序章(3)「静謐な箱庭の中で」
チリン、と控えめなカウベルの音が、重い木製の扉を開けた私を迎え入れた。
一歩踏み込んだ瞬間、鼻腔をくすぐったのは焙煎された豆の香ばしい匂いと、微かなシナモンの甘い香り。それだけで、冷え切っていた肺の奥がふわりと緩むのを感じた。
「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ」
出迎えてくれた店員の女性は、過不足のない柔らかな笑みを浮かべていた。その声のトーンが、この空間の静謐さを壊さない絶妙な低さで、私は無意識に小さく息を吐き出した。どうやら、この店を選んだ直感は正解だったらしい。
(……あ、好きかも)
案内されるまま、私は店内の調度品に視線を走らせる。
壁は漆喰の塗り壁だろうか。わざと残されたコテの跡が、照明の灯りを柔らかく拡散させている。使い込まれたチーク材のテーブルは、角が丸く削れていて、触れずともその滑らかさが想像できた。椅子の脚の曲線や、棚に並んだアンティークのカップの配置まで、一つひとつが「心地よさ」を計算して配置されているのがわかる。
職業柄、ついページ構成を考える癖が出る。
この質感なら、ライティングはもう少し落として影を強調したほうが映えるかもしれない。いや、あえて自然光だけで撮るのも――。
「どうぞ。この時間は日差しが暖かいですよ」
促されたのは、西向きの大きな窓に面した席だった。
十二月の低い太陽が、飴色のテーブルに長い光の帯を作っている。腰を下ろすと、コート越しにも陽だまりの温もりが伝わってきて、朝からのピリピリとしたトゲが、春の雪解けみたいに消えていくのがわかった。
手渡されたメニューは、上質なレザック紙に手書きの文字。
「何にしようかな」
さっきまでの「なんでもいいから腹を満たしたい」という投げやりな空腹感は、どこかへ消えていた。今はただ、この穏やかな時間にふさわしい「何か」を選びたいという、ささやかな高揚感に包まれている。
ページをめくる指先が、心なしかさっきより軽かった。
◇◇◇◇
運ばれてきたのは、厚切りのパンに溢れんばかりの具材が挟まったホットサンドだった。
こんがりと絶妙な焼き色のついた表面から、香ばしいバターの匂いが立ち上る。
「お待たせいたしました。
こちら、季節のホットサンドです」
店員の女性が、柔らかな微笑みとともに皿を置いてくれる。
私は小さく会釈をして、さっそくナイフを手に取った。サクッ、という小気味いい音が耳に心地いい。
一口、口に運ぶ。じゅわっと広がる素材の旨みと、丁寧に作られたホワイトソースの優しい甘さ。噛み締めるたびに、張り詰めていた心の棘が一本ずつ抜けていくような気がした。
「なんか、変なミスとかどうでもよくなっちゃった」
そう思わず口にした、その時――
「……?」
――鼻先を、ごくごく微かな匂いがかすめた。
料理を焦がしたような、ごく微かな、苦い匂い。
(……焼きすぎちゃったのかな?)
そう思うが、ホットサンドの焼き加減は完璧だった。
ふと隣の席の老紳士に目を向けるが、特に異変を感じている様子もなく、陽だまりのなかで文庫本を読みふけっている。
(お料理、焦がしちゃったのかな)
そう思って厨房の方を見るが、従業員の女性もレジの辺りで何か作業をしているだけで、変わった様子はない。店内にも変わった様子はなく、相変わらずセンスのいいインテリアが、柔らかな室内灯に照らされているばかりだった。
(ま、いいか)
深くは考えずーー二口目を頬張る頃には、その匂いは豊かなバターの香りに塗りつぶされ、意識の隅へと追いやられてしまった。
◇◇◇
表通りに面した大きな窓からは、柔らかな午後の日差しが差し込んでいる。
窓際の席は驚くほど暖かく、ガラス越しに見える街路樹の揺らめきが、今の穏やかな時間を肯定してくれているようだった。
向かいの席で文庫本を広げていた老紳士も、暖かな光に目を細めながら、静かにページを繰っている。
平和そのものの、凪いだ時間。
それが唐突に遮られたのは、食後のコーヒーに手を伸ばそうとした時だった。
パシッ、という乾いた音が店内に響き、それまで空間を満たしていたジャズの調べが、ぷつりと途絶えた。
同時に、天井のダウンライトが消灯し、厨房の換気扇が唸りを止める。
「あら、ごめんなさい。ブレーカーかしら」
接客担当の女性が、困ったような声を出しながらカウンターの奥へ引っ込む。
大きな窓から差し込む冬の日光は十分に明るく、店内が闇に包まれることはなかったが、電気という「文明の音」が消えたことで、耳が痛くなるほどの不自然な静寂がそこにあった。
奥から、コック姿の男性が出てくるのが見えた。彼は壁際にある分電盤をチェックし、いくつかスイッチを操作しているようだったが、BGMが戻る気配はない。
「……おかしいな。落ちてないぞ。ビル全体のトラブルか?」
男性の低い声に、わずかな戸惑いが混じる。
彼は一度こちらを振り返り、「申し訳ありません、少々お待ちください。様子を見てきます」と短く告げると、エプロンを外して女性に渡し、店を出て階段を降りていった。
彼が店を出るために扉を開けた、その一瞬。
廊下の空気が、ふわりと店内に流れ込んできた。
――まただ。
先ほど感じた、料理の焦げたような匂い。
今度はもう少しだけ、はっきりと。
けれど、それはまだ「誰かがどこかで不始末をした」程度の認識でしかない。
私は「困ったわね」という顔で、向かいの老紳士と視線を交わした。
彼は小さく肩をすくめて見せた。
この時、私たちの中にあったのは、せいぜい「せっかくの食事が冷めてしまう」という程度の、小さく穏やかな懸念だけだった。




