第九章 飛華秘話(六)
翌朝、私たちは夜明け前に起こされた。
暗い部屋には細い蝋燭が一本だけ灯っている。
暗いうちに飛華洞に行くと言われ、目を擦って起きあがる。
「朝だぞ」
向かいの寝台の楊淵季は、まだ寝ているように見えた。
体をゆすると、うるさそうに手を払われる。
「もう目は覚めている」
楊淵季が体を起こした。
蝋燭の光でもわかるほど顔は青白く、目の下には隈ができている。
だが、彼は無駄のない動きで襟元を整えると、物音もたてずに立ち上がった。
夜明け前の迂峨過都は、すべてのものが藍色に見えた。
地平の向こうにも、藍色の空しかない。
そんな中、少年に従って路地を歩く。
足元の道も、側にある水路も藍色で、うっかりすると落ちてしまいそうだった。
突き当たりの飛華洞の壁までくると、壁を伝って大通りに出る。
大通りに面したところに、藍色に染まった石壁の中央を切り裂くように、金属の門が暗く沈んでいた。
「行くよ」
少年の声に、私たちはうなずく。
それを見届けて、少年が手をかざした。
「空飛ぶばかども」
少年が発したのは、鍵というには荒っぽい言葉だった。
怪訝に思い、まじまじと少年を見つめる。
彼は真面目な顔で扉に向かい合っていた。
本当にそれが鍵なのかと問うまもなく、重く軋む音がして、門が左右にずれ始める。
中に篝火の並ぶ廊下が見えた。
私はおそるおそる門を抜け、飛華洞に踏み込んだ。
中に入ると、少年は扉を振り返り、また、手をかざす。
「それはおれたちだ」
金属を引きずる音をさせながら、扉が閉まった。
鍵と言うには、あまりに軽薄な言葉だ。
私は額が重くなったように感じて、指先で押さえる。
「ね、いい鍵だろう」
少年は私たちの前に回り込みながら、嬉しそうに笑った。
答えずに前を向いて歩き始めると、後ろから声がした。
「憧れるな」
振り返ると、楊淵季が目を細め、微笑んでいた。
まるで好物を食う夢を見ている子どものようだ。
「昔からこの鍵なのか」
楊淵季は私の頭越しに、少年に尋ねた。
「違うよ、鵬ができる前の鍵は、こんなふうだ。地を駆けるぜ、自分の足以外でな」
背後から、ほうと深いため息が聞こえる。
「美しい」
どう聞いたって楊淵季の声だ。
だが、彼の感覚がさっぱりわからない。どうかしている。
これが美しいのなら、帝国に伝わる詩は、すべて醜く下品なものになるだろう。
「おい、あれを見ろよ」
楊淵季が呼んだ。
指さす先に、置物がある。
置物は廊下の両側に並んでいた。
「あれは気車に積んでいるものだろう」
彼の示したのは、円筒の形をした金属のかたまりだった。
先端に突起があり、唸りながら回っている。
「あれで車輪を回しているんだな」
楊淵季の声はやけに嬉しそうだった。
先程までの緊張は、美しい鍵のおかげで解けてしまったらしい。
「迂峨過都では鵬もあれを使っているんだぜ。四台も積んでいる」
少年も興奮した声を上げた。
「気で飛ぶというが。すぐとまったりしないのか」
私の背後から楊淵季が返した。
「気をためておく器を改良したのが、おれの父さんだ。しかも、父さんの鵬は、気を自分で作りながら飛ぶんだぜ」
「素晴らしい。大発明だな、李三」
二人は私の頭越しに会話を続けている。
話題は、鵬という飛車の仕組みに移った。
翼の位置であるとか、操るための杖を動かす時にはどのくらいの重さを感じるのか、などという話だった。
理屈としてはわからなくもなかったが、私にはさっぱり興味が持てない。
声が次第に高くなって来た頃、前方に大男が現れた。
「李三、盛り上がっているな」
嫌味っぽい口調だった。
しかし、よく見ると、暗がりの中に白い歯が見えている。
笑顔だ。
楊淵季がようやく黙り、私の横に並んだ。
「趣味をわかってくれて嬉しいよ」
男が篝火に照らし出された。
私は思わず目を疑う。
馬虎飯店の梅乗だ。
「お久しぶりです。楊淵季殿」
はっきり嫌味だとわかる抑揚のある口調で言うと、梅乗はまるで武偉長のように手を差し出した。
楊淵季がその手をつかみ、乱暴に振り回す。
「公務に就く道士の、公務外労働は禁じられているはずですが」
彼も彼で、違法な露店を取り締まる役人のような言い方だった。
「たまに来るだけの助手だからかまわないでしょう」
梅乗も報告書の問題点を無視する官僚のような言い方をする。
二人は互いに穏やかな笑顔を浮かべてはいる。
だが、大男の梅乗と、背の高い楊淵季が互いを嫌悪しながら向かいあっている様は、穏やかでも爽やかでもない。
「それで、何をご覧になるつもりか」
梅乗が手を強く握り直した。
少年が割って入り、見上げる。
「一通り案内してやりなよ」
梅乗は胡散臭そうに少年を見下ろした。
すると、楊淵季が強引に手をほどき、片足に重心をかける。
体の力が抜け、だらしない姿勢になった。
「先の天君の研究室を、開けられますか」
「何虎敬様がおっしゃっていた件ですね。しかし、長い間使われていない研究室ですが、お役に立ちますでしょうか」
「立つかどうかはこちらで判断いたします」
やけに役人めいた口調だった。
梅乗が眉を寄せた。
目は怒ったように見開かれている。
私は、二人の視線を遮るように体を割り込ませた。
梅乗が、邪魔だ、という目で見下ろした。
背後からも冷たい視線を感じる。
それをこらえ、腹に力をいれて拳を握った。
「見せていただきたいんです。今の天君は先の天君の助手だったと聞いています。もしかして、天君の持つ、殺人鏡の仕組みにつながるものがあるかも知れません」
口笛を吹くように梅乗が顎を上げた。
そんなことができるか、と言っているようだった。
「何があるか見てみないと、考えることすらできません。からくりがわかれば、武偉長殿や、何虎敬殿の死の謎が解けるんです」
しばらく梅乗は目を細めて私を眺めていた。
子どもの嘘を見抜こうとする親のような視線だ。
じっと見つめ返していると、梅乗が不意に背を向ける。
「では、いらっしゃい。ただし気をつけなさい。ここは研究方法以外の常識を持たない人ばかりですから」
呆気に取られていると、楊淵季が私を通り越して前に出た。
彼らの歩調は速い。
少し遅れてついていくと、少年が隣に並んだ。
「ありがとう。おれもここの連中は扱いに困っていてさ」
恥ずかしそうに私に手を伸ばす。
私は、その手を握り返す。
彼がはにかんだ。
「こちらこそ。君がいなかったら、ここに入れなかった」
彼の手の平は思ったより乾燥していた。
手をほどき、再び一緒に歩き始めた時、私はこの少年――李三を信じようと思った。




