序章(2)「Alderの下で」
三十分後。
病室には、医師と看護師、そして先ほどの警察官二人が静かに椅子を並べていた。
「……あの日は、朝から、運が悪かったんです」
言葉がトリガーとなり、無機質な病室の白が、急速に色を変えていく。
鳴り止まないスマートフォンの通知音。
降り出しそうな、重苦しい曇天。
私は、意識の底にある「あの日」の始まりへと、ゆっくりと沈んでいった。
◆◆◆◆◆◆
十二月初旬の風は、容赦なく体温を奪っていく。
取材先から編集部への帰り道、私はコートの襟を立て、足早に駅へと向かっていた。ヒールの音がアスファルトに乾いて響く。
その足音が尖って響くのは、きっと気のせいじゃない。
はっきり言って、今日は朝から「呪われている」としか思えない一日だった。
始まりは、お気に入りのシルクのブラウスにコーヒーを零したことだ。
昨日クリーニングから戻ってきたばかりのそれを早速着替える羽目になり、家を出るのが五分遅れた。その五分のせいで、地下鉄のドアは私の鼻先で無情に閉まり、次の電車は信号点検で立ち往生。
……結局、午前中の取材にはギリギリ滑り込みという、編集者としては最も避けたい失態を演じることになった。
さらに悪いことに、インタビューの録音を確認しようとしたら、予備の電池をデスクに忘れてきたことに気づく始末。
「……最悪」
歩きながら、思わず独り言が漏れた。少し落ち着こうと、立ち止まって前髪を直す。
三十一歳にもなって、運勢占いの結果を引きずっているみたいで癪だが、ここまで重なると憮然とせずにはいられない。
「はぁ……」
もう一度これ見よがしにため息をつく。
こんなにイライラしてるのはきっと空腹のせいだ。コーヒーの一件で、今日の朝食は棒に振った。今頃マンションのリビングで冷めているであろうトーストを、未練がましく思い出す。空腹は怒りに直結するというが、今の私はまさにその状態だった。
どこでもいいから、適当なチェーン店で空腹を満たしてしまおうか。
そう考えながら角を曲がった時、視界の端に一枚の立て看板が引っかかった。
経年変化で味わいの出た木製のフレームに、手書きのチョーク文字。一番上に品のいい書体で、『Cafe Alder』と手書きされている。
「……ああ、ここか」
以前、自社のインテリア特集で見かけた記憶が蘇った。
確か「都会の喧騒を忘れる静謐な隠れ家」なんてキャッチコピーが躍っていたはずだ。
気になって、立て看板の前で止まる。
目の前にあるのは、一階に古びた不動産屋が入った、なんの変哲もない雑居ビルだ。エントランスは薄暗く、お世辞にも「入りやすい」とは言い難い。
けれど、看板の先に記された『4F』の文字が、今の私の投げやりな気分には妙に魅力的に映った。
確か、雑誌で見た店内は落ち着いていて、すごくいい雰囲気だったはずだ。
くぅ、と小さくお腹が主張する。
いまさら洒落た路面店で明るい接客を受ける気力はない。けれど、コンビニ弁当で済ませるほど自分を適当に扱いたくもない。
私は小さく息を吐き、ビルの奥へと一歩を踏み出した。
入り口のすぐ先には、使い込まれたスチール製のエレベーターが鎮座している。
その脇、さらに奥の方に目をやると、剥き出しのコンクリートが寒々しい無骨な階段が伸びていた。非常用だろうか。人影はなく、ただの静かな「通り道」としてそこにある。
「……」
冬の冷えた空気のせいか、表通りと比べて静かな空気のせいか――どことなく無気味さを感じつつ、私はホントに以前雑誌で見たカフェなのかと、雑誌の文面を思い出す。
いや、確かここであってる。まかり間違って店違いだとしても、ここから寒い思いをしてお店を探すより、いいだろう。
半ば説得するように思い込んで、私は迷わず、エレベーターの「↑」ボタンを押し込んだ。




