接会いたいと思っていたのだ。
だがこの分だと杞憂に終わりそうな気もする。「団に興味がある」というのは本当にその言葉通りで、他意はなかったのかもしれない。
警戒していることは悟られないように注意を払いつつ、月読と笑顔で言葉を交わす双念を観察した。
剃髪に、深い黒の瞳。思慮深いことを窺わせるような目。きっちりと身に纏っている着物。そういうものの端々から、真面目そうな雰囲気が感じ取れる。それが確実に違和感を訴えてきているのだ。真面目に生きようとする人が、法師が共通して持つ「妖怪は殲滅しなければならない」という考えを疑うものなのか、と。
「前々から、疑問を持っておりまして」
そんな様子を読み取ったからなのか何であるのか、ふと双念が言った。
「ん?」
「人間と妖怪にどんな差があるのか、と。勿論我々は妖怪退治を生業にしております。巫女殿たちよりも激しい思想を掲げて。つまりどんな言葉を重ねようと、詭弁と取られてしまうかもしれません。それに対して何も文句は申せませぬ。業は深い。しかし」
目を瞬かせたおれに、呟くようにして彼は自分の心情を語っていく。まっすぐにこちらを射抜く目は真剣だった。
「ヒトも妖怪も、奪いながら生きるしかありません。そもそも生きるということはそういうことです。植物も魚も生きております。食らう限り、生きる限り、奪い続けるということです。が、それでも――我らは本来、殺生を厭います。妖怪も命には違いありません。それなのに何故、妖怪を殺めることは無条件に是とされているのか……疑問でした」
――ねえ、久遠さん? 妖怪と人間の境界線とは、いったい何なのでしょうね?
いつか月読に訊かれたことを思い出す。
おれにも分からない。どうして妖怪とヒトの間には決して消すことのできない線が引かれているのか。ふたつがどうして分かたれてしまったのか。同じように喜んで、怒って、笑って、悲しむのに。
「だからおれたちに興味を持ったの?」
「はい。人間と共に生きようとしているだけでなく、妖怪間の争いも失くしていこうとなさっていると伺ったものですから。失礼な言い方ですが……どのような変わった方なのかと」
少し躊躇いがちに言われた台詞には吹き出してしまった。
「変わり者とはよく言われる。でも、おれたちの団は変わり者ばっかりだからさ」
変わり者が変わり者たちを集めて、変わった思想を推し進めていこうとしている。それがおれたち中央の団だ。
月読だって最初はあまりの『変わり者』具合に戸惑っていたけれど、彼女は徐々に馴染んで、受け入れてくれた。双念もそうなったらいい。
「そのうち、月読と一緒に覗きにおいでよ」
だけど。「月読と一緒に」と無意識に言ってしまったのは、やはり警戒がおれの中で消えていないから、なのかもしれない。どうしてかは分からない。ただ勘のようなものが、警戒は続けろと訴える。無視できないほどの大きさで。
「ありがとうございます。ぜひ、伺わせていただきます。月読殿、先駆者として色々とご指導願います」
笑顔で頷いて月読に話しかける彼には、こちらを憎むような仕草は全く見えないというのに。いったいおれはどうしてしまったというのか。月読のときは、あれほど無条件に「信じられる」と思っていたのに。
「せ、先駆者などと……でも、双念殿を始まりとして法師殿方にも久遠さんと私が目指そうとしているものが広がりを見せてくれたら、それほど嬉しいことはありません」
きっとこの妙な胸騒ぎは気のせいだ。そう思おうとしても、彼女と会話する双念の目に昏い光を見つけてしまった気がして、落ち着かなかった。




