第二章 仙鏡宿鬼(四)
トリックにかかわる事件シーンです。
翌日、私塾「山麓」の堂には学生が半分くらいしか集まらなかった。
どこから広まったのか、賊は仙人で、灰色の目をした少年を狙っている、などという噂話が聞こえてくる。
しかし、堂に楊淵季が入ってくると、辺りは、しん、とした。
「どうしてこう志が低い学生が多いのだ。私の講義を休むとは、信じられぬ」
詩の先生が、私たちを見るなり、そう言った。
私は仲興と目配せをする。
あれだけの事件があって、休講にならないほうが信じられなかった。
楊淵季をうかがい見る。
彼は、愁いに満ちた眉を寄せ、黙っていた。他の学生が自分の噂話をしているのを気にする余裕はなく、ただ、どうしたらよいのかと思案に暮れているように見えた。
楊淵季は、もしかすると非常にまじめな男なのかも知れなかった。火薬を扱う老人の事件は、彼一人でどうこうできるものとは思えない。だが、それでも、どうにかしたいと真剣に考えているのだろう。
私は、彼の肩を叩いて、大丈夫と言ってみたくなった。そんなことをしたところで、なんの慰めにもならないことはわかっていた。
だから、何も言えない。
「ほんとうに、ろくな学生がおらん」
詩の先生は、暗唱が得意でない学生を指名した。案の定、十篇も進まないうちにつっかえる。
詩の先生がしかり飛ばそうとした時だった。
扉を叩く音がした。
学長が肩をふるわせて顔を上げ、それから立ち上がって扉を開ける。
使用人の少年が、恥ずかしそうな顔で立っていた。
「見学なさりてぇというお方がめえりやしたが」
控えめな声だったが、東方訛りは堂内に響いた。学生が数人、低い笑い声を上げる。
「そうか。じゃあ、まず、私がお会いいたそうな」
学長はなだめるように言い、使用人の肩を押して廊下に出る。廊下で使用人が謝っているのが聞こえた。学長が、二言、三言なぐさめている。
使用人の少年が、また、堂に入ってきた。
「少々お待ちくだせえ」
言って、彼は堂の後ろのほうに控える。
廊下を、学長が去って行く音が聞こえた。
しかし、足音はすぐに止まる。
いったん講義の止まった堂内では、学生たちがざわつき始めていた。詩の先生がいらいらと壇上を行き来する。
廊下では、ぱたぱたと走るような音がした。
詩の先生が、次に当てる学生の名前を呼んだ。
それを遮るように、扉が開いた。
「なるほど、皆様お集まりじゃな」
入ってきたのは、白髪、白髭の、あの老人だった。
私は腰を浮かし、賊、と叫ぼうとした。
だが、喉が引きつって、声が出ない。
老人がこちらを見て、片方の目をぐっと開いた。しわがれたまぶたの下に、瞳が見える――灰色だ。
「今は講義中ですぞ」
詩の先生の怒鳴り声で我に返り、楊淵季の方を見る。彼もはっとしたように腰を浮かせ、椅子に手を掛けていた。
「行儀の悪い学生がおりますのう」
老人の声に、楊淵季の視線が鋭くなった。じっと前を向いているが、少し椅子を下げて、いつでも立ち上がれるようにしている。学生たちがざわめき、誰かが引きつったように喉を鳴らすのが聞こえた。
パアンッッ
詩の先生が、手を打ち鳴らした。
「静かに! 私の講義中だ!」先生の顔は真っ赤だった。「あなたもお引き取り願いたい! この私の講義中ですぞ!」
老人に向かって、怒鳴りつけている。
「そいつ、賊じゃあ」
前に座っていた仲興が声を上げた。隣にいた伯文が袖を押さえる。仲興が不満そうに横を向いた。
「この際、知らない者が無敵なのだ」
伯文は顔をしかめ、ささやく。
「無敵ってなんだよ」
「詩の講義を受けていて、学んだことが二つある。先生の気は誰よりも短く、嫌味は何よりもしつこいということだ。この二点において、先生の右に出る先生は未だかつて知らん」
「だからって、賊を追い返せるのかよ。無謀かよ」
二人の声が聞こえているのかいないのか、詩の先生はさらに顔を赤くし、老人をのぞき込んだ。
「詩を学びたいとおっしゃるのかな、ご老人。まずは、黄徳志に会うんですな。ここは少年向けの塾だが、少年老いやすく学なりがたしとも言う。ご老人も少し前までは少年だったでしょうからな。寛大なあの人なら、入れてくれるかも知れない」
老人は嫌味に動じた様子はなかった。ただ、学長の名前が出ると、口をすぼめて、ほう、と言った。
「なるほど、黄徳志か。ところで、先生、私は仙人でしてのう」
からかうように先生を見上げ、髭を撫でている。よほど手入れをしているのか、つややかで綺麗な髭だった。
「仙人!」
詩の先生の声が裏返る。
「それでは、いらっしゃる場所が違いますな。ここは儒教を学ぶところでして。ご老人は、どうぞ道教のお寺においでください」
詩の先生が、老人の目の前で、扉を指さして見せた。
「ほほう」
老人は笑い、詩の先生の目の前で、ポン、と手を打つ。
扉が開いて、黒い覆面をした人が入ってきた。
「間違いなく賊じゃないか」
仲興が立ち上がる。
「周仲興! 座れ」
詩の先生の怒鳴り声が飛んだ。
「ばかもの! 私の講義中だ。落第したいのか!」
落第、と聞いて、反射的に仲興は座り直す。
「……恐ろしい先生ですなあ」
老人はしわがれた声で言うと、詩の先生を突き飛ばした。老人よりも二回りも太い先生が、かんたんに吹っ飛ぶ。
詩の先生が床に尻餅をつくのと同時に、覆面の人が壇上に上がった。
覆面の人は、手に持っていた布を払った。
中から、水瓶の底ほどもある、大きな鏡が現れた。
「なあに、ほんの少しじゃ。命は取っても時間は取らせぬよ」
途端、廊下でドン、とぶつかる音がした。使用人の少年が、あ、と飛び退く。後ろの扉が破れ、堂内に倒れた。廊下側の簾も吹き飛んでいる。
廊下には埃が舞っている。
堂内は、廊下から丸見えになった。
「学長に会え、とな。そうか。学長先生はどちらかな」
鏡には埃が映っていた。埃の中に人影がある。
「学長だ」
私が言うと、学生たちが周りに集まってきた。
私たちの目は、鏡に釘付けになった。
「なぜ、あなたがここにいらっしゃるのです!」
学長の叫び声が聞こえた。
それと、ほぼ、同時だった。
「えい」
老人が鋭い声を上げ、手を動かす。くるりと杭に縄をかけるような動きだ。
途端、鏡に映った学長が身を屈めた。それから、握った右手を頭の上でくるりと動かした。左手が首の横で握られ、右の拳も首の辺りに下ろされる。
両方の拳に力が込められた。
見る見るうちに、学長の顔が赤黒くなった。息でも詰まったように口を開き、首筋には縄で絞められたような痕がつき始める。
だが、どこにも、縄は映っていない。
「きええ」
老人の奇声が堂内に響いた。鏡の中で、学長が目を見開いた。握っていた拳から力が抜け、床に崩れ落ちる。
さっと、鏡に布がかけられた。老人は口の中で何かを唱え、一礼する。
詩の先生は尻餅をついたまま、呆然と鏡を覆った布を見ていた。
私たちも、声を出せずにいた。
鼻の奥がつんとした。目が染みる。視界は、もやがかかったように白くなってきた。
「煙だ!」
仲興が怒鳴った。見ると、廊下から煙がどんどん入ってきている。
「いかん、逃げろ」
伯文が叫んだ。
「窓から出るんだ。早く!」
仲興がぼんやりしている学生の頭を殴っている。
詩の先生が学生をかき分けて窓に突進した。それを見て、学生たちもいっせいに窓に走る。
堂に残されたのは、壇上の老人と覆面の人だった。
そして、私と、楊淵季。
「逃げよう、淵季」
腕をとると、彼はいったんうなずき、次に力一杯払いのけた。そして、窓と廊下を交互に見てから、廊下に飛び出す。
「そっちはだめだ!」
私も追いかけて廊下に出る。煙の中で、うっすらと楊淵季の姿が見えた。彼は返事もせずに左右を見回し、隣の部屋の扉を押し開けた。
白く濁る視界の中、私は回廊に人影がないか探した。
――なぜ、あなたがここにいらっしゃるのです!
学長がそう言ったのだから誰かがいたのだと思ったが、人の気配はない。
私は楊淵季の後を追うように、扉を押した。




