第23話 悪役令嬢、数字で殴る
白鳳館の朝は、夜よりも容赦がない。
夜の宿は湯がある。
灯りがある。
静けさがあって、人の輪郭を少しやわらかくしてくれる。
だが朝は違う。
現実が一気に戻ってくる。
朝食の仕込み、部屋の片づけ、チェックアウトの流れ、客室の回転、在庫確認。宿にとっての朝は“風情”ではなく、かなり明確に“運用”だ。
だからこそ、朝の白鳳館を見ると、見えてしまうものがある。
「……眠そうですわね」
帳場脇の小会議室で、資料を広げる前の第一声がそれだった。
朱麗は今日もきっちりしていた。
朝だろうが何だろうが、姿勢も視線も隙がない。だが、そんな朱麗でさえ昨夜はかなり遅くまで動いていたはずだ。なのに本人は、まるで平気な顔で分厚いファイルを机へ置いた。
「お前にだけは言われたくない」
俺は椅子へ座りながら言う。
「昨日お前も寝てないだろ」
「気のせいですわ」
「その返し、白鳳館来てから何回目だよ」
「便利なので」
「感染してるじゃねえか」
隣で、凛音が小さく息を吐いた。
「かなり進行していますね」
「お前が言うな」
凛音は今日は珍しく少し眠そうだった。
昨日の宿帳読みのあと、ちゃんと寝たとは思う。思うけど、朝の光の中で見ると目元にまだ少しだけ余韻が残っている。
……その原因の半分くらいは、たぶん俺のほうにもあるので、そこは考えないことにした。
「で」
俺は机の上のファイルを見る。
「今日の本題は何だ」
「数字ですわ」
朱麗はきっぱり言った。
「白鳳館が“変わり始めた”ことはわかりました」
「ですが、それを“続く形”へ落とすには、現場の熱だけでは足りません」
「どこへ力を入れて、どこを維持し、どこを増やすか」
「その判断を、そろそろ感覚だけでやる段階ではなくなりましたわ」
そう言って朱麗が開いたファイルには、数字がびっしり並んでいた。
客室稼働率。
曜日別の宿泊単価。
料理原価率。
再訪率の推移。
客室ごとの満足度と、実際の利用回数。
人件費の波。
仕入れ変動。
湯けむり御膳導入後の追加負担。
「……お前、これいつ整理した」
「昨日の夜と今朝ですわ」
「寝ろよ」
「必要でしたもの」
「便利ワード大流行だな……」
だが正直、資料の精度はかなり高かった。
ただ数字を並べているんじゃない。
白鳳館の“どこで勝っていて、どこで損しているか”がわかるように整理されている。
俺は数ページめくって、思わず少し黙った。
「どうしましたの」
「いや」
俺は素直に言う。
「ちゃんとしてるなと思って」
その瞬間だけ、朱麗がほんの少しだけ言葉を失ったように見えた。
だがすぐに咳払いを一つして、何でもない顔へ戻る。
「当然でしょう」
「わたくしを誰だと思っているんですの」
「そういう返しで誤魔化すなよ」
俺は苦笑する。
「かなり本気で感心してる」
「……かなり、ですの?」
「かなり」
朱麗の耳が、ほんの少しだけ赤くなる。
凛音がそれを見て、静かに言った。
「褒められ慣れていそうなのに、そこは弱いんですね」
「白雪さん」
朱麗は低い声で言う。
「余計な解説は不要ですわ」
「でも事実です」
「便利ワードで流さないでくださいまし!」
やっぱりこの二人、最近ほんとに遠慮がない。
◇
資料を見ていくうちに、白鳳館の問題が少し違う輪郭で見えてきた。
「……なるほどな」
俺は、客室稼働率と単価の推移を見ながら言う。
「何かわかりましたの?」
「白鳳館、今まで“全体でなんとかしよう”としすぎてたんだな」
朱麗が目を細める。
「詳しく」
「客室の満足度は、上位の部屋と中位の部屋でそんなに差がない」
俺は紙を指で叩く。
「でも再訪率は上位の部屋を使った客のほうが明らかに高い」
「たぶんこれ、部屋単体の良し悪しじゃなくて」
「“白鳳館でいい夜を過ごした”って記憶ができやすいラインが、ある程度絞られてるってことだろ」
凛音が静かに頷いた。
「景色と静けさが強く噛み合う部屋、ですね」
「たぶんそう」
俺は続ける。
「で、それを全客へ均等に配ろうとしてたから、結果的に全部が少しずつ薄くなってた」
「……ええ」
朱麗は少し驚いたような顔で頷く。
「そこは私も同じ見立てですわ」
「今の白鳳館は、“均等”にこだわりすぎると、かえって印象を削る構造になっています」
「なるほど」
凛音が言う。
「“平等”であることと、“強く届く”ことは違うんですね」
「そう」
俺は頷く。
「宿って、全部を同じ熱量で良くしようとすると、逆に芯がなくなる時がある」
「白鳳館は今、そこにいる感じだ」
朱麗がページをめくる。
「それに加えて、湯けむり御膳の原価と人件費の上昇もありますわ」
「試食会と再来客ではうまくいきましたが、これを毎日全室へ均等に出すのは少々重い」
「現場も、現状ではまだ耐えきれません」
「うん」
俺はすぐに頷く。
「そこは前から気になってた」
「勝負の日に強い料理と、毎日回る料理は違う」
「ですから」
朱麗は少しだけ乗り出した。
「白鳳館がこの先どこで勝負するかを、そろそろ明確にすべきですの」
その言い方は、昨日までの“宿を良くしたい”から一歩進んでいた。
経営判断だ。
何を守って、何を切って、何を伸ばすかを決める話になっている。
凛音が、資料を見ながら小さく言う。
「数字で見ると、少し怖いですね」
「何が」
「白鳳館の良さが消えたんじゃなくて」
凛音は紙の上の線を指でなぞる。
「“良いのに、収益へ結びつかなかった時期”がちゃんと見えることです」
「それが一番きついんですの」
朱麗は言う。
「良さがなかったなら作れます」
「ですが、良さがあるのに届かない状態は、皆が“本当はもっとできる”と知っている分だけ、傷になりますわ」
その言葉は、かなり本質だった。
現場が疲れるのは、単に忙しいからじゃない。
自分たちの持っているものが、持っている通りに届いていないと知っている時だ。
白鳳館は、たぶん長いことそこにいた。
「……お前」
俺は朱麗を見る。
「そういうの、ちゃんと言葉にできるんだな」
「失礼ですわね」
朱麗は眉を寄せる。
「普段からできます」
「いや、普段はもっと数字で殴ってくる感じだろ」
「それも必要ですもの」
「たしかに」
でもそこからが問題だった。
朱麗は資料をきっちり揃えると、帳場奥に呼ばれていた志摩さんと早坂さんへ、そのまま説明を始めた。
「現状の稼働構造を見る限り」
「白鳳館は“全体を均質に改善する”より、“勝負する導線を明確にする”ほうが効果的です」
「ですので、今後は客層と曜日に応じて、迎え・食事・客室の印象設計へ濃淡をつける必要がありますわ」
言っていることは正しい。
だが、言い方が全部硬い。
案の定、志摩さんはまじめに聞いているが少しだけ肩が上がった。
早坂さんは腕を組んだまま、表情が読みにくい。
「……なるほど」
志摩さんは慎重に答える。
「つまり、全部を均等に頑張るのではなく、どこへ注力するかを決める、ということですね」
「ええ」
朱麗は頷く。
「感情論ではなく、投資効率として」
その一言で、空気が少しだけ固まった。
ああ、やっぱりそうなるよな。
現場の人間にとって、“投資効率”は正しい言葉だ。
でも、白鳳館の再建に汗をかいているこの場で、そのまま置くには少し温度が低い。
「九条」
俺は小さく呼んだ。
「何ですの」
「言ってることは合ってる」
「でもそのままだと、現場が“切り捨てる前提の話”に聞こえる」
朱麗が一瞬だけ黙る。
たぶん、そこは自覚がなかったのだろう。
「……では、どう言えばよろしくて?」
その返しが少しだけ素直で、逆にこっちが面食らう。
「翻訳すればいい」
「翻訳?」
志摩さんが聞き返す。
「要はこういうことだろ」
俺は資料を引き寄せる。
「白鳳館って、今まで全部を同じ温度で“ちゃんと”やろうとしてた」
「でもそのやり方だと、良さが全部少しずつ薄くなる」
「だから、“ここで白鳳館らしさを強く残す”って場所を決めて、そのために他を崩さず支える必要がある」
早坂さんが少しだけ目を上げた。
「……料理で言えば」
俺は続ける。
「毎日全員に一番重い勝負料理を出すんじゃなくて」
「“今日はここで刺す”ってラインを決める、ってことだ」
「それなら現場も守れるし、客にもちゃんと残る」
「なるほどな」
早坂さんが、ようやく少しだけ息を吐く。
「それなら、たしかに現場の話だ」
志摩さんも、ほっとしたように頷いた。
「ええ」
「そのほうが、ずっと白鳳館としてイメージしやすいです」
朱麗は、その様子を見て少しだけ唇を引き結んだ。
悔しい、のかもしれない。
自分の言葉だけでは届かなかったことが。
でも同時に、たぶんちゃんと理解もしている。
正しさだけでは、人は動かない。
「……勉強になりますわね」
朱麗が小さく言った。
「何が」
「あなたが、そうやって自然に“翻訳”できることですわ」
朱麗は俺を見る。
「数字の意味は理解しているのに、それを現場の呼吸に合わせて言い換えられる」
「そういうの、ずるいですわ」
「ずるいって何だよ」
「だって」
朱麗はほんの少しだけ目を逸らす。
「こちらがきちんと組んだ理屈を、もっと自然に届く形へ直してしまうんですもの」
その言い方が、悔しさ半分、認めている感じ半分で、妙に朱麗らしかった。
凛音が静かに言う。
「でも、九条さんの数字があったからです」
「柊木さんは、何もないところからは翻訳できません」
「……白雪さん」
朱麗は少しだけ目を丸くする。
「それ、慰めていますの?」
「事実です」
「便利ワードすぎますわね……」
◇
帳場の打ち合わせが終わったあと、小会議室へ戻ると、ようやく少しだけ空気がほどけた。
朱麗は椅子へ座ったまま、机の上の資料を見ている。
いつもならすぐ姿勢を戻して次へ進むところだが、今日はほんの少しだけ動きが遅い。
「落ち込んでる?」
俺が聞くと、朱麗が即座に顔を上げた。
「落ち込んではいませんわ」
「その返し方は、少し落ち込んでる時のやつだろ」
「失礼ですわね」
朱麗は言うが、いつもほどの勢いはない。
「……ただ」
一拍、間が空く。
「理屈が正しいだけでは足りないのだと、改めて思っただけです」
その言い方は、思っていたよりずっと柔らかかった。
「でも、お前の資料はかなり良かったぞ」
俺は言う。
「正直、あそこまで整理されてなかったら俺も見えなかった」
「白鳳館の弱り方が、ようやく数字でも輪郭になった感じがした」
朱麗が少しだけ目を開く。
「……かなり、ですの?」
「かなり」
俺は頷く。
「お前の強み、ああいうとこだろ」
「感覚で良かったね、で終わらせないで、“じゃあ何を残して何を増やすか”まで持っていける」
しばらく、朱麗は何も言わなかった。
やがて、ほんの少しだけ肩の力を抜いて、小さく息を吐く。
「そう言われると」
「……困りますわね」
「何が」
「今日二回目ですもの」
朱麗は視線をそらしたまま言う。
「自然に褒められるの」
「二回だと何か問題あるのか」
「かなりありますわ」
「そこで使うなよ」
だが、その言葉の端に、ちゃんと嬉しさが混じっているのもわかる。
凛音がその様子を見て、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「やっぱり、そこ弱いんですね」
「白雪さん!」
朱麗が低い声で抗議する。
「あなた、本当に私への遠慮がありませんわね」
「事実なので」
「便利ワードで殴らないでくださいまし」
そのやり取りが少しおかしくて、思わず笑いそうになる。
だがそこで、白鳳館の廊下の向こうから、志摩さんが誰かを迎える声が聞こえてきた。
客ではない。
業者か、問い合わせか。
でもその音を聞いた瞬間、また現実へ引き戻される。
白鳳館は、今ここで止まっていられる段階じゃない。
数字も、運用も、熱も、全部をもう少し先へ持っていかないといけない。
「……次は」
俺は朱麗の資料へ目を落とす。
「勝負の日と通常日の線引きを、もっと詰める必要があるな」
「ええ」
朱麗もすぐ頷く。
「曜日、客層、部屋、仕入れ、全部を噛み合わせないといけませんわ」
「かなり面倒ですね」
凛音が言う。
「かなりな」
俺は答える。
「でも、今の白鳳館ならその面倒に意味がある」
その一言で、部屋の空気が少しだけ静かになる。
たぶん、その“意味がある”が、今の白鳳館に一番必要な言葉だった。
白鳳館はもう、“なんとか立て直したい場所”から“ちゃんと前へ進める場所”へ変わり始めている。
それを数字が示して、
現場が感じて、
客の言葉が後押ししている。
だから、今ある面倒は全部“進むための面倒”だ。
そしてたぶん、それは白鳳館だけじゃない。
学園の切り抜きの件も。
凛音と朱麗との距離も。
俺自身の立ち位置も。
全部、同じくらい面倒で、
同じくらい、もう戻せないところまで来ている。
「……何ですの」
朱麗が聞く。
「何が」
「今、また白鳳館と私たちを一緒に考えましたわね」
「お前エスパーかよ」
「顔です」
今度は朱麗が言った。
「お前までそこに行くのか」
「便利ですもの」
「感染がひどいな……」
でも、その返しに少しだけ笑ってしまう。
笑えてしまうこと自体が、かなり前より危ない。
それでも今は、それでいい気もした。




