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最弱スライム、洞窟の底から這い上がる  作者: 古屋桜


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第九章:樹海の調律

変色した表皮が、周囲の湿った緑の苔と完全に同化する。魔力の波長が周囲の植物と同調したことを知覚した蓮は、表皮の光を歪めていた肉体への制御をなめらかに緩めた。張り詰めていた魔力の変調が引き、肉体は再び馴染み深い琥珀色の瑞々しさを取り戻していく。

(よし、完璧に制御できる。……だが、他の捕食者に嗅ぎつけられる前に、この極上の一餐を全て俺の血肉に変える)

全方位へと向けられた蓮の全知覚が、目の前に横たわる岩鎌蟷螂の巨体を捉える。

切り落とされた右の岩鎌、溶解した背の甲殻、およびまだ温かみの残る膨大な肉組織。これほどまとまった上質な質量と魔力を得る機会は、この地下世界に落とされて以来、初めてのことだった。

蓮は琥珀色の肉体を限界まで薄く広げ、蟷螂の全身を覆い尽くすようにして覆い被さった。

じゅぶ、じゅぶぶぶ……。

強烈な有機酸が蓮の底面から分泌され、蟷螂の強靭な外骨格を外側からドロドロに溶かしていく。骨も、肉も、残った一本の岩鎌の鋭利な成分さえも、一切を無駄にせず自らの血肉へと変えていく、完全な消化吸収だった。

体内に取り込まれる膨大な情報とエネルギーの奔流。胃袋というべき体腔の奥底で、魔獣の全てが蓮の組織へと完全に同化していくのを感じる。

一滴の体液すら苔に吸させぬほどの執念で食らい尽くし、数時間が経過した頃。

そこには、あれほど巨大だった岩鎌蟷螂の姿は跡形もなく消え去っていた。地面の苔が、溶解液によってわずかに変色しているだけだ。

(……満ち足りている。だが……体が重いな)

蟷螂の全質量を吸い上げた蓮の肉体は、以前の数倍——中型犬ほどの大質量へと肥大化していた。スライム特有の凝縮性で破裂こそ免れているものの、琥珀色の粘体はかつてないほどずっしりと高密度に詰まっている。

試しにその場を離れようと地面を這った蓮は、即座に新たな障害を自覚した。

(進まない……! 移動速度がガタ落ちだ)

取り込んだ莫大な質量が、そのまま蓮の肉体に重くのしかかっていた。

(今までは部分的な損耗の修復や小規模な捕食だったからすぐに馴染んだが、流石にこの大質量を一度に同化させるとなると、細胞の変質が追いつかないか……)

蟷螂の「強靭な筋肉の構造」の因子自体はすでに体内に取り込んではいるものの、それが蓮の全身の粘性細胞へと完全に融解し、運動能力として定着するには生物的なタイムラグがある。体重だけが先に数倍になり、それを動かすための駆動システムがまだ馴染みきっていないのだ。

蓮は再び意識を向け、表皮を苔の緑へと溶け込ませると、その場でじっと身を潜めた。まずは体内の消化と同化を優先させる。

体腔の奥で、ドクンドクンと激しい脈動が繰り返される。

時間の経過とともに、蟷螂の強靭な繊維組織の因子が、蓮の流動的な細胞ひとつひとつへと自然に染み渡り、同化していく。全身の粘体に擬似的な「張力」がなめらかに通い始めるのを感じた。

数時間後、ようやく細胞レベルでの適応が完了する。激増した大質量を支え、かつ以前と同等、あるいはそれ以上の力強い推進力で地表を滑るだけの収縮力を、蓮の肉体は自然と我が物にしていた。

体内の魔力タンクが限界まで満たされ、内側から溢れんばかりの生命力が脈動している。これだけのエネルギーがあれば、当面は飢えに苦しむことも、軽率な消耗で死にかけることもないだろう。

気配を完全に殺した状態のまま、蓮はゆっくりと、しかし確実にその場を離れ、周囲の探索へと乗り出した。

振動知覚を鋭く研ぎ澄ます。

これまでは周囲の「敵」の気配ばかりに神経を尖らせていたが、満ち足りた状態になった今、ようやくこの環境そのものを観察する余裕が生まれていた。

(下層のあの息の詰まる火口や、中層の冷え切った地底湖とは、根本的に何もかもが違うな……)

這い進みながら捉える情報が、脳内でこの階層の立体地図として構築されていく。

頭上を覆う巨大な樹木の根や、至る所に群生する植物からは、それらが魔力を蓄えて呼吸しているかのような、微かな温もりが放たれており、それがこの地下樹海の独特な湿度と温暖な気候を作っているようだった。大樹の根元や岩の隙間など、至る所に繁茂する植物や苔、および鉱石の随所から、純度の高い魔力の脈動がかすかに感じ取れる。

しばらく進むと、蓮の振動知覚が、前方の空間が大きく開けているのを捉えた。

警戒しつつ、苔の生い茂る巨根の隙間から這い出た蓮は、その空間が放つ圧倒的な「気配」に意識を奪われた。

そこは、広大な「空間の断層」だった。

地下樹海がさらに深部へと続く斜面の手前、天井の裂け目から溢れ出る濃密な魔力の奔流が、一本の巨大な結晶樹へと降り注いでいる。その強大な魔力の輝きは、視覚のない蓮の知覚を白く染め上げるほどだった。その根元からは、澄んだ地下水が小さな湧き水となって溢れ出し、周囲に透き通った池を作っていた。

その池の周囲には、蓮を脅かすような獰猛な魔獣の気配が一切なかった。あるのは、ただ静かに魔力を湛えて波打つ水面と、その気配に引き寄せられるように自生する、見たこともない発光植物の群生だけだ。

(……見つけた。ここなら、安全に拠点を構えられるかもしれない)

下層での容赦ない生存競争から、ようやく掴み取った安息の可能性。

蓮は隠密の衣を纏ったまま、その静謐な湧き水の地へと、音もなく滑り込んでいった。

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