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十六夜 出発の時

 奪目の儀が中止された満月の次の日。

 ノックスはアストライオス王に呼び出された。


「入りなさい」


 王は机の上に置かれた古びた仮面を示した。目の部分は黒いガラスで覆われていた。


「お前の目では光の世界は見られない。だから、この仮面をつけていきなさい。かつて影人が光の世界を侵略した時のもので、闇の神殿で発掘され王家で保管されていた。古いから、衝撃で割れるかもしれん。気をつけろ」


 黒いガラスの表面には細かなひびが走り、縁は欠けてざらりとしていた。

 手に取った瞬間、ひどく軽く、頼りない感触にノックスは眉をひそめる。


 (古文書にも書いてあった仮面ってこれのことか……だいぶ古そうだけど大丈夫か……?)


「……ありがとうございます、伯父上」


 王はさらに、首から大きなダイヤモンドがついたネックレスを外し、ノックスに渡す。


「扉を開けたあと、これを光の王に返してくれ。そうすれば二つの世界の扉は閉じられる」


 ノックスは黙って頷く。


「……もっと早くこうしていればよかったのかもしれん。だが、後悔先に立たずだな」


「違います。伯父上と先代天女の花が、闇の病の治療法になり、民の意識を変え、ルナを救う道を開いたんです」


 王は微かに微笑み、かすれた声で続ける。


「……私は制度を変えられなかった。そのせいで、アンバーは死んだ。愛し合いながら、命を奪わねばならない——そんな残酷さを、お前たちには背負わせたくない」


 アストライオスはふぅ、と弱弱しく息を吐いた。


「……危険な任務だが、ノックス。お前なら必ず帰ってくると信じている。ルナのために……そして、この世界のために。頼んだぞ。」


 (……やっぱり、伯父上はずっと前から俺とルナの関係に気がついてたんだな......)


 ノックスは王の部屋をあとにして、月の塔に向かった。



 ---


 月の塔に呼ばれたノックスを、ルナが待っていた。机の上には瓶や袋が並んでいる。


「あなたが知っておくべきことが二つあります」


 ルナは細工の美しい小瓶を差し出した。中には黄金色の光を放つ液体が少量入っていた。


「まず、光の民は匂いで影人を見分けます。あなた方は土や焼けた鉄のような匂いがしますから。出発直前にこの香水を使ってください」


「全部使っていいのか?」


「構いません。わたくしも闇に来たばかりの頃は使っていましたが、もうこの世界の臭いに慣れてしまいましたので」


 次に、小さな革袋を渡す。


「あちらの貨幣です。使わないかもしれませんが、念のため」


 そして真剣な表情で続けた。


「最後の注意です。向こうでは物を渡すとき、右手を使ってください。光の民は絶対に左手を使いません。無自覚なのでしょうけれど、あなたは何かと左手で渡してきますから」


 ノックスは笑って頷く。

 ルナはふっと息をつき、少し視線を落とした。


「……ここまでしてくれて、ありがとう。奪目の儀は終わったので、わたくしの命が狙われることはなくなりましたが……民のためじゃなくて、全部、わたくしのためでしょう」


 ルナの青い瞳がわずかに潤んだ気がした。


「ルナは他の天女を闇の世界に来させたくなくて、百年戦ってきたんだろ。光の世界と断絶すれば、君の望み通り、もう天女は来なくなる。意味のない憧れのために、無駄な犠牲を出すのは、これで終わりにしよう」


 月が部屋を照らす中、天人の青い瞳と影人の赤い瞳が見つめあう。

 ほんの数秒、時間と空気が優しく止まる。


 その静寂を破るかのように、時を告げる鐘の音が鳴り響く。

 出発の刻だ。


「そろそろ、行かないと……」


 ノックスが歩き出そうとした時、ゆっくりと手袋を外し、ルナが前に立ちふさがった。


「……気をつけて行ってきてください」


 ルナは正面からノックスを優しく抱きしめた。


 ノックスは突然のことに驚きながらも、その陽だまりのような温もりを受け止めた。

 ルナの香りと、柔らかな感触、触れている手や頬から忘れられない光の記憶が呼び起される。

 泣きたくなるような懐かしい感覚が胸を締めつけ、離れたくない衝動に駆られる。


「……こんなの、反則だろ……」

「……今は、特別ですわ」

 そう言うルナの声はわずかに震えていた。


 あと数センチで唇が触れる――その距離で止まり、互いに息を吸う。

 ノックスは理性を総動員して、ルナの肩を軽く抱いて離れる。

 

(行かないと。けれど、本当は……ずっと触れていたい)


「……絶対に戻るから。待ってろよ」


 わずかに欠けた月が暗闇を照らす。

 同じ輝きを放つ青い瞳は、ノックスを愛おしそうに見つめた。


「約束ですよ……絶対帰ってきてください。門まで見送ります」


 ◇


 光の世界の入口となる鏡の前でアストライオス王が待っていた。

 仮面をつけ、ダイヤモンドの鍵を鏡の横にはめ込むと、鏡のような扉が光を放ち始めた。

 ノックスは振り返った。

 王の琥珀の瞳は、揺るぎない祈りを込めて彼を見つめていた。

 その隣で、ルナの瞳が月光を受けて潤んでいる。


 (――必ず帰る。)


 ノックスは不安を感じながらも、胸の奥で呟き、深く息を吸った。

 そして、一歩を踏み出した。


 光の波が彼の姿を呑み込み、静寂と暗闇が訪れた。


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