ボクと山脈の【砦】3
【獣脚】は怪物の背をずっと追っていた。
──何なんだ。今までよりもずっと速いスピードで走っている。だけどアイツはここで葬らないと【魔女】の元に辿り着いてしまう。それだけの潜在能力がアイツにはある!
前を走っていた怪物は薄明るい光の中に姿を消した。罠らしい音も待ち伏せしている人の気配もない。【獣脚】は警戒しつつも走るスピードを緩め暗く照らす光の中に飛び込んだ。脚の爪がカチンと音を立てた。
「何?」
離れたところに怪物ではなく、金髪の大男が立っている。
──こいつは……あの怪物の正体か……。
人の姿に戻っている。ここで仕留めなければ。そう思い脚に力を入れた。
──こいつ、まさかこれが狙いか!
大男はゆっくりと歩き【獣脚】との距離を詰める。
***
サンダーはふと足元を見た。そこには逆さまに自分が映っている。
──かかってくれたか……。
まずは安堵した。裸足に冷たく滑らかな心地を感じる。
ここは一晩寝泊まりした「鏡の間」だった。昨日辿り着いたときに怪物の姿を初めてまともに見た場所だ。怪物の姿で鏡を覗いたときに、爪が壁に引っかからなかったことを思い出した。
そしてあの【獣脚】は走り出すときに思い切り足下の土を蹴飛ばしていた。脚の爪をスパイクのようにしてしっかりと地面に引っ掛けることで、あのスピードで走ることが可能だったのだ。逆に言えば「引っ掛けられなければあのスピードで走ることはできない」ということだ。
獣の爪は、鏡には引っ掛からない。
鏡の上で【獣脚】はあの速さで走ることはできない。
狙いはそこにあった。
しかしフリッツから【砦】は深追いしないと聞いていた。自分が洞窟に入っただけでは追いかけてきてくれない。それならば相手に自分を「どうしても始末しなければいけない理由」を与えなければいけなかった。それにもっとも効果的なのは「この侵入者は【魔女】の元に行くだけの力がある」と思わせることだと考えた。
──全てがほとんど賭だったがな。そしてその代償も大きいが……。
鎖骨の傷がドクドクと痛む。
「……どうしてお前達は侵入者を排除する? 【魔女】を守ろうとする?」
サンダーはこの奥に控えているゴブリン達……フリッツの友人達のことを想った。なぜ彼らはあのような目に遭わなければいけなかったのか。
【獣脚】は猫のように警戒心を剥き出しにしている。
「この山の【魔女】は俺達の命の恩人だからさ、何の罪もない恩人の命を狙うような奴は遠ざけたいでしょ。相手を倒すつもりできたのなら、自分も倒される覚悟をしなきゃ。彼らは武器を持ってきた。俺達を倒すつもりで来た。それならば俺達も相応の覚悟をするよ」
「【魔女】が何の罪もない? 人を呪っておいて、人生を狂わせておいて、何が『罪がない』だ? ふざけるな」
「ふざけてるのはそっちだよ。この山の【魔女】は無実だ」
【獣脚】の口から意味深長な言葉が紡がれた。
──魔女が『無実』だと?
俄に信じがたい。
だがそれを言った【獣脚】の声色と表情は真剣そのものだ。本気で【魔女】の無実を訴える目をしている。
では自分達に呪いをかけたのは誰なんだ? 【魔女】しかいないだろう?
──真実は、【魔女】から聞くしかない!
サンダーは人の姿のまま駆け出した。【獣脚】は背を向け「鏡の間」から脱出を図った。
二つの獣の咆哮が「鏡の間」に響く。
***
【有翼】の視線は草原に向けられたままだった。ルムはその間に何とか立ち上がり、近くの木に手をつく。
【有翼】は翼をはためかせた。彼の脚が地面から離れる。飛行できる態勢になるや否や、木々の合間を縫って麓へ向かい斜面に沿い滑空する。ルムも『念導銃』ごと体を抱えるようにして草原へとよろよろと向かう。
だが草原にサンダーも【獣脚】もいない。
「アイト!」
【有翼】の絶叫にも近い呼びかけが耳に届いた。彼が向かったのはあの洞窟の入り口だ。あの奥にサンダー達がいるのだろうか。ルムは咄嗟に銃を構える。直感がした。「これが最初で最後の大チャンス」だと。
──今叫んだのは【獣脚】の名前だろうか?
そんなことが頭に浮かぶ。あれほど必死に呼ぶというのは、【獣脚】が負けたのだろうか?
仲間を助けたいのだろう。
【魔女】を命懸けで侵入者から守りたいのだろう。
本当は正々堂々と勝負したいのだろう。
自らが葬った侵入者の墓を建て、弔いたいのだろう。
ルムは心のどこかで感じていたものが今、はっきりとわかった。
「ああ、彼らは何て人間じみているのだろう」
思わず口から言葉がこぼれる。彼らの使い魔らしからぬ性質に、ようやく気付いた。
洞窟に飛び込んだ【有翼】めがけて、引き金を引いた。黒い弾丸が彼に雨霰のように降り注ぐ。
***
洞窟の入り口は空よりも遙かに狭い。それは較べるべくもない。そこに入っていくことがわかれば狙うのは容易かった。
ルムは体が千切れそうな痛みを抱えながら気迫だけで足を動かす。草原を横切り、『念導銃』を構えつつ洞窟へ踏み込んだ。入り口のすぐそばに彼はいた。うつ伏せのまま血の海で横たわっている。わずかに瞼が痙攣し、口元が動いている。まだ生きていた。ルムは【有翼】のこめかみに銃口を向ける。
だが、すぐに銃を下ろした。
「……同情か?」
【有翼】の微かな声を聞き取り、ルムは少し悩んだ。
「そうだと思います」
「何故だ? 俺達を倒し、【魔女】に会うのだろう? ならば何故止めを刺さない」
「……貴方達は人間離れした容貌や能力を持ちながら、すごく人間くさいです。ボクには貴方達が完全な悪とは思えないんです。仲間の危機に駆けつけようとしたり、自らが殺したはずの侵入者の墓を建てたり。使い魔というよりはボク達人間に近い」
【有翼】は黙っている。言いたいことはないのか、話すつもりはないのか、それとも喋る体力が残っていないのか。いずれにしても声を発することはない。ルムは続けて話した。
「ボクが貴方を人間と見るなら、ボクは貴方に止めを刺すことはできない。ボクはある人に『人間を手に掛けないでほしい』と望まれています。それを反古にするつもりは……ボクにはありません」
ルムには彼に止めを刺すことはできなかった。痛めつけられてきた恐怖と怒りはあるが、与奪自在は今や自分の手の内にある。怒りに委せて彼を殺す? 答えは否だった。人は手に掛けない、それがサンダーとの約束だからだ。
だがそれ以上に、人の姿を失ってもなお仲間を想う姿が、初めて会ったときの怪物と重なった。そしてその怪物は、自分の今一番愛しい人となった。
使い魔達は自分たちが見ていないところで多くの命を奪ってきた。罪深き憎むべき存在のはずなのに、たったそれだけのことで彼に最後の一撃を叩き込むことに躊躇っている。
【有翼】は横目で一度だけルムを見た。
そして疲れて眠るように、ゆっくりと目を閉じた。
***
町外れの空き地は柵が立てられ、外から入れないようになっているが見えるようにはなっている。柵の向こうには人が集まり、ざわめいている。
──まるで見世物だな。
空き地の中央に膝をつく男は思った。口には猿轡、両手首は背で縛られている。彼の目の前でそれなりの身なりをした男が紙を両手で持ち、一つ咳払いをした。
「えー、婦女子を暴行しようとした罪、及びそれを止めようとした者へ暴力を振るった罪によりこの罪人を処刑が確定した」
判決は一方的なものだった。とんでもない私刑が罷り通っているものだな、と呆れを通り越して感心した。罪人とされた男は静かに正面を見据える。
結論から言うと彼は無実だ。むしろ彼は偶然にもその現場に遭遇し、被害者の女性を助けるとともに真犯人を知ったのだ。それが運の尽きだった。真犯人はこの町の領主の放蕩息子だった。
真犯人の両親と、権力に媚びる役人達がその事実を揉み消すため、ただの通りすがりの正義感の強い男に全てを擦り付け口封じを図ろうとした。被害者の女性が貧しいことに目を付けた役人達は、彼女に黙っているよう既に買収したとか。
「刑に処する!」
罪状を読み上げた男、身なりからして役人は高らかに宣言した。その後ろに控えていた二人の男達がククリ刀のような剣を携えて罪人の男のもとへ駆けつけ、彼を挟み込むように両脇に立った。
ここまでか。罪人の男は思った。
「お待ち下さい! その人は私を襲った犯人ではございません!」
柵の外の野次馬の中から、明瞭な大声がした。着古した麻のチュニックを纏った女性が野次馬をかき分け、最前列に立った。彼女の身なりは貧しいが、美しく整った顔立ちをしている。
「私を襲ったのは領主のバカ息子です。その方は私を助けて下さった勇敢な方です」
彼女の言葉に周囲がざわめく。彼女の瞳に迷いはなく、まっすぐに何かを見つめている。
さらに彼女は手に持っていた袋を逆さまにし、中身を地面にこぼした。石畳の地面に落ちるとそれは鋭い音を奏でる。
「役人達はこんなもので、真実を封殺しようとしました。しかし私はそんなものに屈したりはしない。ここに真実を告げます!」
彼女の足下にこぼれたもの、それは大量の金貨だった。「あのバカ息子、やらかしたな」や「ああ、やっぱり領主様、役人は腐っている」という声が周囲から聞こえ始めた。役人の男の顔はみるみる真っ赤になっていく。
「嘘吐きは切り捨てよ!」
剣を持った処刑人の一人が慌てて柵に駆けつけ、その隙間から最前列に立つ彼女の胸に剣を突き立てた。野次馬から悲鳴が上がる。彼女は地面に崩れ落ちた。
「この外道が!」
「うるせぇ! てめぇも切られたいのか!」
野次馬からその横暴を咎める声が上がる。
罪人の男は縛られた後ろ手に力を入れた。縄がブツブツと音を立て引き千切れていく。
──こいつら、許さん。
立ち上がり、役人の男に迫る。悪いのはこいつだけではない。その背後にあるもの全てが腐っているのは理解していた。
しかし彼女の命を奪うよう指示したのはこいつだ。非力な者を権力と暴力で黙らすことを、果てには命を奪うことを見過ごすなど男にはできなかった。それだけは許すまいと男は右手に拳を握り解放された腕を思い切り振る。
だが、拳は役人の男には届かなかった。大きく振りかぶった右の腕が、男の体から消失していた。
ドサッと音を立て右腕が地面に落ちた。背後には、もう一人の処刑人が刀を振り下ろしたままの態勢で立っていた。右肩の付け根から、栓の壊れた水道のように血が噴き出す。
男は一瞬で自分の命はこれまでだろうと悟った。それならせめて一撃と、残った左腕で殴りかかる。
しかし左腕も肩から同じように切り落とされた。男はその場にうつ伏せに倒れた。もはや起きあがることなどできない。
「これだから野蛮人は」
役人の馬鹿にしたような声が耳に届く。男は倒れたまま、霞んだ目で柵の外を見た。自分がかつて助けた女性はもう動かなかった。彼女は力に屈することなく、正しいと信じるものを命を懸けて訴えた。
──自分が助けようとしたのが、心が強く美しい人でよかった。
結果として死なせてしまったが、清く正しいものに味方したという自分の行動に誤りはなかった。そう確信すると、意識が薄らいでいった。
覚めることはないと思っていたが、不思議なことに目が覚めた。
なくなっていたはずの肩から先の感覚がある。ただしそれは以前のものとは違った。目に入ったもの、それは大きな鳥の翼だった。翼は自分の肩に続いている。即ち翼が自分の肩から生えていた。
すぐ傍に人が立っていることに気が付く。そいつは自分を見るなり「哀れな奴だ」と呟いた。
***
ああそうか、この女の瞳は彼女を思い出させたのか。
そんなことで情けをかけるとは迂闊だった。
***
ルムは【有翼】の傍に膝をついて座り込みながら、うつ伏せのまま動かない彼の背や羽を撫でた。まだ温かさが残っている。まだ死んでいないことに安心する。使い魔だけに強くできているのだろうか、などと思った。
どれくらい時間が経っただろうか。洞窟の奥から足音が響く。そちらを向くと、金髪の大男が右手で何か大きなものを引き擦りながら歩いてくる。
「サンダー!」
ルムは彼の名を呼んだ。体力は少し回復したものの、負った傷が治ったわけではない。まだ痛む体を気持ちで支えルムは立ち上がった。サンダーは少し歩を速め急ぐようにルムに近付くと、右手のそれを手放し両腕で彼女を抱き締めた。
「いったああぁ!」
サンダーが抱き締めるために添えた手は【有翼】に蹴られたところをまともにとらえていた。走る激痛に耐えきれずルムは叫び、その場にしゃがみ込んだ。サンダーも驚き、すぐに手を離す。
「すまない!」
「このアホ!」
痛みのあまり暴言を吐く。
しかし次の瞬間には再び立ち上がり、サンダーの胸に寄りかかった。
「無事で良かった!」
「ルムもよく頑張った」
サンダーはそっとルムの背に手を回し優しく腰を支え、彼女の額にキスした。
ルムは地面に横たわる、もう一人の【獣脚】の使い魔を見た。
「死んだんですか?」
「いや、死んではいないはずだ。……どういう訳か止めが刺せなかった。躊躇ってしまった」
「ボクもです」
そう言ってルムは倒れている【有翼】に目を遣った。ルムはサンダーに止めを刺さない理由は問わなかった。何となくわかるような気がした。おそらく自分と同じ気持ちだったのだろう。
「フリッツさんとの約束、果たせないですね」
ルムは苦笑いした。サンダーも「仕方ない」と言って微笑んだ。
持ってきたナップザックは洞窟の出口の近くに放り出されたままだった。二人はそれぞれ自分のから傷薬や包帯を取り出し、お互いの傷の手当をし合った。
「ルムの美しい陶器のような肌に傷を残すとは許し難い」
「うるさい……ひゃあ」
サンダーはおそらく酷い内出血をしているであろうルムの背に唇を当てた。慌ててルムは彼から離れブラウスを着直した。
「か……彼らにも手当をしましょう」
「そうだな」
ルムは余った包帯や薬を手に【有翼】に近付いた。サンダーもまた同じように【獣脚】に治療を施そうと近付いた。
その瞬間、胸にとてつもない不安が芽生えた。
例えば大自然の中に置き去りにされたような、道もわからぬ山の中で夜を迎えるような恐怖。偉大なる存在を前に人間という存在の矮小さを思い知り身動きができなくなる。まさにそんな感じだ。
『それ』は、すぐそこにまで迫っている。
確かな気配を感じているのに、振り返ることができない。心臓も胃も、手で握り締められるように苦しい。全身の体温が急激に下がる。
「ルム……」
サンダーも小さな声で囁き、にじり寄るようにルムの傍へ来た。そして彼女の地面についた手に彼は自分の手を重ね、しっかりと握った。
だがサンダーの目線は、ルムの背後の『偉大なる存在』がいるであろう方向に釘付けになっている。ルムも少しずつ首を捻り、背後の『それ』を見た。
──誰なんだ?
そこに立っていたのは、柿渋色の丈の長いローブを纏った中年の男だった。
細身で高身長のその男は顔を不機嫌そうに歪め、しゃがみ込む二人を見下ろしていた。
気配を感じていたが、人間のそれではない。どちらかと言えば洞窟を抜けて初めて見たときの山脈の自然の壮大さに近い。
ただ、いつ、どこから彼がやって来たのか皆目見当がつかない。
幻かと思った。
だが彼の纏うローブは風に裾が靡き、足下には影を落としている。幻なんかではなく実体があることは明白だった。
男はローブから右手を出すと、自分の肩の高さまで上げた。そしてパチンと指を一回鳴らした。一瞬だけ周囲にある全てが歪んだかと思えば砂嵐に巻かれたように見えた。
そしてその次の瞬間には、あの大自然が眼下に広がっていた。




