第二章 仙鏡宿鬼(五)
部屋の真ん中には学長が横たわっていた。
他には誰もいない。
部屋には、椅子も机もない。
楊淵季は深呼吸をして学長を見下ろすと、脈を診た。
「生きてる」
ほっとしたように、つぶやく。
「じゃあ、早く運ぼう。ここじゃ、煙に巻かれるぞ」
私は学長の両脇に手を入れた。
「わかった」
楊淵季が足を持ち上げる。
窓を開けると、学生たちが桃の木の下に集まっているのが見えた。
「学長先生が生きてるぞ!」
怒鳴ると、詩の先生が駆け寄ってきた。先生の肩に学長を下ろし、私たちも窓から出ようとする。
不意に学長が楊淵季の袖をつかんだ。
楊淵季が覗き込むと、学長が、ああ、という唸り声を漏らす。
「よかったな、楊淵季」
楊淵季が何かと問い返そうとした時だった。背後で笑い声がした。
「助けたか」
声はかすれていた。骨を壺の中で揺らすような声だ。振り返ると、老人が私たちを代わる代わる見ていた。
「あれは、罪人だと思わないか。楊淵季」
「あなたは、彼を恨んでいるんですか、天君」
楊淵季は顔をしかめ、一歩前に出る。ちょうど、私を背にかばう格好になった。
「恨む? なあに、儂はそなたが欲しいだけだ」
天君と呼ばれた老人は、煙の中で笑った。
私は、「そなたが欲しい」という言葉の意味を測りかねた。ただ、「欲しい」とはっきり言うところを見ると、老人は楊淵季のことをよく知っているということなのだろうか。
答えを求めて老人を見ると、目が合った。
「おぬしが望むのなら、更に犠牲を出してもよいのだぞ。そこにおる、ばかな学生はどうじゃな」
老人は私を一瞥し、上目遣いをした。
私は数歩下がり、窓に近づく。火薬などで狙われたら逃げ切れないことはわかっていたが、それでも勝手に体が動いた。
深いため息が聞こえた。
楊淵季が目を閉じ、眉を寄せている。
それから顔を上げて、私を見た。しばらくそうしていたが、もう一度ため息をつくと、老人の方に歩き出す。
「だめだ。淵季」
私は叫ぶ。
驚いたように楊淵季がこちらを向いた。
閃光が走った。
とっさに腕で目を覆う。
腕を下ろすと、煤が舞っていた。炎の壁が目の前にある。
楊淵季の姿はない。
炎の向こうに、覆面の者が彼を担ぎ上げ、走り去るのが見えた。
私は窓から外に出る。
煙の出ていない台所の窓から中に入り、辺りを見回した。
彼らの姿は中庭にあった。河に続く小さな戸板を外している。
「大丈夫か!」
背後で仲興の声がした。
「河伝いに逃げるつもりだ」
私は振り返る。
「追うぞ」
仲興が煤にまみれた袖を払う。
私たちは中庭に降り、老人たちの後を追った。
板を外してできた穴をくぐって石畳の上に立つ。
奥にある扉が、ぼうっと光って見えた。
「明かりを使え」
振り返ると、伯文が燭台を掲げている。
「開けるぞ」
仲興が扉を押した。
中に入ると水が足を洗った。どんどん進むうちに、前をいく足音が水を掻くような音に変わった。訝っていると、突然、河底を見失う。
「深い」
叫び声がして仲興が見えなくなる。追いかけようとした私も水に飲まれた。
「つかまるのだ」
伯文の声がしたような気がする。
しかし、手を伸ばしてもどちらが水面なのかわからない。
沈んでいくと、不意に水に押し上げられた。湧き水だ。
どのくらい水の中をさまよっただろうか。
指先に棒が触れるのを感じて、つかむ。
棒は、ぐっと水面に上がり、私も引き上げられた。
「まったく世話のやける」
伯文は私を水際まで引き寄せると、額を手で拭った。
「旦那、しっかりしてくんなせえ」
泣いているような声がする。
蝋燭の明かりのほうを見ると、使用人の少年が仲興を介抱していた。
「仲興は、無事なのか?」
「大丈夫でさあ。さっき水を吐いたんで。旦那方、ここは、立入禁止でさあ。学生方は入っちゃなんねえ」
私は河の先を見つめた。真っ暗だった。遠くで水を掻く音が聞こえた。
「船がねえと、ここは危険で」
「船があるの?」
「ええ、でも、学長先生もまだ、お使いになったことはねえもんで」
水を掻く音は次第に遠ざかり、聞こえなくなった。
「その船を貸してくれないかな」
使用人の少年が、ええっ、と戸惑いの声を上げる。
かたわらで、仲興が激しい咳をした。
「仲興を外に出す方が先だ」
伯文が仲興の体を起こす。
「何があった?」
仲興が、かすれた声で言った。
「今はよい。外に出るのだ」
伯文が肩を貸し、中庭に出る。
回廊を抜けて、堂の外に出た。
桃の木の下で、詩の先生が学長の名を呼びながら揺さぶっているのが見えた。
「学長先生の様子がおかしいんだ。息が途切れて」
それを聞いて、私は先生をおしのけ、覗き込む。
確認しなければならないことがあった。
「学長先生! 目を開けてください」
学長は目を見開くと、ゆっくり口を開いた。
「……生きている、ぞ、楊淵季、よかった……」
それきり学長の動きはとまった。
詩の先生が慌てて呼びかけ揺さぶった。
私は呆然としていた。
学長の目は、綺麗な灰色だった。




