ボクと偶蹄目イッカク科1
少年はその獲物を顔の高さまで持ち上げると、満足そうににんまりと笑った。狩るのが難しいと言われていたその鳥を今日初めて一人で撃ち落とすことができたからだ。隣では毛並みの良い愛犬が舌を出して見上げてきていた。
「ありがとう。お手柄だな」
少年は笑顔で愛犬の頭を撫でると、愛犬は返事をするように低い声でウォウとひとつだけ鳴いた。
獲物は一羽だけで十分だった。自分の力を証明するのに数は必要ない。だからこの力の証明は自分に狩りを教えてくれた王である父に献上しようと思った。貴方のおかげでこんな立派な獲物が取れるようになりました──と。
ひゅうっ、と冷たい風が少年のブロンドヘアを揺らした。空を見上げると少年の目が灰色一色に覆われた。城を出たときには晴れ渡っていた空が雨雲に埋め尽くされている。そういえば周囲も少し暗いかな、と思った。天候が荒れる前に山を下って城に戻ろうとやや早足で歩き始めた。
自分と歩幅を合わせて隣を歩いていた愛犬が突然バウバウと鳴き出した。
「どうした? もう狩りは終わったぞ」
狩りが終わったのにこんなに鳴くのは珍しい。いつもと違う様子に少年は一抹の不安を感じた。何かがおかしい──直感でしかないが、ほとんど確信に近かった。
愛犬は鳴きながら駆け出し、単身山を下って行ってしまった。ただ彼の駆けていった先は普段から山を下るときに使うルート。急いで帰ろうとしたのだろうか。
視界の端に『黒』がちらついた。胸騒ぎがする。少年は王国全体が見渡せる崖まで駆けた。そこから見下ろした山裾の王国の様子は目を疑うものだった。
王国全体を黒い『靄』が覆っていた。真っ黒で揺らめく『靄』が雲海のように広がっている。あんなものは見たことがない──少年はぞっとした。
『靄』が蠢いた。その様子に血も凍る。『靄』は意志があるような妖艶な動きをしていた。まるで獲物を丸飲みする蛇の腹のように禍々しく、そして艶めかしく動く。その『靄』に悪意さえあるように感じた。
少年はその『悪意』に圧倒され、怯み、後退りした。それでも助けなくては、という想いがこみ上げる。急いで山を下ろうと踵を返すその瞬間だった。
国を覆っていた『靄』は音もなく、それでも勢いよく中央から噴き上がり柱を作る。まるで万単位の鳥の群が飛び立つように途切れることなく靄は空へと舞い上がり、雲を貫いた。少年は立ち尽くす。足に杭を打ち込まれたようにその場から動けない。瞬きをすることも忘れてその光景に釘付けになった。
靄でできた黒い柱はやがて細くなり、尾を引きながら徐々に薄くなっていく。そしてそれは空へと溶け跡形もなく消え去った。靄を吸い込んだ雲は徐々に晴れていき、再び青い空が顔を出した。
跡形もなく消え去ったのは靄だけではなかった。それが覆っていた王国が、自分の故郷がなくなっていた。そこにあったはずの家々、城壁、王宮、道路などの国を形作っていた全てが『最初から無かったように』消え失せ、だだっ広い荒れ地がそこにあるだけだった。少年は腰を抜かしそうにふらつく。これは何かの見間違いだ、山を下ればきっと国はある。そう信じて少年は無我夢中で山を駆け下りた。
目の前の光景は少年の精神をめった打ちにした。
見間違いなどではなかった。自分の生活していたあの光景は全て失われていた。土と草の大地には人工物……人の生活の営みの欠片も残っていなかった。
少年は荒れ地を駆け回る。国を破壊された訳ではなく、人の生活していた痕跡が全てが最初から何も無かったかのようだった。自分が通った学校、級友と遊んだ広場や裏通り、世話役に怒られたときに隠れた馬小屋。そして自分が生まれ育った王宮。その全てとそれに纏わる人々はいなかった。
「父上ーっ! 母上ーっ!」
父と母だけでなく、友や世話役の名も声の限り呼び続けた。先に戻ったはずの愛犬の名を呼び指笛を吹き鳴らす。良いことも悪いことも共にした友人、口うるさくも大事なことは全て教えてくれた世話役、己の背負ったものを誇る偉大な父、慈愛に満ちた母……少年の瞼の裏に大切な全ての人々の顔が浮かぶ。
だが無情にも彼の呼びかけに応える者はいなかった。少年はその場に膝を突き地面を拳で叩いた。喉が張り裂けんばかりに獣のように吼え、手の皮が破れ血塗れになるまで地面を叩き続けた。胸苦しさは胃の締め付けに直結し、耐えきれずに吐瀉物を撒き散らす。胃の中が空っぽになってもなお嘔吐いた。
どれくらい時間が経ったのだろう。少年の青い目は濁り切り、虚ろな表情を浮かべていた。叫ぶのは既に止めていた。冷静になったわけではない。気力と体力が尽きただけだ。彼は呆然と地面に座り込み、夜を迎えようと薄暗くなった空を見上げていた。
少年は背後に気配を感じた。誰かが戻ってきた!──絶望に満たされた心に一条の光が射す。嬉々として振り返る。そこにいるのは友か、恩師か、世話役か、あるいは父か母か……!
「あ……あぁ……!」
少年は振り返った姿勢のまま、立ち上がることも出来ず喉から声が漏れる。
そこにいたのは、いや『あった』のは先ほど王国を覆っていた『黒い靄』に酷似した何かだった。それは王国を囲っていた大きさとは比にならないほど小さかった。その靄が形作っているものはちょうど人間が立った姿によく似ていた。そしてそのちょうど人間の顔に当たる部分が横に細く裂け、三日月の形を作った。まるで靄が口角を上げて笑っているように見えた。少年は直感で確信した。「こいつが仕組んだ」のだと。
少年の胸に怒り、憎しみ、殺意、そして恐怖が湧いてきた。
──こいつが、国を、父を、母を……っ!
その瞬間、左胸に激痛が走った。鋭いナイフで繰り返し切り刻まれるような苦痛。
『まだ自分はこいつに武器を向けていない』
なのになぜこんな苦痛を与えられているのか理解が出来なかった。仇であるはずの靄にわずかでも敵意を向けたことを後悔すらした。
どんなにもがいても叫んでも痛みはまとわりついて剥がれない。この痛みが永遠に続くのではないのかと思った。
***
「サンダー! 起きてください!」
サンダーは目を開けた。ああ、夢だったか。ぼんやりとした頭でそう考えた。だからといって安心できるものではない。あれは故郷を失った日の出来事だ。時々このようにあの日起きたことをそのまま夢に見る。
ふと肩に温もりを感じた。サンダーは目だけ動かし周囲を見た。枕元の明かりが点いていてぼんやりと薄明るく照らしている。ここは宿の客室、ベッドの上だということをようやく思い出した。そのまま顔ごと横に向けると、ルムが上半身を起こして自分の肩を掴んで揺すっていた。
「どうしたんですか? すごく魘されていましたよ?」
彼女は眉を下げ心配顔でサンダーに問いかけた。サンダーはその問いに答えず、黙って彼女の腰に腕を回し引き寄せた。
──今、故郷と同じくらい大事なものができた。この子を失ったら自分はどうなってしまうのだろう。
抱き寄せた彼女の腹のあたりに顔を埋め頬擦りする。彼女の体は細くて平たいが柔らかさと温かさが頬から伝わってくる。呼吸をする度に動く腹に彼女が『確かに存在し、生きている』と感じる。この子だけは絶対になくしたくない。
ルムは不思議そうな顔をして首を傾げていた。
***
夕べの様子からは想像できないほどサンダーは平然としていた。心なしか顔色が悪く見えるが色眼鏡で見ているからかもしれない、とルムは思った。彼が寝間着を脱ぎ捨て普段着に着替えている様子をダブルベッドの上から眺める。相変わらず刺青という派手な装飾の筋肉の鎧を纏っている。左胸のエンブレムは兵士の所属を表しているように見える。
ちなみにダブルベッドというのにやましい意味合いはない。単純にサンダーの体格だと宿のシングルサイズのベッドでは窮屈なのだ。彼自身は「ルムと並んで寝るため」と嘯いているが。
「どうした? そんなにジロジロ見て。朝から抱かれたくなったか?」
「んなわけあるか!」
サンダーは意地悪そうに、だけど優しく微笑んだ。自分をからかって楽しむ彼にむっとしてルムは頬を膨らませた。夕べはあんなに女々しく弱ってたくせに……と思う。
「それにしてもその刺青……というか呪いの証とも言える紋章ですが、すっごく綺麗に浮かび上がってますね。そこを避けて他の刺青を入れたんですか?」
「いや、これは紋章を隠すために上から他の刺青を重ねたはずなんだが、時間と共に紋章だけが浮かび上がってきたんだ。改めて『【魔女】の呪い』だと思い知らされたよ」
訊いたことを後悔した。サンダーに嫌な過去を思い出させてしまったと罪悪感に駆られる。
だがサンダーは気にも留める様子はなく穏やかに笑う。
「その顔もそそるな。夕べは何もしていないんだ。俺は今からだってお前を抱けるぞ」
「悪い夢見て弱っていたくせによく言いますよ」
「でもルムっていう正義の味方が助けに来てくれたんだから大丈夫だ。さて、朝ご飯だ。食堂に行くぞ」
服をしっかりと着込んだサンダーは部屋を出ていく。抱く抱かないは彼流のジョークだ。ルムもベッドからぴょんと飛び降りて彼について部屋を出た。宿の急な階段を下りながらルムは先を歩く大きな背に向かって話しかけた。
「よっぽど嫌な夢だったんでしょう? どんな夢だったんですか?」
「ははは、お前がいればもう怖いことなんてない。だからこの話は終わりだ」
彼は大きな肩を揺すって笑っている。
──何かはぐらかされてるな。
ルムはじっとサンダーの背中を睨みつけた。
一階の食堂に入ろうとすると中から男女の諍いの声がした。廊下まで筒抜けである。そしてそれが知人の声であることにもすぐに気が付いた。
「モディ殿、やはりその格好は節操がない。はしたない格好は控えるでござる」
「うるさい! アタイに言わせればアンタの格好の方がよっっっっっぽど変!」
モディとリンドウが食堂のちょうど真ん中で向かい合って言い争っていた。内容はどうもリンドウがモディの服装にケチを付けているようだ。サンダーは二人を無視して壁際の席をキープした。
「モディ、リンドウ、おはようございます。こんなところで喧嘩なんてやめてくださいよ、みっともない」
「おはよ、ルム。だってこいつがアタイの格好に文句付けるんだもん」
「面目ない。しかしモディ殿は少し肌を見せ過ぎなのでは」
「うるさいっ!」
「大声出さないでください。周りの人がビビってるじゃないですか」
ルムは周囲を見回した。他の二組の宿泊客と給仕の女性がこちらを向いたままして硬直している。
「あ……あら失敬」
「うむ、面目ない」
二人を伴いルムはサンダーが取って置いた席に着いた。ルムはどっかりと椅子に座る。それをリンドウがジト目で見ている。
「ルム殿、足を開いて座るのは品がないのではないか」
「ボク、『元』男ですから」
「言い訳無用。今は誰の目から見てもオナゴでござる。そこを意識しないと……」
「チッ」
「舌打ちしない!」
「足を開くくらい許して下さいよ。【魔女】の呪いで姿を変えられた気持ちはリンドウには絶対理解できないんですから」
皮肉混じりに言ってやると、彼は少々表情を曇らせて唸った。
「うーむ……そう言われると立つ瀬がないが、相応の分別を弁えるべきでござる」
その様子を見ていたサンダーは少し呆れた様子で「あいつはあんなお節介キャラだったか?」と呟いた。ルムは一度深く頷いた。出会ったばかりの時からでは想像できないほどリンドウは口数も表情も豊かになっていた。
四人は給仕から食事を受け取った。メニューは皆同じ。他のテーブルの宿泊客も同じ物を食べている。観光地の大きな旅館ではないから豪華な食事が売りなわけではない。大の男のサンダーとリンドウには物足りないのではないかというくらい質素な食事だったが、二人は文句の一つも言わず完食した。
「さて、今日はどうしましょう」
空になった食器を前にルムが話を切り出した。
「天気が崩れそうだから無理に先を急ぐこともないだろう。今日はこの町で過ごそう。少し外に出るくらいはできるけどな」
サンダーが窓の外を見ていった。雨こそ降っていないがどんよりとした雲が空を覆っていて朝だというのに室内は薄暗い。異論は出なかった。
「じゃあ雨が降り出す前に外に行って装備を整えましょうか」
空いた食器を厨房の近くのカートに返却し、四人は食堂から出て行った。そのまま真っ直ぐ玄関へと向かい、受付でサンダーがもう一泊する手続きをしている。ルムは一足先に玄関を出た。サンダーが出てくるまで宿の前を所在なくうろうろする。
「ん……?」
はす向かいの建物の角をぼんやりとした白い物体が曲がっていったように見えた。ルムが首を傾げてそちらを見つめたが、それが再び出てくることはなかった。
「どうしたの、ルム?」
「いや、あそこの角を白い物体が曲がっていったんですけど……ボクの見間違いでしょうか? 幽霊とか?」
「ゆっ……幽霊とかやめてよルム! そそそそんなんいるわけないんだからっ!」
「それはわかったから首を絞めるのは勘弁してほしいでござる……」
モディが青ざめた顔してリンドウの着物の襟を掴んでいた。首を締め上げられているリンドウもまた同じくらい顔が青ざめていた。
***
四人は旅に必要な物を揃えるために商店を巡った。その最中、モディが少々不満げな顔をしていた。おもむろに彼女が口を開く。
「あー、やっぱり宿の朝食は少なかったわね。調理道具と食材さえあればアタイが美味しい手料理ご馳走するんだけど」
「買ったって構わないぞ。全てお前が背負って歩くというならな」
「それが嫌だから買ってないんでしょうが! コンロを背負って鍋を被って歩けって言うわけ?」
「それはそれでボクは見てみたいです」
「拙者は嫌でござる。そんなチンドン屋と並んで歩くなぞ」
「アンタ達適当なことばっかり言って! ……やっぱり移動手段が欲しいわ」
移動手段か……とサンダーは考えた。確かに四人となった以上集団で歩いていると目立つ(ルムのことを誘拐した犯罪集団に見られて捕まりそうになったこともあった)。宿に泊まるにも何部屋も取る必要性があって出費が地味に嵩んでいる。男女別なら二部屋で済むのだが、サンダーがルムと離れるのを嫌がるしリンドウは「オナゴと同じ部屋では過ごせぬ」と言って頑なにモディと同室にはなってくれない。大型の車でもあれば移動も楽だし野宿も可能だ。
そんなことを話しながら足取りは宿から少し離れた人気のない雑木林の方へと向かう。湿気を含んだ風は少し冷たいが、雨が降るまでにはまだ少し時間がありそうだった。




