序章(3)『無頓着の代償』
「ねぇ、お兄さん。今、ヒマ?」
「――っ!?」
思わず、肩が跳ねた。
背後から不意に届いたのは、驚くはずもない柔らかい声だった。
しかし、警戒の薄かった背中側からの声は、まるで骨の隙間をすり抜け、背骨から心臓へと届く刃のように、胸の内に冷たく潜り込んできた。
心臓の鼓動が一段速くなるのを感じながら、俺は手の中にあるスマートフォンの画面を、太腿に押し付けるようにして伏せる。液晶の光がトレンチコートに押し付けられて消える直前、親指が画面の端を素早く叩いた。あらかじめ設定しておいたショートカットが作動し、バイブレーションの微かな震えが「録音開始」を告げる。
その直後、もう一度背後で屈託のない笑い声が弾ける。
「そんな驚くことないじゃん。もしかしてお兄さん、エッチなサイトでも見てた?」
先ほどとは違い、その声に喉がヒクつくような不快さや体を突き抜けるような衝撃はなかった。さっきはただ驚いただけだったのだろう。
一旦気持ちを落ち着かせるように息をつき、後ろを振り向く。視線の先、ほとんど一歩の距離から、少女がこちらを見下ろしていた。
高校の制服だろうか、紺のブレザーに、同じく簡素な紺色のスカート。そしてブレザーの下には厚手のスウェットパーカーを重ね着し、フードを頭に被っている。両手はブレザーのポケットに突っ込まれ、背中には使い古された、化繊特有の安っぽい光沢を放つギターバッグを背負っている。
しかし、彼女の容貌で何より目を引いたのは、フードの縁から覗く髪の色だ。サイドのほんの毛先だけだが、夜の街のネオンを反射したような、毒々しいほど鮮やかなライトグリーンに染められていた。
「……ただのネットニュースだよ。それで、何か用?」
俺は努めて平坦な声でそう言い、伏せていたスマホの画面を切ってコートのポケットへ滑り込ませる。
「用がなきゃ声もかけちゃダメ?」
少女は唇の端だけで笑い、被っていたフードを後ろへ落とした。
ずいぶん美人な子だな、と素直に思った。
あどけない二重の目や柔らかな頬のラインには、まだ少女の面影が色濃い。けれど、きめ細かく白い肌や凛とした鼻筋は、将来の大和美人を予感させるに十分な端正さを備えていた。
髪型は、肩先でふわりと内側に丸まった、艶のある黒いボブ。フードを下ろす前から覗いていた、鮮烈な緑色のサイドヘアだけが、肩に届くくらいまで伸びている。こちらの反応を伺うように小首をかしげる彼女の動きに合わせ、その鮮烈な緑が胸元で生き物のように揺れる。
――その小さな差し色は、誰かを意識した宣戦布告のようでもあった。
「折角のクリスマスイブなんだしさ――ねえ、隣、いいよね?」
承諾を求める形のセリフ。しかし、そこには拒絶を許さない強引な音色が感じられた。俺の返事も待つ気もなく、少女は当然のように隣に腰を下ろす。
ちゃんとスカートをさばいて座る様子は、その無遠慮な物言いと挑発的な外観と違い、育ちの良さが垣間見えるようで意外だった。
冬の乾燥した空気に混じり、シトラスのようなかすかな香水の香りが鼻先をかすめる。物理的な距離が、一気に数センチメートルまで縮まっていた。
少女の吐いた白い息が、冬の空に溶けていく。ビルの間に吹く冬の空っ風がそれを容赦なく巻き上げ、上空へとさらっていく。
「……」
警察官が人を配置してまで探している『学生風の女の子』。目の前の少女がその手配の当人かどうかを俺は断定できずにいるが、気になって調べていたその矢先に、目の前に『その記号』をまとった少女が現れるというのは――もし偶然の産物ならば神様は随分と悪戯が過ぎるというものだろう。
思い込みが先走らないよう、俺は静かに雑踏に目を向けた。視線の端では、先ほどの警官たちがまだ群衆を見回している。
ただの思い違いなら、笑い話だ。考えすぎでないなら――本来なら、触らぬ神に祟りなしとその場を去るのが最善だろう。ただ、それでは彼女が追われている理由は永遠に謎だ。警察の少女一人に対する中途半端な重配備も理由はわからないまま。それは、今ここで少女に襲われることより、よっぽど怖く感じた。
「悪いけど、連れを待ってるんだ」
俺は視線を隣の少女に戻した。
状況がわからない以上ひとまず慎重に対応するとして、俺は決定的には突き放さない方向で方針を決める。
「お兄さん、嘘下手だよね」
面白がるような、勝ち誇ったような笑みを浮かべ、少女はこともなげにそう言った。
「さっきから見てたけど、時計も道も気にしてないし、スマホ見てるだけじゃん?」
――見られていた。
う、と声に出さなかったのは我ながらよくこらえた方だと思う。
背後という人にとってどうしてもできる大きな死角――そこに彼女がいつから潜んでいたのか。それを思うと体表面に嫌な汗が浮かぶような感覚を覚える。そして、俺はなぜ全く背後に無頓着だったのか。普段なら考えられない失態だった。
(今はそこじゃないか)
彼女がどこまで把握しているかについて考える。スマホの画面をみていただけか。サイトやアプリの内容か。それとも、「ヤツ」とのやり取りまで、見られていたのか。もしそうなら、俺が指名手配の少女の話に片足を突っ込んでいることはバレているということ。――ただ、もし画面のやり取りまですべて把握されているなら、彼女の方から接触してくるとも思えないが……。
結局、どこまで言っても推論は推論だ。彼女がどこまで見たかわからない以上、ここからは事実を元に言葉を組み立てるしかない。
「黙っちゃったね」
あれこれと考えていた俺を見ながら、彼女が一段小さな声で言う。その声は、艶を帯びたような響きをまとっていた。
口元には相変わらずいたずらっ子めいた笑みを浮かべていたが、細められた瞼の奥からは、まるでこちらの困惑を楽しむような、沈黙さえも甘い時間に昇華させようとするような、熱を持った瞳が見返していた。
「ねえ、もしかして」
少女はそこで言葉を一瞬区切る。
「お兄さん、『当たり』、探してたんじゃない?」
少女のこちらの反応を愉し気に観察するような表情を前に、俺は少し冷静になる。
今の言葉はどっちだ? 逃走者の演技か。それとも、本当にただ今夜の『宿』やら『小遣い』を求めるただの『営業』か。
時折見せる育ちの良さや頭の回転の速さを感じさせる話し方。挑発的な染髪に年齢不相応に艶を匂わせる振舞い。それらは酷く演出染みて見える気もするが、その一方でそう断定するだけの隙もない。
「連れとチャットしてただけだよ。もうじき来ると言ってるから、周りを気にしてなかっただけだ」
俺はポケットの中のスマートフォンの縁を無意識に撫でながら、そう答える。
彼女は恐らく俺が指名手配ではと疑っているとは思ってない。情報的には、こっちが優勢なはずなのに、後手後手に回らされている。
隣に座った少女は、俺のそんな焦燥を嘲笑うように、小首を傾げて見せた。
「えー、そうは見えなかったけどなぁ?」
彼女は歌うようなトーンで言い、さらに物理的な距離を詰めてくる。トレンチコートの袖に、彼女のブレザーの柔らかな生地が触れた。
(……しまった)
今にも触れそうな彼女の気配から逃げるように、無意識に少しだけ距離を取ってしまっていた。
「……その、『当たり』ってのは?」
誤魔化すように尋ねた俺の声は、自分でも驚くほど硬かった。
「あー、ね」
少女は、そんな俺の拒絶を敏感に察した様で少しだけバツが悪そうに身を引く。先ほどまでの強引なまでの距離の詰め方が嘘のように、少し肩身を狭めるようにしてベンチに両手をつく。彼女はそのまま、ビルの合間から見える寒々とした夜の闇を見上げた。
「うんとね。『当たり』っていうのはね」
少女の方も誤魔化すようにそう答えるそぶりを見せながら、ベンチの下で脚をぶらぶらと揺らした。背負ったギターバッグの重みが、彼女の細い肩をわずかに沈ませる。
「今日みたいな日に、一人でいる私みたいな寂しい女の子のことだよ」
彼女は、今度は距離を詰めるような様子は見せず、夜空を見上げたまま少し自嘲するようにそう言った。その佇まいに先ほどまでの面影はなく、ただ居場所のない少女が寄る辺を失って途方に暮れる様子を感じさせた。
書いてたら5000文字越えちゃったので、一旦途中で切って投稿です。
あとあと少し調整するかも




