ボクと山脈の【砦】2
だが。
足の裏に柔らかな感触を感じた。
目を開けてみると先ほどと変わりのない草原に自分の足で立っていた。体には獣の尾が未だ巻き付いている。勿論その先は【有翼】の右肩に続いている。手を伸ばせば届きそうな距離に奴はいる。
しかしすぐに拘束は解かれた。ルムはその場にぺたんと尻餅をつき、驚いて目の前の【有翼】を見上げた。【有翼】は相変わらず冷めた目をして、静かに言葉を紡いだ。
「よく言ったな。それならば正々堂々勝負し、葬ってやる……!」
その語尾に隠しきれない情熱が迸る。
冷めた表情の中に、何か滾るような熱いものがある。
ルムは本能的に彼の本質を見抜いた。
***
怪物は唸り声を伴った荒い呼吸をしている。体にはもはや数え切れないほどの切り傷があり、そこから滲み出た血が怪物の上半身に赤の薄いヴェールを被せたように満遍なく濡らしている。
「降参? あのトンネルを通って帰るんなら見逃すよ。そうじゃないと、傷が塞がる前にもっと俺が切りつけるよ。いくら怪物でもさ、血を流し過ぎたら死んじゃうんじゃないの?」
確かに【獣脚】の言う通りである。血の流れと共に自分の集中と体力が削られている自覚はあった。怪物の体は傷の治りが早い。皮膚を裂く程度の傷ならば少し大人しくしていれば塞がりそうだ。
サンダーは【獣脚】が佇む方とは逆方向へ駆け出した。ほんの少しだけでいい、休む間があれば傷は治せると考え戦線離脱を目論んだ。そしてすぐにルムの元へ駆けつけよう……そう思った。
「無理だって言ってるじゃん」
背を向けたはずの【獣脚】が再び目の前に現れた。ナイフを逆手に持っていた。切りつけるのではない。突き立てるつもりか、とすぐに気付いた。サンダーは後ろに体を僅かに倒す。ナイフの先端が体に縦に切り込みを入れる。表面の皮膚を持って行く感覚がした。幸いなのは刺さらなかったことだけ。サンダーはその場に膝を突いた。体の前面に熱を帯び、地面に赤い液体がボタボタと垂れ落ちる。
一時離脱をするという目論見は砕かれた。怪物のスピードよりも【獣脚】のそれの方が上回る。どれだけ全力で駆けても奴は追いついてくる。傷を塞ぐまでの僅かな時間さえも与えられない。
【獣脚】は獣らしく舌なめずりして、せせら笑う。
「逃げたら見逃すとは言ったけど、女のコを置いて自分だけ逃げるの? 見上げた根性だね。君が戦線離脱したらさ、俺と彼の二人掛かりで彼女を仕留めるよ」
おぞましいことを笑いながら言う【獣脚】の狂気を目の当たりにした。
──この人でなしが……!
サンダーの憤りは怪物の唸り声となって表れた。
だが【獣脚】はその恐ろしい声にものともせずヘラヘラと笑っている。サンダーは再び立ち上がった。動く度に体の切り込みから血が流れ出す。
拳を振った。
しかしすぐに【獣脚】は姿を消し、拳は空回る。すでに五メートル以上離れた草原の上でステップを踏んでいる。まるで瞬間移動だ。
こいつは危険だ。ルムの元に行くのは、こいつをどうにかしてからでないと……。ルムは無事だろうか?
『それでも貴方には死んでほしくない』
『呪いを解いて、二人で無事に戻ろう』
あのとき交わした会話、言葉を反芻する。
俺が死んだら、あの子は悲しむだろうか。それならば死ねないな!──サンダーは「生き延びる方法」を考えた。それが何よりも自分とルムを近付ける手段だからだ。
『グァガアアアアアアァァァァァッ!』
怪物が咆哮をあげた。それは空気を揺らし草原に轟く。【獣脚】は一瞬驚いた顔をした後に、すぐにほくそ笑んだ。
「すごい殺気。やる気じゃん! ま、やる気を出したところで俺のスピードについてこれるようになる訳じゃないけどね」
そうだな。ついていける訳じゃない。……本当か?──サンダーの胸の内に、何か引っかかるものがあった。
──俺は本当に、あの【獣脚】のスピードに追いついていないのか?
自意識過剰なんかではない。未だ根拠は掴みかねているが、奴のスピードに「追いついていない」とも思えない。
だが走れば負ける。走る速度は奴の方が確実に上回っている。では一体何が「自分は奴に追いつけている」と自分に思わせるのか?サンダーは勝機はそこにあると感じた。
次の瞬間、遠くで土埃が舞い、「瞬間移動」よろしく目と鼻の先に【獣脚】が現れた。そして奴はナイフを高く翳した。
──そうか!
サンダーはその根拠をついに掴み取った。
***
【有翼】は地に足を着けたまま左右の翼をリズミカルに振る。その度に巻き起こる旋風はルムの小さく華奢な体を右に左に翻弄する。【有翼】の起こす向かい風にルムは為す術なく後退していく。草原を抜け、木の生い茂る山に再び踏み込み、藪に足を取られる。
「うぐっ」
強風に煽られ、その動きに順応できずに足がもつれた。体勢が崩れ地面に投げ出される。それを見るや否や【有翼】は猛然と駆け出し、ルムに迫る。まるで野でネズミを見つけた猛禽類のようだった。【有翼】は左足で地を蹴り、右足をルムに向けた。
──踏み潰される!
瞬間的にそう感じた。ルムは咄嗟に体を起こして背を向け、できるだけ身を縮めて頭部を守る。背にまともに【有翼】の蹴りが入った。
「がはぁ! あっ……あぁ……」
地面を倒され、痛みにのたうち回る。背が砕けたのではないかと疑うほどに。同時に首に痛みが走る。何か硬いものが当たったようだ。
「う、うぅ……」
呻きながら振り返る。何か人頭大の灰色のものがそこに置いてあるのが、ぼやけながらも見える。視界をぼやけさせているのは自分の瞳を覆う涙だった。体を支える腕が震えている。
「お前も直にあの中に加わることになる」
【有翼】は相変わらず静かに言った。その視線はルムを越えてその背後を見ている。ルムは顔だけ後ろに向け、【有翼】の見ているものと同じものを見た。
そこには藪に囲まれた原っぱがあり、土が掘り返されたような跡が見えた。その数の多さも尋常ではない。ぱっと見ただけではいくつあるか全くわからない。それほどに膨大な数の土の塊があった。その土の塊のてっぺんには、あたかも「墓標」のように石が添えてあったり木の棒が立ててあったりした。
見渡す限りの墓標は、前日に行く手を阻んだゴブリン達のように視界を埋め尽くす。墓標とゴブリン、その数が一致しているかのように見えた。頭の片隅で、やはり彼らはここで死んでいった者なのかと納得した。そして自分も死ねばあの中に埋められ、魂は洞窟に縛られ続ける。そう思うとゾッとした。
地面に横たえた体を起こそうにも、震えた腕は上半身を支えるのがやっとだった。上手く息が吸えていないことにも今更ながら気が付いた。このままでは一矢報いることなく殺されてしまう──。
だが思いとは裏腹に【有翼】はなかなかルムの元に辿り着かない。顔を上げて見てみると、【有翼】の視線は山の麓の草原に向いていた。
***
ナイフの軌道から体を完全に外した。【獣脚】のナイフはサンダーに触れることなく空を薙ぐ。【獣脚】は惜しそうな表情をしている。
【獣脚】は確かに速い。
遠くにいたのに突然目の前に現れる。怪物の眼でも奴の走る姿を捉えることは不可能だ。わかっていても接近を許してしまう。
だが「目の前に現れる」のだ。突然目の前に現れ、攻撃のモーションに入っているのが見える。ナイフを高く掲げる、逆手に持っている、振り翳す。これらは全てこの戦闘の中で見えてきた。【獣脚】の攻撃の構えは「見える」のだ。
つまりどういうことか。
【獣脚】は攻撃時に必ず「止まる」。そして【獣脚】の攻撃のスピードは「それほど速くない」ということだ。怪物の眼で捉えられるほどには、だ。足の速さに翻弄され、本質が見えていなかった。もしかしたら「上半身は脚のスピードに追いついていない」ということに。
──冷静に考えればすぐにわかったはずなのに……!
しかしそれさえわかれば対処はできる。「見ることが可能」の速度なら、自分が先回りをできるかもしれない。
サンダーは大きく三回飛び退いた。これで【獣脚】とは今まで以上に距離を開けた。【獣脚】の表情に余裕が見えるあたり、サンダーが彼の「欠点」を見抜いたことに気付いていないのかもしれない。
──おそらく奴は俺が及び腰になっていると思っていることだろう。それなら次も同じように攻撃をしてくるはずだ……。
そして再び【獣脚】が姿を消した。今までなら警戒して避ける準備か、防御するために身を固くしていた。
だが、敢えてサンダーは腕を伸ばして体をやや捻る。完全に無防備な姿勢だ。
【獣脚】が姿を現した。今までと同じように目の前に姿を晒す。同時にサンダーは捻りを利用し腕を思い切り振った。太い頑強な腕が【獣脚】の横頭に直撃した。
「が……っ!」
【獣脚】は喉から呻き声を出し、そのまま横方向へ吹っ飛ぶ。何メートルも先の地面に叩きつけられ、二、三度ほど回転してからようやく止まった。
──そうか、走っている間は俺が構えたのも見えていないのか……。視力が自分の走るスピードに追いついていないと考えても良さそうだな!
【獣脚】は地面に手をつくと思い切り突き放し、ぴょこんと跳ね起きた。サンダーの方を振り向いたその顔は驚きを隠せないといった、呆然とした感情を含んでいた。
「初めて当てたね。すごいや。この二百年ちょっと、ここまで強く反撃できたの君だけだよ!」
【獣脚】は笑いながら言った。
しかしサンダーにはそれが強がりにも聞こえた。
また【獣脚】は走り出しサンダーに瞬間移動のごとく迫る。
だがどうしても攻撃時に止まり、そこで攻撃の姿勢に入る。
『ガァァッ!』
今度は腕でなく、拳を【獣脚】の顔面に入れた。一度目の攻撃がまぐれ当たりだと思って同じ手で攻めてきた相手を見切ることなど容易かった。【獣脚】は大きく体勢を崩したが右足で踏みとどまった。すかさず【獣脚】の顔に二発目の拳を入れようとした。
だがふっと奴は視界から姿を消した。離れた位置からこちらを見ている奴の口の端からは血が一筋流れ出ている。その表情に、ようやく焦りが見え始めた。
【獣脚】はサンダーの様子を警戒するように右に左に揺れ動く。まさに獲物を狙い、隙を窺う獣そのものだ。サンダーも奴を見逃すまいとずっと目で追う。【獣脚】が姿を消した。今度はすぐに現れない。
だがサンダーは落ち着いていた。走る姿は見えなくても、方向は足音が聞こえるのでわかっていた。自分の周りを走り回り攪乱しようとしていることくらいはお見通しだ。おまけにあちらからは自分の姿がきちんと見えていないはずだ。奴は自分の足の速さに、動体視力が追いついていない。
【獣脚】が姿を現したのは、サンダーの右隣にだった。サンダーは裏拳で大きく右腕を振る。腕に痛みが走った。奴の持つナイフの先に腕が引っかかっている。
しかし怯んでいる隙はない。鱗をかき分け肉を裂きながら腕を振り抜く。拳がまともに奴の頭部を捉えた感触がした。
「あぐぁっ!」
叫びながら【獣脚】は後方へ吹き飛び、仰向けに倒れる。
飛び散る赤い飛沫は自分の腕のものか、奴の顔のものか最早わからなかった。
「君、強いね? 仕留めておかないとテラのところまで行っちゃいそうだな……」
顔面を血まみれに、体を草と泥まみれにしながら【獣脚】は言った。その声は先程のような余裕などなかった。
サンダーも呻り声と荒い息を同時に喉から出しながら【獣脚】を睨んだ。
***
サンダーの攻撃が【獣脚】に当たり始め、互角の勝負に持っていけるようになった。次第に【獣脚】の顔に焦りの色が浮かんできていることにも気が付いた。
だが決定打がない。動きを見切ったとはいえ殴りつけるのが精一杯だ。そして【獣脚】は攻撃を食らった後は必ず素早く退くため、二発目つまりラッシュが繰り出せずダメージを蓄積させられない。【獣脚】がまた視界から消えた。そのあとを草が舞う。
サンダーが腕を振ると【獣脚】の延髄あたりに肘が入り、奴はよろめきながらもサンダーの射程範囲から飛び退く。その隙に、サンダーは【獣脚】が駆け出した位置を見た。そこは掘り返したように草が禿げ土が剥き出しになっている。そして【獣脚】の爪先は土まみれになっていた。
──これは……『あそこ』が使えるかもしれない。
それを実現するためには奴を十分追い詰めておく必要があった。サンダーは草原を駆け抜け、山へと踏み込んだ。大きな体で藪を踏みつぶし、木を薙ぎ倒しながら斜面を突進する。
「行かせるかっ!」
怒りの感情を露わにした【獣脚】の声が背後から聞こえた。かと思うと奴は自分の前に現れ行く手を阻んだ。奴の走る速度は自分よりもずっと上だ。先回りされることは想定済みだった。【獣脚】の振ったナイフはサンダーの胸を横一直線に薙いだ。
『ギャウゥッ!』
木々の間を甲高い獣の声がこだまする。
「ここまで突破できる力があるんだ。それなら放っておけない。必ず息の根を止めてやる!」
今まで見せてこなかった殺気を【獣脚】が出している。血まみれで腫れた顔をしているのに憎々しげに睨みつけ、ナイフを握る手に力が入っている。サンダーはじりじりと後退する。奴は本気で憤り、自分を殺さんとしていることを察した。
サンダーは踵を返して斜面を駆け下りた。背後から自分を追いかける気配がする。今は反撃もせず、ひたすら走ろう。
──背を向けて逃げる相手を追うとは……。
再び【獣脚】はサンダーの進路に姿を現し、行く手を阻んだ。
『ガァァァッ!』
サンダーは止まることなくそのまま突っ込む。
「なっ……!」
サンダーは肩から【獣脚】に体当たりをした。奴の構えていたナイフが左の鎖骨の下に刺さる。鋭い痛みがあったがお構いなしに【獣脚】を巻き込んで斜面を転がり落ちた。
転げ落ちながら再び麓の草原に戻ってくると、サンダーは刺さったままのナイフを抜き取り地面へ投げ捨てた。傷口からは鮮血が流れ出る。
「くそ……っ」
離れた場所で【獣脚】がよろよろと立ち上がるのが見えた。サンダーは警戒しながら後退する。【獣脚】と目が合うと、奴の表情に憎悪と憤怒が戻る。奴は素早く駆け出しサンダーが投げ捨てたナイフを拾って、サンダーをもう一度見た。サンダーは慌てて洞窟へと駆け込む。
二つの塊が猛スピードで洞窟の中を駆けていく。
──この速度なら、どの程度洞窟を進んだのか把握できないはずだ! ましてや頭に血が上った状態ならな!
流れ出た血は下半身の着衣を赤く染め上げている。深く刺さったナイフの傷も走る度に痛みが伴う。
ナイフを捨てた理由。
それは武器がなくなることで【獣脚】の戦意喪失を避けたかった。だからナイフを抜き取り捨てるフリをして「【獣脚】にナイフを返却」した。
理由は単純。『奴には俺を追って洞窟内に入ってもらわなくては困る』からだ。




