ボクと偶蹄目イッカク科2
「さて、既に二人の【魔女】とは遭遇していますが、どちらもボク達に呪いをかけた【魔女】ではありませんでした」
「思ったよりも早く【魔女】に出会えたな。もしかしたら想像する以上に【魔女】というのは人間社会に入り込んでいるのかもな。こうなるよりも以前に俺達は生活している中で【魔女】と遭遇していたかもしれない」
人気のない所に来たのはこのように【魔女】の話をするためだ。実は【魔女】がこの世界に数多く存在するなど人々の耳に入れないようにしたいのだ。あの【炎の魔女】の言い種からもっと多くの【魔女】がいるであろうことは想像できる。人々がたった一人の【魔女】に怯えていることが、実は何よりも人々に平穏をもたらしていることは皮肉だった──山から決して降りてこない『山脈の魔女』にだけ注意を払っていればいいのだから。
「【魔女】だけでなくトカゲ人間みたいな生粋のモンスターまで存在するとは思っていませんで……」
ルムは言い終わらないうちに後ろを振り返った。ガサッと葉を擦り合わせる音がする。彼女の背後の藪がガサガサと揺れている。
「ルムっ!」
サンダーが彼女の腕を掴んで引き寄せた。そのまま彼女を胸に抱き、動く藪を睨みつけた。モディもリンドウもそれぞれ既に自分の得物に手をかけている。ルムもサンダーの服を指で摘みつつも藪を睨んだ。
ザッと一際大きな音を立て葉が舞う。藪から『白い何か』が飛び出してきた。
「えっ……これって?」
「…………可愛い!」
思いも寄らないルムの反応にサンダー達は一斉に藪から目を離し彼女を見た。ルムは彼らの視線も気にならないのか、藪から飛び出たそれに釘付けになっている。
「ちょっとちょっと待ってよ、どーして『イルカ』が陸上にいるのよ!」
藪から飛び出したもの、それは白い『イルカ』の顔だった。体を少し反らせて顔を上げ、首を傾げてこちらを見つめている。口が笑っている形になっていて何ともご機嫌そうだ。
「サンダー、あれに触ってもいいですか? ですから離してください」
「許可が出る前に『離して』とは急ぎすぎだ。でもダメだ、あれが敵かどうかもわからない」
「見てくださいよ、敵意があるように見えます?」
イルカは鳴き声の一つも上げず黒く潤んだ瞳を向けてくる。芋虫のようにウゴウゴと動いている姿は鈍くさい。
ルムはサンダーの腕を解くとスキップするようにイルカへと近付いた。イルカの正面にしゃがんでそのつるりと丸い頭に手を伸ばす。イルカはさも「早く撫でろ」と言わんばかりに頭を突き出した。
「ルム、お前は本当に仕方ない子だ……」
「うわー、ゴムみたいですよ。図鑑でしか見たことなかったから本物をずっと見たかったんですよ」
「ルムは海を見たことないって言ってたもんね……でも海への憧れ強すぎんでしょ」
「しかしやはり海の生き物が陸に上がるとは何とも面妖だと思うのでござるが……」
イルカはさらに藪から身を乗り出し、しゃがみ込むルムの懐へ潜り込み鼻先を押しつけた。ルムの体がイルカの頭を包むように前傾になる。甘えるようにイルカは頭をぐりぐりとルムの鳩尾の辺りに押しつけている。その様子をサンダーは実に不愉快そうに眺めている。
「なぁにサンダー。アンタまさかあのイルカに嫉妬してるの?」
「言ってろ」
モディの挑発に乗ることなくサンダーはイルカを睨み続けている。
しかしイルカの胴体を見た途端、サンダーの背筋に寒気が走った。
「ルム、そのイルカ胸鰭が四枚あるぞ。離れろ!」
「え?」
その瞬間イルカが大きく仰け反り、鼻先でルムを持ち上げた。するとイルカは滑るように茂みから抜け出しサンダー達にその全身を見せた。イルカの全身は胸鰭以外は何ら変哲がない。ふっくらとした白いボディには背鰭はない。
イルカは二対の胸鰭を鳥の羽のようにはためかせ『宙に浮いていった』。勿論頭の上にはルムを乗せたままだ。モディとリンドウは目も口も開いたまま見上げている。
「ルムーっ!」
信じられない生き物を目の当たりにしながら、サンダーだけがこれがよからぬ状況だと理解し気を確かに保っていた。ルムの名を叫び手を伸ばしたが彼女の体には届かなかった。
「た……助けてっ!」
浮き上がったイルカに跨がったままのルムが叫んだ。
『ゥガアアアアアアァァァァァァァッ!』
サンダーは即座に怪物化した。脱ぐことも忘れたシャツは弾け飛びただの布切れとなり地面へ落ちる。怪物は大股で駆け出した。
「ちょっと……ルム、サンダー!」
動揺するモディの叫びを背で聞いたきり、怪物は後ろの仲間のことすら忘れ無我夢中で走った。助走で加速をつけた怪物は地面を蹴った。ルムを掴んで引きずり降ろそうとイルカの方へと手を伸ばす。
だがわずかに届かなかった。振りかざした手はイルカの腹のあたりを掠めるように虚しく宙を薙いだ。怪物の目には泣き出しそうなルムの顔が映った。
──あともう少しだ! もう少し待ってくれ、ルム!
距離はつかめた。もう一度跳ぶから、そのときは必ず取り戻す。
だが怪物は足を止めた。目の前に轟音を立てる濁流が現れ、追跡を邪魔している。上流で雨が降って増水したのだろう。河を見たそのたった一瞬だった。次に顔を上げたときにはルムの姿は見えなくなっていた。河を渡ってしまったのだろうか。怪物でも溺れずにこの増水した河を渡るのは不可能だ。
怪物は濁流を前に雄叫びを上げた。
***
「た……助けてっ!」
ルムが叫んだ。命綱なんか勿論なく振り落とされる恐怖に支配された。イルカは空へ向かうために顔を上に向けている。イルカとは逆を向いて跨がっているルムは当然顔が下に向く。地面が遠ざかっていく様を見せつけられた。傾いているイルカの背を滑り落ちそうになるが、背鰭のない背中には掴まる場所などどこにもなくイルカの鼻に跨がったまま必死にそれの体に爪を立てる。背中に風が当たる。つまりイルカは移動している。地上のサンダー達と離れていっているということがルムの不安と恐怖をますます煽った。
『ゥガアアアアアアァァァァァァァッ!』
下から怪物の咆哮が聞こえた。イルカにしがみついたまま下を覗き込むと怪物がこちらを向いたまま猛スピードで追ってくるのが見える。
「しつこいねェ」
どこからか声が聞こえた。ルムは思わず首を左右に振り、人の存在を探した。
しかし今この場にいるのはイルカと自分の二人だけ。声の主らしき人間なんか空中に見つかるはずがない。
「お嬢ちゃん、しっかり掴まってなよォ」
また声がした。その声は確実に自分に語りかけている。状況からこのイルカが喋っているとしか考えられなかった。
地面を走る怪物は徐々にスピードを上げた。
『ガァッ!』
十分に助走で加速をつけた怪物は地面を蹴りつけ高く飛んだ。イルカの方へと手を伸ばす。鋭い爪の大きな手が目の前まで迫る。
だがルムはそちらへ手を伸ばせなかった。しがみつくのに必死でイルカから手を離せなかった。怪物の手はルムにも、イルカにも届かず地面へと落ちていく。
「あ……」
ルムは遠ざかる怪物を見送ることしかできなかった。やがて自分を追いかけていた怪物が足を止めるのが見えた。そこには荒れた河が横たわり、怪物の行く手を阻んでいた。
それに対しイルカは高度を上げていく。高くなればなるほど地上の怪物は豆粒程度にしか見えなくなる。冷たくなっていく空気と孤独が彼女を震えさせた。
もう追いかけてきてくれない。目の前が真っ暗になった。
***
落雷があったのかと思った。
しかし音源は空ではなく地上だ。
増水した川の流れる音がモディの耳に届いた。それを打ち消さんばかりの雷鳴。その正体は濁流の前で立ち尽くす怪物の咆哮だった。怪物は天を仰いで絶え間なく吼えている。町から離れた場所とはいえ、これが続いたら人に怪物の存在が気付かれてしまいそうだった。
「サンダー、落ち着きなさいよ!」
「サンダー殿! 気は確かか?」
モディは怪物の腕にしがみつき肩や胸を平手で何度も叩き、リンドウは正面に回り込み怪物の顔を見据えて声をかけた。
だが怪物は二人を振り払うどころか、その存在に気付いていないかのように吼え続ける。
──いつもの憎たらしいほど冷静なサンダーらしくない。
バンと火薬の破裂する音が響いた。モディが銃を取り出し天に向かって空砲を撃った。実際は『念導銃』には火薬は使用していないからそれに類似した音を出しただけだ。念じ方によって『念導銃』は爆音を出すことも、消音装置がなくても消音することも可能にする。相応の精神統一は必要だが。
怪物の吼え声はそこで一旦止まった。
「サンダー、とにかく落ち着きなさいよ」
唸りながら睨みつけてくる怪物に向かってモディは冷静に言い放つ。
──こいつの理性がマジで吹っ飛んでて、こっちに攻撃してきたら敵いっこない。
怪物のポテンシャルと、自分との力量差に恐怖していないわけはない。だから怪物に銃口を向けることはしなかった。それを理解したのか、怪物はしばらく彼女を見据えていたがやがて人の姿に戻った。
「あの海獣は河を越えたのであろうか?」
ようやく話ができる状況になったと思ったのだろう、リンドウが口火を切った。彼は河の方に目だけ向けている。サンダーは首を横に振る。
「わからない」
「わからないって?」
「あのイルカは途中から高度を上げた。速度では怪物を撒けないと思ったのかもしれない。高く飛んで怪物の視界から消えるつもりだったんだろうし、実際にやってのけた。だからあのイルカがどの方角に行ったかはわからない……っ」
語尾に悔しさが滲み出ていた。サンダーは初めこそ冷静だったが話しているうちにこみ上げる思いが抑えられなくなってきているようだった。握った拳がわなわな震えていた。
「だがこのまま放っておくわけにはゆかぬでござる」
「当たり前だ!」
サンダーは行く手を阻む目の前の濁流を睨みつけた。瞬きもしないやや見開いた目にわずかだが狂気が宿っているようにモディには感じられた。
だが手がかりが無くルムを捜し出すのに何を一番最初にすべきなのかすら浮かばない。崩れそうな空の下、逡巡しながら立ち尽くす。
「あの……」
女性の声が聞こえた。ウィンドチャイムを思わせる優雅な高音。それでいてしっとりとした落ち着きは品の良さを感じさせる。三人はそちらに振り向いた。
そこには思った通り女性が一人立っていて、様子を窺うような心配顔をモディ達に向けている。モディと同年代くらいのその女性は白い膝丈のワンピースに薄手のストールを肩に掛けた『いかにも清楚な女性』像を体現している。目を引くのはその髪色。背中まで伸びた髪は青みがかった銀色をしている。何か困ったような顔をしているというのにその仕草に声と同じ優雅さがある。
「どちら様かな?」
「申し訳ございません、あのイルカは私のペットなのです。少々いたずらが過ぎる子で困っているところだったのです。ご迷惑をおかけしているようでごめんなさい」
「ごめんなさいで済むか!」
「ちょっとサンダー!」
彼女に向かって怒鳴りつけるサンダーをモディが制した。すぐにでも食ってかかりそうなその勢いに慌てて間に割って入る。
女性は本当に申し訳なさそうに目を伏せる。俯くと彼女の柔らかい銀髪がさらりと流れ顔を隠す。
「そこでお詫びと言ってはなんですが、私ならあの子の行くところがわかります。そこまで案内役を務めさせていただいてもよろしいでしょうか?」
俯きながらも凛とした声ではっきり告げた。
「それは……まことか?」
「はい」
「悪いけど嘘に付き合ってる暇はないから。アンタのそれが嘘だとわかったら時間を浪費した分だけの鉄槌は下すわよ」
「嘘はありません! 私もあの子のいたずらには心を痛めております」
女性は声を張り上げた。胸に当てた手は震えている。
「うーん……わかったわ。よろしく頼むわよ!」
「はい!」
だが突然サンダーが彼女の襟首に掴みかかり乱暴に引き寄せた。
「早くあいつの居場所を教えろ!」
息のかかりそうな至近距離で彼女を恫喝した。その様子に驚きモディとリンドウが二人を引き離し間に入る。
「落ち着けサンダー殿! 心配なのはわかるが、らしくないでござる」
リンドウがサンダーを一喝したが、サンダーはまだ腹の虫が治まらないのか歯を食いしばって睨みつけている。それを無視してリンドウは女性に頭を下げた。
「すまぬ。この者の狼藉、今はご容赦願いたい。今は何より連れの者の無事を優先したい」
「いえ、こちらこそ言い訳をしてしまって」
女性はこちらを気遣うような弱々しい笑みを見せた。
──この女、なかなか肝が据わってるじゃない。
モディは感心した。サンダーのような大男に恫喝されたら身の危険を感じることは間違いないが、彼女は取り乱す様子を一切見せず穏やかに受け流した。リンドウは不機嫌そうにサンダーと女性の方を見ている。か弱い女性を脅したサンダーを軽蔑しているのだろう。彼には「弱きを助けて強きを挫く」という部分がある。
イルカの飼い主の女性は『アキ』と名乗った。疑ってみたものの彼女の申し出は渡しに舟だった。他に手段はないのだ。ルムを攫った犯人は地上を進んでいるならまだしも空を飛んでいってしまった。いくら五感の発達した怪物でも足跡も匂いも残していないものを追うのは至難の業だ。おまけにルム自身は通信用念導器を持っておらず連絡手段がない。
彼女は「あちらです」と指を差した。その先は川下だ。リンドウは首を傾げる。
「海獣は河を渡ったのではござらんのか?」
「河を渡ったように見せかけたのでしょう。ですがこちら側の岸にまだいるはずです」
「どうしてそう思うのさ?」
「この川の下流には、あの子が普段潜んでいるお気に入りの隠れ家があるんです。行くのならそこです」
「なるほどねぇ……」
モディは後ろ頭を掻いた。しかしすぐさま怪訝そうな顔をアキに向ける。
「あのイルカはいったい何なの?」
「あの子はとても変わったイルカです。イルカなのに水が嫌いで陸に出てしまったのです。ただ女の子が大好きで、可愛い子を見つけるとあのような行動に出てしまう困ったところがあります」
「海から上がるだけでもおかしいのに、空を飛ぶなんて変わってるどころの話じゃないわよ」




