第七章 大芙蓉棚(三)
前回のあらすじ
やぐらでは、武偉長の遺体が改められていた。
その指には、天君の宝刀からちぎりとったと思われる飾り紐がからまっている。
それは、龍鳳洞にいた天君の宝刀のものだった。
私たちはやぐらを離れ、大通り沿いの木立に隠れた。
通りからは家が見えた。華都で言えば貴族の屋敷に似ている。
塀で囲まれた中にいくつも棟がある。
ここの屋敷は屋根が平らではない。
厨房で夕食の支度をしているらしく、煙が上がっていた。
穏やかな風景を眺めていると、武偉長が殺された時の様子が何度も蘇る。
風景と事件、同時に二つの物を見ているような気すらした。
「武偉長も短刀を持っていたんだ。やぐらの上にまだあるのかも」
煙に目を細めながら、小さな声で言う。
楊淵季も囁くような声で返してきた。
「やぐらには手がかりもあるだろうが。昼間は通りから丸見えだ。夜に上がってみよう。今日は、月もあるだろうから」
よく考えてみれば、もうすぐ満月だった。
「学長が死んでから、ひとつきになるんだ」
事件は明確に覚えている。しかし、その事実だけが遠い。
さっきの医者が言っていたのは本当かも知れない。もっとはっきり、学長が死んだことを知るべきだった。
今の私の頭に学長はいない。
だからこうしていても、どこからか学長が現れるような気がした。
月が出る前に早く家に帰りなさい、月夜は悪酔いの客も多いからなどと、いつも微笑んでいるような顔で言うのだ。学長はいつも笑っている。他の表情が、思い出せない。
ただのひとつきなのに、学長の多くを忘れてしまっていた。
怒られたこともあったはずだ。悪戯を見逃してもらったことも。そんな時はさすがに笑っていなかった。でも、思い出せない。
希薄だ。
初めて学長の死に対して後悔した。
今更どうなるものでもないが、もっと覚えていたかった。
記憶は儚い。学長に会わなくなれば、薄れていく。定着していたはずのものすら、なくなっていく。
私はようやく、黄徳志という男の死を認識した。肺の奥に小さな闇が出来たような、腹が空いたような、涙が出るような、得体の知れない気分に脱力しそうになる。
「行くか」
楊淵季が立ち上がった。
どこへとは尋ねず、彼のあとをついていく。
大通りに出ると星が上がり始めていた。
華都よりずっと近く感じる。
十字路に出ると、街の明かりが広がっていた。
大通りの南には、ずっと篝火が並んでいる。空に残った赤色と同じ色の篝火だ。
それらは南の突き当たりの闇へと誘う道のようだった。
人通りは多く、子どももいたが、気球で来た商人は見当たらなかった。きっと、監視付きで、宿かどこかに集められているのだろう。
「何か食べる気があるか」
楊淵季が尋ねた。
「いや、まだ」
「じゃあ、劇場を見てみるか。今なら練習をしている頃だろう」
「来たことがあるのか」
「ああ。一度、連れてきてもらった」
「劇場に?」
私は彼を覗き込んだ。
てっきり、監禁されていたのだと思っていたが、違ったようだ。
「ちょっと、俺を楽しませようとしたのだろう」
彼は落ち着いた口調で、面白くもなさそうに答えた。
けれど、視線にはどこか恥ずかしそうな色が浮かんでいる。
そういえば、楊淵季は再会した時、拘束されている気配がなかった。
楊淵季は、この国では、いったいどういう立場なのだろう。
「ともかく、練習中ならば代金を払わずに見てもいいのだ。行くぞ」
彼は私の視線を避けるように顔の前で手を振った。
私たちは十字路を東に曲がった。
ちょうど私が昼間に通った道だ。
十字路のそばには役所風の大きな建物がある。入り口に「芙蓉」の扁額がかかっている建物だ。
楊淵季は建物の裏に回り、小さな木戸をくぐった。続いて入ると、中は薄暗い廊下になっていた。
廊下の先には少し大きな鉄の扉がある。
「幽谷無限」
楊淵季が落ち着いた声で呼ぶと、扉が開いた。
中で誰かが押しているのかと思ったが、誰もいない。
鉄の扉の中は半円状で一面赤かった。
赤いのは敷物を敷いているためだ。踏んでみると、布ではなかった。表面に毛皮のような細かい毛がある。どうやら、西方で作られる絨毯らしい。
床は階段状になっている。
真ん中にはやはり半円状の舞台があって、まばゆい光が当たっていた。
太陽の光でも月でもない。白い光で、まるで昼のようだ。
ここは、と問おうとすると、楊淵季が唇に指をあてた。
そして階段に座り、舞台を見つめる。
舞台に男が現れた。
黄色い衣装をつけ、背中にはいくつも旗を差している。
男は身軽に側転し、舞台の中央に来ると仁王立ちになった。
すると、男の体が宙に浮き、そのまま側転し始めた。
手も足も、床に届いていない。それでも男は回り続けている。旗だけが回らず、天井に向かって突っ立っている。
「そこはもっと滑らかに浮かぶのだ」
最前列から怒号が飛んだ。
宙に浮かんでいた男の体が急に落下する。男は着地しそこねて、しりもちをついた。
「仁王立ちになるなと言っているだろう。おまえの回転がおかしいから、上手く浮かないんだ。回転が終わったら、すぐ浮く。大道具。持ち上げ方が悪いぞ。それに今の下ろし方は何だ。こいつが怪我をしてみろ、代役を立てるのに何日かかると思っているんだ」
私は首を伸ばした。舞台の上には役者以外に誰も見えない。
「どうやっているんだ」
つぶやくと、楊淵季が目を細め、わずかに微笑んだ。
「どうやったら人の体は持ち上がる。考えてみろよ」
考えろと言われても、役者の下に梯子もなかったし、彼を吊り上げている縄もない。唯一奇妙なのが、旗だ。
「あの旗は、どうして役者と一緒に回転しなかったんだ」
「さあ。何のために、あの役者が背中に旗を立てていると思う」
「そういう役ではないのか」
「そういう役だ。あちこちで名を挙げた妖怪でね。修行を積んで道士になったという話だよ。名誉を得るたびに、旗が一つずつ増えていく」
舞台の上を見ると、役者が最前列の男に、動きに無茶があるなどと抗議していた。
目を凝らすと、何某退治、などと旗に書いてあるのがわかる。
「では、旗が背中にあってもおかしくないじゃないか」
「おかしくないさ。だからあの演出家は、あいつを宙に浮かせることにしたんだ」
さっき怒号を飛ばしたのは演出家というらしい。
眺めていると、文句を言いながら役者は舞台の袖に戻った。
そして再び側転しながら出てくる。
側転が終わると、今度はすぐ浮かび上がった。
「わかったか」
「何が」
「宙に浮くからくりだ。なぜ、あの役者は回転して出てくるのだ」
「そういう役じゃないのか」
わけがわからずに楊淵季を見つめる。
彼の横顔は舞台の明かりを浴びて青白かった。
「そうだ。上手く隠したものだ」
浮かんでいた男は回転しながら舞台の上手に消えた。
「何を隠したんだ?」
首を傾げると、楊淵季は呆れたように肩をすくめる。
「どうやら、受験勉強に脳細胞のすべてを使ってしまったらしいな。いいか、側転して出てくるのでは、役者の背中が見えなくても不思議ではない。しかも、あれだけの旗の量だ。背中に金具がついていても、観客にはわかるまい」
「金具?」
そんなものがあっただろうかと舞台を見つめる。
さっきの役者が上手から歩いて出てきた。背中の旗が重いらしく不満げにしゃがみ込む。
演出家らしき男が舞台にあがり、上に向かって手を上げた。
役者がそれを見て衣装を脱ぐ。
旗が衣装についたまま引き上げられた。まるで、縄でもついているように。
「透明な縄なんだ。強い光が当たると特に見えなくなる。色のない糸を寄り合わせ作る」
色のない糸。
はっとして彼を見る。彼も真面目な顔でうなすいた。
「学長の時にも同じものを使ったんだろう」
確かに、人を吊り上げるほどの縄にしても消えて見える糸ならば、歪んだ鏡の映像では見えなくて当然だ。
「……まさか、本当にあるとは」
「あるんだよ。ここにはな」
楊淵季はうなずき、気怠そうに首を反らした。疲れを払うように目を閉じ、深い溜息をつく。
「ここでは、とんでもないものが人の手によって作られている。例えば、空を見たか。華都で見ないものがあっただろう」
「ああ。大きな鳥が飛んでいた」
「あれは、鳥じゃない」
「鳥じゃない?」
脳裏を白い鳥が飛び交った。恐れを知らない、正確な動き。
「ここは皆、屋根が平らだろう。そこをあれが車輪で走る。走ると翼に浮力というものが働くそうだ」
「走る? どのくらい」
「南の方には広くて長い道があるそうだがな。それを使っていたのは昔の話だ。近頃のは優秀でね。例えば、この芙蓉棚の屋根くらいの広さがあれば飛び立てる」
「浮力は、道士の気などというものじゃないのか」
「いや、たぶん、俺やおまえでも同じように働く。そして、翼と、人を乗せた籠が浮き上がる。あとは、翼を上手く操れば旋回もできる」
楊淵季は糸でも引くように手を握る。私には想像がつかなかった。
「人が空を飛ぶだと」
「飛ぶくらいで驚くな。気球だって飛んでいるじゃないか」
「じゃあ、君は華都で気球を見たことがあるか。私たちが暮らしてきた世界では、人は空を飛ばないんだ。仙人でもないかぎり」
「そうか。……そうだな」
楊淵季は驚いたように体を引き、視線を逸らす。
唇が動いているのが見えた。どうやら、謝っているらしい。
「あの気球も迂峨過都で作られたものだ。鳥のようなものは飛車と呼ばれている。今、鵬、という種類の飛車が道士の間で流行っているそうだ。性能と形がよい。飛車は飛華洞というところで作られている」
私は額を押さえ、軽く首を振る。確かに、「鵬」という看板を掲げた店ならば通りにあった。
「本当に道術じゃないんだな。何か、仙人の気で動いているとか、呪文で動いているとか、そういうことではないのだな」
「そうだ」
「道を、気で走る馬車があったが」
「それは気車だ。流行は赤兎という形のもので、より早く走ることができる」
「気車というと、やはり気で動いているのか」
「気といっても、太陽の光を特殊な鉱物を使った板に当て、それによって生じた力だよ。別に道士が念じて作るものでもない。おまえが板の前でぼうっと立っていたって、気は生じるのさ。気車には気を溜めておく箱があって、杖の操作に従ってあちこちに気が流れる。そういったさまざまな装置をここでは宝貝と呼んでいるがな。ある時は車輪を回し、ある時は動きをとめる。右や左へも、車輪を曲がりたい方に傾けてやることによって簡単に動く。車輪に細かい動きをさせるために車軸に工夫があってな。そういったものがつないであるから、あの杖を動かすのには少し力がいる」
宙に腕を伸ばし、楊淵季は指先で四つの点とそれを結ぶ軸を描くと、それを包み込むように両手を広げた。
「火を使わない明かりを見たんだけれど、それは」
「あれも気車と同じ気を遣っている。二種類あってな。龍鳳洞とか、役所、この芙蓉棚だとか大きな店には地下に気線というものがあって、自由に気を使えるようになっている。そういったところではより明るい明かりがつく。もう一つは自分で気を起こして、それを使う方法だ。おまえが見たのはそっちだろう。気は、玻璃の中にある螺旋状の細い金属の中を通ると、非常に温度が高くなる。それで光っているんだ。ここの明かりは気線から気をもらっているが、原理は同じものだ」
「道術じゃないんだな」
「道術だなんてまやかしだ。すべて技術だよ。全部だ」
彼は軽く首を傾げた。それは自然で、どこか柔和な感じがした。
「じゃあ、天君は、どうやって武偉長を」
「それはわからん」
楊淵季は目を細めた。舞台を見ているようでも、もっと遠くを見ているようでもあった。
「どのみち龍鳳洞とあのやぐらは、離れすぎている。とうてい鏡に映る距離ではない。それに、傷が背中となるとな。自分では刺せないだろう。……さあ、出るか」
今度は階段のそばにあった朱塗りの扉から出る。
こちらは呪文がいらない扉のようだった。
劇の時間を待っているのか、迂峨過都の人が廊下に集まっているのが見える。
「呪文で開く扉もまやかしなのか」
小声で尋ねると、楊淵季はにやりと笑った。
「聞きたいか。あれは、声錠といってな。我々の言葉には多くの発音があるが、それを一音ずつ聞き分け、ある言葉のつづりが聞こえた時だけ鍵を開ける仕組みになっている。それはな、まず、声を記憶させておく装置があって、音によって送られる合図を信号に変え、扉の中に仕込まれた鍵を」
耳元で続く話を聞き流しながら、急に詩の先生が懐かしくなった。楊淵季の技術の話は、それ自体がからくりを施した箱のようで果てしない。
人々の怪訝そうな視線を浴びながらも、楊淵季はただ、音のつづりがどのような合図になるのか、扉が鍵を開けるにはどのような技術がいるのか、それから、ある声だけで開くようにするにはどうするか、などと詩の暗唱のように話し続けていた。頬には笑みが刻まれている。
言葉を聞かなければ、はにかんだ少年の微笑だった。
だが、こんな話をしているせいか、現実以外の世界に生きているような暗さを感じる。
外に出ると、芙蓉棚の平らな屋根の上にたくさんの飛車がとまっていた。
通りを見回すと、東の山頂に月が上がっていた。
私が月を見ていると、楊淵季もようやく声錠の話をやめた。
空に近いせいか、月が華都より大きく見える。
「月が綺麗だね」
私は空を見上げたまま言った。
「月が光っているのは、太陽の光を浴びているんだ。我らの大地は球体で、月は大地の周りを回っている。三十日程度かけてな。本当のことを言えば、月は新月の時が一番太陽に近い。月は太陽の方を向いている半面しか光らないんだ。満月は月が一番太陽から遠ざかった時、つまり、光っている半面を、大地の夜に真っ正面からさらしている時になる。月の世界はいつも過酷だ。昼も夜も十五日近く続く。表面は石だらけ、生物もなく、昼は夏よりも暑く、夜は冬よりも寒い」
見ると、月の話をする楊淵季の襟元に、風が吹き込んでいた。
彼はわずかに目を細め、襟を合わせる。
その姿は、遠い世界を懐かしむ神仙のようだった。
「どこで聞いたんだ。そんな話」
楊淵季は薄く笑い、西へと歩き始めた。
そちらはいくぶん暗く、人影もまばらだ。
「遠い昔」
小さい声で、答えが返ってきた。
「昔のことだそうだ。ここに来てから読んだ本に全部書いてあった。しかし、天文に関する知識も、最初に気を集める鉱物を与えたのが誰かも、遠い昔のことで本当は誰にもわからない」
彼は淋しそうだった。
脳裏に、月夜を詠む昔の武将の詩が蘇る。
しかし、月の昼や夜の様子は思い描くことができない。
なぜか悲しくなった。
彼と私の知識の差が虚しいのではなかった。
ただ、彼がひどく遠くに感じた。
いつもお読みいただきありがとうございます!
前々回で、今回にあらすじをつけると書いていたのに、抜けておりました。申し訳ありませんでした。
2月27日11時過ぎに入れさせていただきました。
よろしくお願いいたします。




