第六章 迂峨過都(一)
空は地上の濁った空気を飲み込んだように透明だった。
白くかすむところはどこにもない。
この色こそ青なのだと告げるように上へと広がっている。
しかし、空の向こうには闇が透けていた。
青に黒が混じっているのではなく、幾層にも重ねられた透明な青の向こうに闇があるような色だ。
昼間というのは人々が恐れる夜を、わずかに一時、透明な膜で覆って出来たものに過ぎないと言うように。
日光は痛みを感じるほどに強い。
岩の上にあるために、天頂からの果てしなく長い槍のような光だけではなく、どこからも太陽からあふれた光が注いでくる。
鳥が頭上を飛んで行く。
一瞬だけ光が遮られて淡い陰になる。
目を細めると、また一羽西から東に飛んだ。
鳥たちは皆、白い。巨大な白い羽を真っ直ぐに伸ばし、羽ばたくことも見下ろすこともせず、ただ、上空を飛んでいる。
その十文字に整った姿勢を崩すことすらない。
時々、衝突しそうになる仲間を避け、体を傾けるだけ。
何者も恐れない凛とした動きだった。
少し開いた足を曲げることもなく、慌ててはばたくこともなく、体全体を斜めにし、まるで円の弧を描く一点であるといわんばかりに旋回する。
よく見ると、みんな背中にやぐらを乗せているようだった。
やぐらの屋根は、ちょうど鳥の翼と同じ長さに作られている。
それぞれに色分けがされ、道士が妖怪を封じる際に使う札のような文字が描かれていた。
やぐらの中には人がいた。
若々しく黒い髪を肩まで垂らし、髭を風にたなびかせている。
霊獣に乗った仙人だ。
私は深いため息をつき、手で顔を覆うと目を閉じた。
賭けは仲興が勝ったようだ。
そう思った時だった。
「頭でも打ちましたか」
おっとりした声がした。
横を向き手の平をかざして見上げると、真孔景が覗き込んでいた。
「ああ、ありがとうございます」
私は体を起こし、礼を言った。
ここまで運んでくれたことに対して言ったのか、気遣いに対してか、或いはこの先自分に奇妙なことが起こらないようにと祈っているのか、自分でもわからなかった。
彼はじっと私の目を見つめていた。
ひどく真剣な顔だ。
灰色の瞳には私の顔が映っている。
不安そうに眉をよせているのがはっきり見て取れた。
――どうも色の薄い目は、いろんなものを映し出しすぎていけない。
気恥ずかしくなって視線を逸らすと、彼は、ああ、と苦笑し、手をさしのべた。
「私ができるのはここまでです。お行きなさい。龍鳳洞はこの道を真っ直ぐ進み、大きな十字路に出たら北に行く道、進んでいくと右手にある道を進むのです。すぐに洞府の入り口が見えるでしょう」
示された方向を眺めると、細長く伸び上がる山が並んでいた。
高さはあまりない。丘と言う程度だ。
丘にしては、すその方が狭い。
山は黒に近い緑色で、松が這うように茂っている。
ところどころ岩が露出し、鋭い崖を作っていた。
その山々の間に、白い道が真っ直ぐ続いている。
まるで、山が避けて出来たような道だった。
私はゆっくりと草原から道へ踏み出した。
「欧陸洋様」
呼ばれて振り返ると、真孔景が笠を取って振っていた。
「あなたは仙骨がないから、決して道士になってはいけませんよ」
日に焼けた顔は黒く、笑った口元からは白い歯が覗いている。
「……どうして、私はここに呼ばれたのですか」
だが、真孔景は答えなかった。
ただ、手を大きく振っている。
私は手を振り返し通りを歩き始めた。
小さな山を一つ越えると、道幅は急に広くなった。
どうやら山は岩の周りを囲むように連なっているだけらしい。
道の両側にはなだらかな土地が広がっている。
思ったよりも広い。岩の上というよりは、空に浮かぶ島と言った方がいいだろう。
道を下り、大通りに出る。
間口の広い店が並んでいた。華都のようににぎやかだ。
華都と違うのは、どれも三階建ての楼閣で、屋根が平たいことだった。
私は歩きながら道に立つ人々の姿に見入った。
まず、髪を布で包んでいる男が少ない。
後頭部で一つにまとめて馬の尾のように肩に垂らしたり、結びもせず髪を下ろしたりしていた。女は誰も髪を結っていない。服の形は華都と似ていたが、庶民らしき女でも絹のようなものを着ている。
腹の奥がむず痒かった。
わが国には毛先をあらわにする習慣はない。
丁寧に結い上げ、毛先は布で包む。さもなければ、魂が抜けだしてしまうと言われていた。そういったものを取るのは葬式の時だけだ。
さらに、髪を下ろした者を見ると死期が近いという噂もある。
「じゃあ、瞬火をこれに一杯」
帝国風に髪を布で包んでいる男が袋を掲げていた。
周りを人相の悪い男たちが取り囲んでいる。みんな髪を結わずに垂らしていた。黒髪の道士と言ったところだ。
「おい、瞬火だ」
道士の一人が道の脇に行き、かかっていた橋の上に立つと下に声を掛けた。
私は、そっと近づいて覗き込む。
道の両脇には水路があった。
小船が二艘すれ違えるほどの広さで、さきほど越えてきた小さな山の方へ伸びている。
山の手前に船着き場があり、水路に船をとめたまま船頭たちが茶をすすっていた。
水路には小船が行き来し、荷物を運んでいる。
十字に紐を掛けた木箱に入れた何か、それに米や野菜らしかった。
ここだけではなく、あちこちで橋の上から下へ声を掛けている。
見ていると、黒髪の道士が水路に向かって縄を垂らした。先に金具がついている。
船頭がそれを引っ張り、金具に木箱を引っかける。
すると、素早く黒髪の道士が木箱を引き上げて開けた。
中には赤く塗った小さな木箱がびっしり並んでいる。
それを道士はわしづかみにし、帝国風の男が持つ袋に突っ込んだ。
袋が一杯になると、帝国風の男は親指の先ほどある金のかたまりを数個渡す。
「また来いよ、気球の人」
黒髪の道士は金を受け取ると髭を撫で、俗な笑みを浮かべた。
気球の人、と呼ばれた男は袋を担ぎ、水路にかかった橋を渡って路地に消えた。
周りにいた人相の悪い道士たちが後を追った。どうやら、金を受け取った道士以外は、玄都の商人についている監視らしい。
私は彼らを見送り、辺りを見回す。
道には時折、道士と交渉する帝国風の男たちがいた。玄都から気球で上がってきた商人らしい。
道を進んでいくと、野菜を売っている店があった。どういうわけか、店先に透明な布で覆われた小屋がある。人が一人入れるかどうかという小屋だ。
中を覗くと、青々とした野菜が浮いていた。
野菜は白い根をさらしている。土はない。
店の主人が小屋に手を突っ込み、野菜をもぎ取った。
そして買い物に来ていた女の籠に投げ入れる。
野菜売りの向かいの店で何かが光っているのが見えた。
店の中もぼんやり光っている。
入ってみると、奥には木製の輪の中に白いねずみがいてひたすら走っていた。
隣には金属の箱があり、黒く細い紐が伸びている。
紐の先には男が座っていた。五十歳くらいの痩せた男で、頬杖を突きながら目の前の水晶玉の内側をくり抜いたようなものを眺めている。
その中には小さな金属の紐があり、夕日の色をした光を放っていた。
部屋中が蝋燭を灯したように明るいのはその光のせいだった。
私は頭の中にある知識をすべて取り出し、吟味してから額を押さえる。
まったく原理がわからない。
ここにはそういったものが多すぎる。先程の人を乗せる鳥といい、浮いた野菜といい。
「星火がご入り用かな、気球の人」
男が私の目を覗き込んでいた。どうやら目の色が違うことに気がついたらしい。
うなずくともなく、興味があるような顔で近づく。
「お目が高いですぞ。どの方も、気球の方は瞬火ばかり買って行かれる。だが、いちいち木ぎれを擦るのも面倒なら、蝋燭の火を吹き消した後、ちょっと本を読みたくなった時に非常に不便でして」
ほら、とつぶやき、男は懐から赤く塗った木の小箱を出すと、中から木ぎれを取り出し、手の中ですりあわせて火を点けた。すぐに炎が人差し指ほどの長さに伸びて、埃臭い空気を焦がす。
脳裏に火薬で吹き飛ぶ露店が浮かんだ。
「明るさも同じくらいでしょう。これならば、気線が張り巡らされていない玄都でも使えますぞ。いかがですかな」
男はまだ、話し続けている。
私は後ずさり、店を出た。
早足に通りを進み、ようやく落ち着いて立ち止まる。
今度は、目の前に赤兎、と描かれた扁額があった。
好奇心を抑えきれず覗き込むと、店の中には馬車が何台もあるのが目に入った。
ただし車輪が四つある。そして、馬をつける場所がなかった。
「気球の人! 邪魔だ」
怒鳴られて振り返り、思わず立ちすくんだ。
馬のない馬車が疾走している。それも、こちらに向かってだ。
慌てて数軒先まで逃げると、乗っていた若い道士が杖のようなものを前に倒したりして操るのが見えた。
馬車は急に赤兎という店の前でとまり、若い道士は杖を馬車に刺したまま乱暴に馬車を下り、店に入る。
「おい、主人。千里も走らないじゃないか。もう、気が抜けたぞ」
中から男の怒鳴り声が聞こえた。
「おまえの術が悪いのだ。どうせ急にとまったり、急に走ったりしたのだろう。若者のやりそうなことだ」
しわがれた声が怒鳴り返した。
若者と老人はしばらく言い合っていたが、やがて若い道士が肩をいからせて店を出てきた。そして、また杖をあやつって通りを戻っていく。
やはり、前にも後ろにも馬はいない。
道の先に視線を戻すと、次の看板が目に留まった。
鵬。
おおとり。『荘子』に出てきた架空の鳥だ。
更に視線をめぐらせ、めまいを起こしそうになる。
手前の店は「不老不死」だった。
はす向かいは「雑宝貝」だ。
どれも、華都では見たことのない店の名前だった。
このまま興味に引きずられていては、いつまでたっても龍鳳洞に辿り着けない。
「気球の人、これは仙人石で時間を計っているよ。正確だよ」
呼びとめる男の声を意識の外に追い出して、足早に道を進むと十字路に出た。
十字路には一際大きな建物があった。
太い柱で支えられた上に大きな瓦葺きの屋根が乗っている。
華都の役所に似ている建物だ。
ただし、屋根の上には更に平らな屋根が取りつけられていて、「芙蓉」という看板がかかっていた。
私は真孔景に言われたとおり、道を右に曲がろうとした。
その時だった。
「どこに行くのだ。その先には魔物がすんでいるぞ」
不思議な抑揚のある口調だった。
振り返って、立ちすくむ。
そこには男がいた。
目が青い。
今まで見た誰とも違っている男だった。
身長は八尺もあるのではないか。ちょうど私の頭くらいの高さに彼の肩がある。
迂峨過都の人が着ている着物が小さいらしく、その下に喉まで襟が立ち上がった服を着ている。
袖が長い服らしく、肘の辺りまでしかない迂峨過都の着物の袖から、白い細身の袖が出ていた。
着物の合わせ目には余裕があったが、着重ねた服が布製の帯ではとまらないのか、上から革の帯でしっかりくくっていた。
靴も革だが、ふくらはぎまである。
男は髪が白い。
歳のせいではない。顔を見る限り、まだ二十五、六歳だろう。
少し黄金色が混じった白だ。
頭は前髪と耳の上の髪だけを後ろでくくり、あとは垂らしている。
麓の老人が言っていた大男とは、彼のことだろう。
「異邦の者が監視もなしに歩くとはな」
そういう彼にも、誰もついていない。
「龍鳳洞に参ったのです」
すると大げさに顔をしかめ、肩をすくめた。
「玄都の人じゃないな。どこから参ったのだ」
「華都です」
男が目を見開いた。なんだって、という声が聞こえてきそうな目だ。そればかりでなく、突然腕を体の横に出し、両手の平を天に向け、ああ、と嘆息した。
「宇国の華都か。都は迂峨過都より華やかと聞くが」
今度は額を押さえ、美女でも見たように悩ましい顔をしている。
変わった男だ。
「ええ、でも、華都には仙人がいませんから」
彼は大変な悩みでも聞いたというようにうなずき、肩を抱こうとした。
慌てて横に逃げ、立ち去ろうとすると、しっかり肩をつかまれた。
「待ってくれ。それで、君は何をしに」
身を屈めて私の顔を覗き込んだ途端、彼は何かに気づいたように手を放した。
しばらく目を丸くして黙っていたが、やがて、人なつっこい笑みを浮かべて手を差し出す。
「私は西方の貴族だが、冒険に魅せられてここまで来た。気球で。君は」
「崖を船で登ってきました」
やはり、とつぶやくのが聞こえた。
今度は、感情を感じさせない静かな顔になっていた。
「なおさら龍鳳洞には行かない方がいい。唯一本物の仙人、そう、天君がいる」
「その天君にどうしても会わなければならないのです」
強い視線で見上げると、男は真っ直ぐに見返した。
それから目を閉じ、神のご加護を、とつぶやく。
「では、また会おう。我々は話さなければならないことがたくさんある」
男は懐から金色の丸いものを取り出し、覗き込んだ。
じっと見ていると、こちらにむかって差し出す。
金色の枠の中に、一日の時刻を示す文字が書かれていた。
針が一本あって静かに動いている。
針は「未」から「申」へ向かっていた。
「時計だ。時間を計る道具だよ」
男の顔から先程までの異様な陽気さは消えていた。
ただ、大げさな身振りは相変わらずで、私の手を握ると強引に上下に振り回した。
手が放されると、私は素早く二歩下がり、袖の中で手を組んで顔の前にあげた。
男は不思議そうに眺めていたが、不意に笑顔になると同じように手を組む。
「なるほど、華都の挨拶はこのようにするのか」
神妙な顔で頭を下げ、組んだ手を解く。
思わず見とれた。
肩から胸に流れた髪が日を浴びて光り、青い目には空のような透明さがある。
「では、また会おう」
笑顔になると、男は脇道に去っていった。
立ち去りながらもこちらを振り返り、手を振っている。
呆然と彼の行く手を見送っていると、異様なものが目に入った。
男の行く手には、空を突くようにしてやぐらが立っている。
高さは人の背の五十倍もあるだろうか。
あのやぐらに登る気なのか。
男の姿が通りの木で見えなくなるまで見送ると、私は右の道に入った。
そちらも大通りだったが店は一切なく、ただ、木立が続いている。
しばらく歩くうちに視界に違和感を覚え、目を擦る。
先程から何か光が目に入って痛い。何だろうと辺りを見回し、立ち止まる。
先程のやぐらの奥に、光る塔が立っていた。
塔はすべての壁面が輝き、真っ直ぐ天へと伸びている。
高さはやぐらより少し低いだろうか。
水晶のように先がとがり、ただ、立っている。
それが何の役目を果たすのかわからなかった。
辺りを見回すと、先程のやぐらが目に入る。
やぐらは木を組んだものらしい。
横木がくくりつけられている場所があり、それぞれに板を乗せた程度の床があるようだ。
やぐらには人影があった。
上から五層目。長い梯子を登っている。
さっきの男だ。
男はやけに急いだ風で、どんどん梯子を登っていく。
上の方に誰かいるのかと見上げたが、誰も見あたらなかった。
男が最上階まで登りたいのだとすれば、まだまだ梯子を登らなければならない。
私は視線を通りに戻すと歩き始めた。
いつもお読みいただきありがとうございます!
次回、殺人シーンです。グロくはないですが、苦手なかたは避けていただけると嬉しいです。次次回、次回のさらっとしたあらすじをつけます。
よろしくお願いします。




