表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
13/120

第二章 仙鏡宿鬼(四)

トリックにかかわる事件シーンです。

翌日、私塾「山麓」の堂には学生が半分くらいしか集まらなかった。

 どこから広まったのか、賊は仙人で、灰色の目をした少年を狙っている、などという噂話が聞こえてくる。

 しかし、堂に楊淵季が入ってくると、辺りは、しん、とした。

「どうしてこう志が低い学生が多いのだ。私の講義を休むとは、信じられぬ」

 詩の先生が、私たちを見るなり、そう言った。

 私は仲興と目配せをする。

 あれだけの事件があって、休講にならないほうが信じられなかった。

 楊淵季をうかがい見る。

 彼は、愁いに満ちた眉を寄せ、黙っていた。他の学生が自分の噂話をしているのを気にする余裕はなく、ただ、どうしたらよいのかと思案に暮れているように見えた。

 楊淵季は、もしかすると非常にまじめな男なのかも知れなかった。火薬を扱う老人の事件は、彼一人でどうこうできるものとは思えない。だが、それでも、どうにかしたいと真剣に考えているのだろう。

 私は、彼の肩を叩いて、大丈夫と言ってみたくなった。そんなことをしたところで、なんの慰めにもならないことはわかっていた。

 だから、何も言えない。

「ほんとうに、ろくな学生がおらん」

 詩の先生は、暗唱が得意でない学生を指名した。案の定、十篇も進まないうちにつっかえる。

 詩の先生がしかり飛ばそうとした時だった。

 扉を叩く音がした。

 学長が肩をふるわせて顔を上げ、それから立ち上がって扉を開ける。

 使用人の少年が、恥ずかしそうな顔で立っていた。

「見学なさりてぇというお方がめえりやしたが」

 控えめな声だったが、東方訛りは堂内に響いた。学生が数人、低い笑い声を上げる。

「そうか。じゃあ、まず、私がお会いいたそうな」

 学長はなだめるように言い、使用人の肩を押して廊下に出る。廊下で使用人が謝っているのが聞こえた。学長が、二言、三言なぐさめている。

 使用人の少年が、また、堂に入ってきた。

「少々お待ちくだせえ」

 言って、彼は堂の後ろのほうに控える。

 廊下を、学長が去って行く音が聞こえた。

 しかし、足音はすぐに止まる。


 いったん講義の止まった堂内では、学生たちがざわつき始めていた。詩の先生がいらいらと壇上を行き来する。

 廊下では、ぱたぱたと走るような音がした。

 詩の先生が、次に当てる学生の名前を呼んだ。

 それを遮るように、扉が開いた。

「なるほど、皆様お集まりじゃな」

 入ってきたのは、白髪、白髭の、あの老人だった。

 私は腰を浮かし、賊、と叫ぼうとした。

 だが、喉が引きつって、声が出ない。

 老人がこちらを見て、片方の目をぐっと開いた。しわがれたまぶたの下に、瞳が見える――灰色だ。

「今は講義中ですぞ」

 詩の先生の怒鳴り声で我に返り、楊淵季の方を見る。彼もはっとしたように腰を浮かせ、椅子に手を掛けていた。

「行儀の悪い学生がおりますのう」

 老人の声に、楊淵季の視線が鋭くなった。じっと前を向いているが、少し椅子を下げて、いつでも立ち上がれるようにしている。学生たちがざわめき、誰かが引きつったように喉を鳴らすのが聞こえた。

 

 パアンッッ


 詩の先生が、手を打ち鳴らした。

「静かに! 私の講義中だ!」先生の顔は真っ赤だった。「あなたもお引き取り願いたい! この私の講義中ですぞ!」

 老人に向かって、怒鳴りつけている。

「そいつ、賊じゃあ」

 前に座っていた仲興が声を上げた。隣にいた伯文が袖を押さえる。仲興が不満そうに横を向いた。

「この際、知らない者が無敵なのだ」

 伯文は顔をしかめ、ささやく。

「無敵ってなんだよ」

「詩の講義を受けていて、学んだことが二つある。先生の気は誰よりも短く、嫌味は何よりもしつこいということだ。この二点において、先生の右に出る先生は未だかつて知らん」

「だからって、賊を追い返せるのかよ。無謀かよ」

 二人の声が聞こえているのかいないのか、詩の先生はさらに顔を赤くし、老人をのぞき込んだ。

「詩を学びたいとおっしゃるのかな、ご老人。まずは、黄徳志に会うんですな。ここは少年向けの塾だが、少年老いやすく学なりがたしとも言う。ご老人も少し前までは少年だったでしょうからな。寛大なあの人なら、入れてくれるかも知れない」

 老人は嫌味に動じた様子はなかった。ただ、学長の名前が出ると、口をすぼめて、ほう、と言った。

「なるほど、黄徳志か。ところで、先生、私は仙人でしてのう」

 からかうように先生を見上げ、髭を撫でている。よほど手入れをしているのか、つややかで綺麗な髭だった。

「仙人!」

 詩の先生の声が裏返る。

「それでは、いらっしゃる場所が違いますな。ここは儒教を学ぶところでして。ご老人は、どうぞ道教のお寺においでください」

 詩の先生が、老人の目の前で、扉を指さして見せた。

「ほほう」

 老人は笑い、詩の先生の目の前で、ポン、と手を打つ。

 扉が開いて、黒い覆面をした人が入ってきた。

「間違いなく賊じゃないか」

 仲興が立ち上がる。

「周仲興! 座れ」

 詩の先生の怒鳴り声が飛んだ。

「ばかもの! 私の講義中だ。落第したいのか!」

 落第、と聞いて、反射的に仲興は座り直す。

「……恐ろしい先生ですなあ」

 老人はしわがれた声で言うと、詩の先生を突き飛ばした。老人よりも二回りも太い先生が、かんたんに吹っ飛ぶ。

 詩の先生が床に尻餅をつくのと同時に、覆面の人が壇上に上がった。

 覆面の人は、手に持っていた布を払った。

 中から、水瓶の底ほどもある、大きな鏡が現れた。

「なあに、ほんの少しじゃ。命は取っても時間は取らせぬよ」

 途端、廊下でドン、とぶつかる音がした。使用人の少年が、あ、と飛び退く。後ろの扉が破れ、堂内に倒れた。廊下側の簾も吹き飛んでいる。

 廊下には埃が舞っている。

 堂内は、廊下から丸見えになった。

「学長に会え、とな。そうか。学長先生はどちらかな」

 鏡には埃が映っていた。埃の中に人影がある。

「学長だ」

 私が言うと、学生たちが周りに集まってきた。

 私たちの目は、鏡に釘付けになった。

「なぜ、あなたがここにいらっしゃるのです!」

 学長の叫び声が聞こえた。

 それと、ほぼ、同時だった。

「えい」

 老人が鋭い声を上げ、手を動かす。くるりと杭に縄をかけるような動きだ。

 途端、鏡に映った学長が身を屈めた。それから、握った右手を頭の上でくるりと動かした。左手が首の横で握られ、右の拳も首の辺りに下ろされる。

 両方の拳に力が込められた。

 見る見るうちに、学長の顔が赤黒くなった。息でも詰まったように口を開き、首筋には縄で絞められたような痕がつき始める。

 だが、どこにも、縄は映っていない。

「きええ」

 老人の奇声が堂内に響いた。鏡の中で、学長が目を見開いた。握っていた拳から力が抜け、床に崩れ落ちる。

 さっと、鏡に布がかけられた。老人は口の中で何かを唱え、一礼する。

 詩の先生は尻餅をついたまま、呆然と鏡を覆った布を見ていた。

 私たちも、声を出せずにいた。

 鼻の奥がつんとした。目が染みる。視界は、もやがかかったように白くなってきた。

「煙だ!」

 仲興が怒鳴った。見ると、廊下から煙がどんどん入ってきている。

「いかん、逃げろ」

 伯文が叫んだ。

「窓から出るんだ。早く!」

 仲興がぼんやりしている学生の頭を殴っている。

 詩の先生が学生をかき分けて窓に突進した。それを見て、学生たちもいっせいに窓に走る。

 堂に残されたのは、壇上の老人と覆面の人だった。

 そして、私と、楊淵季。

「逃げよう、淵季」

 腕をとると、彼はいったんうなずき、次に力一杯払いのけた。そして、窓と廊下を交互に見てから、廊下に飛び出す。

「そっちはだめだ!」

 私も追いかけて廊下に出る。煙の中で、うっすらと楊淵季の姿が見えた。彼は返事もせずに左右を見回し、隣の部屋の扉を押し開けた。

 白く濁る視界の中、私は回廊に人影がないか探した。

 ――なぜ、あなたがここにいらっしゃるのです!

 学長がそう言ったのだから誰かがいたのだと思ったが、人の気配はない。

 私は楊淵季の後を追うように、扉を押した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ