第四章 郷愁別離(六)
昨日更新しました、「第四章 郷愁別離(五)」の二行目の前に、「大きな建物が見えてきた。三階建てで周家に」の文言が抜けておりました。申し訳ありませんでした。
安家楼は華都の商家と同じように、北側に回廊でつながった平屋がある。
そちらには、使用人部屋があった。
一方、南側には三階建ての高楼がある。
階段を二階に登ると、女中たちが膳を持って移動しているのが見えた。宿になっているらしい。
私たちは無言で階段を上り、三階に出た。
三階は明かりもなく、静かだった。
張の持つ蝋燭だけが暗い廊下を照らしている。
張は足音も立てず廊下を進み、突き当たりにある赤く塗った大きな扉を開けた。
その瞬間、いい香りがした。
中を見ると、机、椅子、それに五人は眠れそうな寝台まで、すべてが高級品だった。
机の上に香木を梅の木の形に彫った置物があった。
「主人が休日に使う部屋です。どうぞ。すぐに食事を用意しましょう」
「待ってください。ご主人に挨拶をしなければ」
仲興が引き留める。
「じきに主人が来ます。待っていなさい」
張が音も立てずに扉を閉めた。
彼が出ていくと、辺りは物音がしなくなった。
蝋燭だけがちりちりと空気を焦がしている。
部屋はかなり広かった。窓は小さい。
そっと外をうかがうと、通りが真下に見えた。
人が小さい。
あまり、飛び降りたくはない高さだった。
この部屋に、役人が踏み込んで来たらおしまいだろう。
同じことを思ったのか、伯文も落ち着かないように辺りを歩き回っていた。
程適も不安そうに耳を澄ましている。
ただ、仲興だけがゆったりと椅子に腰掛けていた。
しばらくすると、重たい足音がして扉が叩かれた。
「どうぞ」
仲興が答えると、私より背の高い、太った男が入ってくる。
「よくいらした。周家のご子息と、そのご友人ですな」
仲興が手を組み、頭を下げて挨拶の言葉を述べた。慌てて私たちもそれにならう。
廊下の音を探ってみたが、誰かが見張っている気配はない。
「この度はどんなご事情で参られたかな。内密の用であるようだが」
仲興は頭を上げ、学長が殺されてから今までのことを述べた。
私はそっと主人の様子をうかがった。時折驚いたように目を見張るが、黙って話を聞いている。
だが、話が一通り終わると不思議そうに首を傾げた。
「灰色の目の老人は確かに仙人だと?」
「そうです。お話したとおり、鏡のことも考えてみましたが、どうも合点がいきません。欧陸洋が隣の部屋に入るまでに、何らかの仕掛けを処理するのは無理です」
主人はこちらに視線を移し、また、仲興に戻す。
「そちらの方は、信用できるのですか」
「彼は友人です。大臣の息子で、嘘と遊びが苦手な男です。そうでなければ、私もついては来ません」
「よろしいでしょう」浅く、主人が笑った。「今、食事を用意しているから、たくさん食べて、ゆっくり休みなさい。そのくらいはいいだろう」
そのくらいはいい。
言葉に引っかかりを覚えて、主人の様子をうかがう。
役人に媚びる者特有の、得体の知れない笑みは見えない。
「ところで、灰色の目の老人の噂は、安朱では立っていませんか」
仲興が身を乗り出した。
「君の言うのが本当ならば、そのご老人が安朱に到着したのは夜中でしょう」主人は難しい顔をして、顎をさすった。「いくら安朱でも、開いている店がありませんからな。運河をそのまま、下っていったんじゃないでしょうか」
言ってから、もう一度指折り時間を数え、やはり夜中だな、とうなずく。
安家の主人からは、不意打ちをくらわせて役人に引き渡そう、などというような裏の心は感じられなかった。
「あのう」
ようやく私も口を開く。主人がこちらを見た。
「鸚鵡は来ませんでしたか。虹色の鸚鵡なんですが」
「その鸚鵡が何か」
「老人に連れ去られた同級生が連れていたんです」
「灰色の目の、か」
主人はつぶやくと立ち上がった。
「わかりました。張に調べさせましょう。他には」
脳裏に『医療小冊』の紙面が思い浮かぶ。
確か、地名のようなものがあったはずだ。
「あの、龍鳳洞という場所を知りませんか」
主人は天井を見上げ、忙しげに視線を動かした。
「そちらも調べさせよう。それでは」
私たちが挨拶をすると、主人は背を向けた。が、振り返って微笑むと、こうつけ加えた。
「あとは大人に任せて。安心していなさい」
主人が出ていくと、すぐに張が料理を運んできた。
和え物や炒め物、揚げ物など、さまざまな料理があった。
それを、一皿ずつ、間隔を開けて運んでくる。
魚が多く、少し生臭かったし、華都と味付けも違う。
みその味が濃いように感じたが、こくがあって美味しかった。
途中で張は、米を食べるかと聞いた。
皆、欲しいと答え、どんぶりに一杯ほど食べた。
すっかり満腹だった。
広い寝台に横たわると、何だかどうでもいい気分になってくる。
眠気がまぶたを押し下げ、思考力も水の底に沈むように重い。
確かに、ここの主人は人が好いようだ。任せてもいいかも知れない。
遠くで琵琶の音が聞こえていた。女が高い声で歌い始めると、どっと歓声が上がった。
まるで、旅に来ているようだ。
頭のどこかでは、やはり警鐘が鳴っていた。
危険だ、信じてはいけない。私は追われているのだから、と。
しかし、その警鐘を聞き流すようにして、眠りに落ちた。




