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冷徹公爵は私を試しているようですが、全部お見通しです  作者: じょな


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1


 朝日が差し込む私室で、私は小さく息を吐いた。


「お嬢様、もう少しだけ息を吸ってくださいませ」


 背後から聞こえるミアナの声に合わせて、私は小さく息を吸い込む。

 きゅっ、とコルセットが締め上げられ、思わず声が漏れそうになるのを堪えた。

 鏡の前に立つ自分を見つめる。

 栗色の髪は丁寧に結い上げられ、私の瞳と同じ、深い緑色のドレスが用意されていた。

 決して派手ではない。シュタルク侯爵家の長女という立場に相応しい、落ち着いた装いだ。

 今日は、私の人生において最も重要な日の一つになるはずだった。


「……本当に、行かれるのですね」


 ミアナが、最後にリボンを整えながらポツリとこぼす。

 幼い頃から私の世話をしてくれている彼女の顔には、隠しきれない不安が浮かんでいた。


「家同士の決定だもの。私の一存でどうにかなるものではないわ」


「ですが、お相手はあのヴァルター公爵家です。しかも、アルフレート様といえば……」


 言い淀むミアナの言葉を、私は心の中で引き取った。


 氷の公爵(こおりのこうしゃく)


 それが、私の新たな婚約者となる人の異名だ。

 ヴァルタシア王国において、最大の軍事力を持つヴァルター公爵家。その嫡男である彼は、類まれな美貌を持ちながら、決して人前で笑わないことで知られている。

 冷酷無比。感情を持たない氷の彫像。

 社交界で彼につけられた噂は、どれも背筋が寒くなるようなものばかりだった。


「お兄様も、最後まで反対していらっしゃいました。エリーゼにはもっとふさわしい、温かい家庭を築ける相手がいるはずだと」


「お兄様は心配性すぎるのよ。それに、まだ正式に結婚すると決まったわけじゃないわ」


 私は鏡の中の自分に向かって、小さく微笑んでみせた。


 貴族の婚約期間は三ヶ月。

 その間に、双方が合意して『婚約解消申請』を出せば、家名に傷をつけることなく婚約を白紙に戻すことができる。


「もし本当に噂通りの恐ろしい方なら、三ヶ月後に解消の手続きをとるだけよ」


 努めて明るく言うと、ミアナは「そう簡単にいけばよいのですが」と深いため息をついた。


[* * *]


 馬車が石畳を走り出す。

 窓の外を流れる王都の景色を眺めながら、私はそっと自分の胸元に手を当てた。

 規則正しく打つ鼓動。

 私の体には、家族にしか明かしていない秘密があった。


 共鳴感知(きょうめいかんち)


 それが魔法の一種なのか、ただの特異体質なのかはわからない。この世界に存在する『感応魔術』――人の感情や意志を読む魔法の、極めて限定的な形なのかもしれない。

 物心ついた頃から、私には他人の『嘘』がわかるのだ。


 人が私の前で嘘をついたとき、心臓の奥がチクリと痛む。

 まるで、見えない極細の針で血管を刺されたような、奇妙な痛み。


 最初は病気かと思った。けれど、ある時気がついた。

 「あなたの絵は素晴らしい」と心にもないお世辞を言った家庭教師の言葉で、胸が痛んだこと。

 「この宝石は本物です」と笑って偽物を売りつけようとした商人の言葉で、胸が痛んだこと。


 痛みの質は、その嘘の性質によって微妙に違う。

 誰かを騙そうとする悪意のある嘘は、鋭く深く刺さる。逆に、相手を傷つけまいとする優しい嘘や、社交辞令のような建前は、鈍く浅い痛みだ。


 それでも、嘘は嘘。

 社交界に出るようになってから、私の胸は休まる暇がなかった。

 きらびやかなドレスを着て、優雅に微笑み合う貴族たち。その口から発せられる言葉の半分以上が、私に痛みを伴って届く。

 息苦しかった。


 だからこそ、私は政略結婚に少しだけ期待していた。

 家と家との契約。そこに愛がないのなら、せめて嘘もない関係が築けるのではないか、と。

 冷たい人でも構わない。不器用でもいい。

 ただ、本当のことだけを言ってくれる人であってほしい。


「お嬢様、見えてまいりました」


 ミアナの声に弾かれたように顔を上げる。

 王都の中心部に位置する、広大な敷地。

 黒々とした鉄格子が開き、馬車はヴァルター公爵家の本邸へと滑り込んだ。


[* * *]


 通された応接室は、広大で、そしてひどく寒々しかった。

 壁には巨大な風景画が飾られている。険しい雪山と、そこを飛翔する一羽の鷹。荒涼とした景色の中に、どこか力強い生命力を感じる絵だった。

 調度品はどれも実用的で無駄がなく、人の気配が薄い。


 ソファに座って待つこと十数分。

 カチ、カチと等間隔で時を刻む柱時計の音が、部屋の静寂をより一層引き立てていた。

 隣に立つミアナが、緊張で身を強張らせているのがわかる。


 ふいに、重厚な扉が開いた。


 足音もなく、一人の青年が部屋に入ってくる。

 顔を上げた瞬間、私はわずかに息を呑んだ。


 月明かりを糸にして紡いだような、艶やかな銀色の髪。

 氷の結晶をそのまま埋め込んだような、冷たく透き通る青い瞳。

 隙のない漆黒の軍服が、長身で引き締まった体躯によく似合っている。


 アルフレート・ヴァルター。


 彼がそこにいるだけで、部屋の温度が数度下がったような錯覚を覚えた。

 美しい。けれど、恐ろしいほどに人間味がない。


「待たせたな」


 低く、よく通る声。そこに感情の揺らぎは一切ない。

 私は立ち上がり、ドレスの裾を摘んで静かにカーテシーをした。


「初めまして。エリーゼ・シュタルクと申します。本日はお時間をいただき、感謝いたします」


「座ってくれ」


 短い言葉とともに、アルフレート様は向かいのソファに腰を下ろした。

 彼が一瞥すると、部屋の隅に控えていた使用人たちが音もなく退室していく。ミアナもまた、青ざめた顔で一礼し、扉の外へ下がっていった。


 広い応接室に、私と彼、二人きり。

 氷のような瞳が、私を真っ直ぐに射抜いた。


「遠路をご苦労だった。さっそくだが、本題に入ろう」


 アルフレート様は、出された紅茶には目もくれず、淡々と口を開いた。


「単刀直入に言う。この婚約は、あくまで家同士の都合で結ばれたものだ」


 ――チクッ。


 不意に、胸の奥が痛んだ。

 私は、膝の上で組んだ指先にわずかに力を込める。


 今の言葉。

 家同士の都合で結ばれたもの。

 それが、嘘?


「君も聞いているだろうが、我が家は軍務を司る。家の利益のため、シュタルク侯爵家との繋がりが必要だった。それ以上の意味はない」


 ――チクッ。


 まただ。

 心臓が、きりきりと疼く。

 利益のため、という言葉が嘘なのだと、体が告げている。

 私は黙って彼を見つめ返した。

 アルフレート様の表情は、微動だにしない。完璧な貴族の仮面がそこにあった。


「私に会いに来る令嬢は、皆、権力か財産を目当てにしている。君もその一人だろう」


 ――チクッ。


「いいえ、そんなことはありませんわ」


「嘘だな。シュタルク侯爵家は、我が家の後ろ盾を必要としているはずだ」


 ――チクッ。


「家の事情はそうかもしれませんが、私自身の気持ちは違います」


「……強情な女だ。私自身、君のことは何とも思っていない」


 ――チクッ。


「この婚約に満足しているし、君にも余計な期待はしないでほしい」


 ――チクッ。チクッ。


 痛い。

 立て続けに胸を刺す痛みに、思わず奥歯を噛み締める。

 どういうことだろう。

 この人、さっきから息をするように嘘をついている。

 顔合わせの最初の挨拶から、何一つ本当のことを言っていない。


 でも、不思議だった。

 痛みの質が、社交界で浴びるような悪意のある嘘とは違う。

 相手を陥れようとする刺々しさが、この痛みにはない。

 どちらかと言えば、必死に何かを隠そうとしているような、ひどく切実で、不器用な痛み。


「貴族の婚約期間は三ヶ月だ。その間、もし君がこの婚約を不服だと感じたなら、いつでも解消申請を受け付ける用意がある」


 アルフレート様は、私の沈黙をどう受け取ったのか、さらに言葉を重ねた。


「私は軍務で忙しい。君の相手をする時間はほとんどないだろう。屋敷では好きに過ごすといい」


 ――チクッ。


「食事も別にとることが多くなる。私に構わず、勝手にしてくれ」


 ――チクッ。


 もう、どこからどこまでが嘘なのかわからない。

 ただ、一つだけ確かなことがある。


 彼は私を遠ざけようとしている。

 私に嫌われようとして、冷酷な婚約者を完璧に演じている。


 家同士の都合ではないのなら、本当の目的は何なのだろう。

 わからない。

 けれど、その不器用な嘘の連続に、私はなぜか怒る気になれなかった。


「……聞いていたか?」


 私がずっと黙っていたせいか、アルフレート様がわずかに眉を寄せた。

 本当にわずかな、感情の揺らぎ。

 私は、ゆっくりと息を吐き出した。


「はい。よくわかりました」


 にっこりと、作り物ではない笑顔を向ける。


「期待はしません。お互い、無理のない範囲で過ごしましょう」


 私の返答が予想外だったのか、アルフレート様は一瞬だけ、本当に一瞬だけ、目を丸くした。

 氷の仮面に走った、小さな亀裂。

 それを見て、私は少しだけ可笑しくなった。


「これから三ヶ月間、よろしくお願いいたしますね」


 アルフレート様は何も答えなかった。

 ただ、気まずそうに視線をそらし、手元の冷めた紅茶を無言で見つめている。


[* * *]


 帰り道。

 馬車の中で、ミアナは涙目で憤慨していた。


「信じられません! あのような冷たいお言葉をぶつけるなんて。お嬢様、やはりお兄様にお願いして、今すぐ婚約解消の手続きを……」


「ミアナ、落ち着いて」


 私は窓の外を眺めながら、自分の胸にそっと手を当てた。

 痛みはもう引いている。


 アルフレート・ヴァルター。

 氷の公爵と呼ばれる、完璧な婚約者。


 彼の言葉は、ほとんど全部が嘘だった。

 私を傷つけて、追い出そうとしている。


 でも、なぜ?

 どうしてあんなに必死に、自分を冷酷な人間に見せようとするのだろう。

 胸の奥に残る微かな痛みの余韻が、私の中で静かな好奇心へと変わっていく。


「三ヶ月間、少し退屈しないかもしれないわね」


 ポツリと呟いた私の言葉は、馬車の揺れる音に掻き消された。


 あの人が嘘をつく理由。

 それを知るまでは、ここから逃げるわけにはいかない。

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