第52話 トパーズの眼差しと、カモミールの香り
帝国へと続く街道を行く、揺れる馬車の中には、あの血塗られた惨劇が嘘だったような、静かでどこか甘やかな澱みが満ちていた。
ヴェルスは静まり返った車内で、漆黒の瞳を細めながら、目の前に座る二人の少女へと視線を向ける。
「――アクアローザ伯爵家に仕えております、ミリアと申します。 よろしくお願いいたします」
緋色の長い髪を揺らし、深々と一礼したのは、先ほど馬車に迎え入れたミリアだった。 その佇まいにはどこか妖艶な色香すら漂っていた。
隣に座るロサミィは、少し緊張した面持ちで可愛らしく頭を下げた。
「ヴェルス様の専属侍女のロサミィです。こちらこそ、よろしくお願いします」
ロサミィが穏やかに応じると、ミリアは黄玉の瞳を怪しく輝かせ、ロサミィをじっと見つめた。
(なんて可愛らしくて、清らかな子……。 それに、すごく優しそう……)
そんな少女たちの様子を眺めていたヴェルスは、優雅に唇の端を持ち上げ、クスリと笑った。
「ところで――あの夜、盗賊どもを随分と威勢よく殺しまくっていたようだが……どうやらもうすっかり落ち着いたみたいだな、ミリア」
ヴェルスから声をかけられたミリアは、ふっとあでやかに微笑み、少しだけ頬を染めて静かに頷いた。
「はい、恥ずかしいところをヴェルス様に見られてしまいましたね……。 ですが、あのようなゴミどもに私たちの尊厳を踏みにじられたのです、相応の罰を与えねばなりませんわ。 むしろ、心地よい憂さ晴らしになりました」
ミリアは小さく唇を綻ばせると、手際よく立ち上がり、茶器の準備を始めようとしたロサミィの傍らへスッと滑り寄った。
「ロサミィさん、お茶の準備ですね。 私にもお手伝いさせてください」
「あ……ありがとうございます、ミリアさん。 助かります」
微笑み返すロサミィの隣にぴったりと寄り添った瞬間――ミリアの首筋や髪の隙間から、完熟したざくろとカルダモンが混ざり合う、甘く、それでいてどこか毒を含んだような濃密な香りがふわりと漂ってきた。
その吐息すら届くほどの密着する距離に、ロサミィは胸の奥が焦がされるような、抗えない眩暈を覚える。
そしてポットやカップを並べるロサミィの柔らかな手に、ミリアはそっと自分の手を重ね合わせた。 肌が触れ合った瞬間、彼女の指先が温かな熱を伝え、細い指を逃がさぬようにしっかりと包み込む。
「あら、ロサミィさん……手、すごく冷えていらっしゃる。 あの夜の恐怖が、まだ心の奥から抜けていないのかしら」
「っ……! み、ミリアさん……なんだか、すごく近い、です……っ」
「ふふ、ごめんなさいね」
ミリアはそう言って微笑み、ポットに湯を注いだ。 立ち上る湯気の中に、爽やかな葉の香りが広がっていく。
「ロサミィさん、これは何のお茶ですか?」
ミリアは湯気の向こう側から、黄玉の瞳をロサミィに向けた。
「リラックス効果のあるカモミールとレモンバーベナのハーブティーです」
「……まあ、そうなんですの。 なんだか心が落ち着く香りですね」
手際よく淹れられた琥珀色の液体が、白磁のカップへと注がれていく。 ミリアはそのうちの一客を手に取ると、恭しくヴェルスへと差し出した。
「どうぞ、ヴェルス様。 惨劇の夜を越えたお体に、少しでも安らぎを……」
差し出されたハーブティーから立ち上る湯気を眺めながら、ヴェルスは静かに口元を緩めた。
「ロサミィさんも、どうぞ。 温かいうちに召し上がってくださいね」
「あ、ありがとうございます……ミリアさん」
恐縮しながらカップを受け取るロサミィに、ミリアは穏やかな笑みを向ける。 さらに、旅装の鞄から小ぶりで上品な包みを取り出した。
「それと……よければ、こちらもお召し上がりください。 お茶うけに、私が持参した無花果と赤ワインのガレットなんです」
ミリアはそう言って微笑み、包装を解いて繊細な焼き菓子をロサミィへと差し出した。
「えっ、わざわざありがとうございます……」
ロサミィは恐縮しながらも、勧められるままにガレットを一口かじる。
「――わあ、美味しい……!」
ぱっと表情を輝かせたロサミィを見て、ミリアは満足そうに目を細めると、残りの菓子をヴェルスの方へと差し向けた。
「ヴェルス様も、いかがですか? ほんの少しだけ、ワインの風味が利いておりますけれど……」
十四歳の少年に向けるには少し意地悪なミリアの問いかけに、ヴェルスはフッと鼻を鳴らし、躊躇いなくその菓子をつまみ上げた。
口へと運び、その大人の味わいを確かめるように、静かにカップを傾ける。
「……それにしても、いい心地だな」
ヴェルスが息を吹きかけ、温かなお茶を一口喉に流しながら、低い声で呟く。
「ありがとうございます、ヴェルス様。 ロサミィさんが淹れてくださったお茶に、少しだけお手伝いさせていただきましたから」
ミリアが柔らかな笑みを向けると、ロサミィは少し頬を染めて照れくさそうにはにかんだ。
そんなロサミィの純真で愛らしい反応を、ミリアは心の底から愛おしそうに、どこか熱を帯びた瞳で見つめる。
その様子を、対面の席からヴェルスは一言も発せず、ただ静かに眺めていた。
深い愛着と無自覚な動揺――そんな人間心理の分かりやすいサンプルを読み解くかのように、昏い眼差で、二人の間に漂う空気の温度を値踏みしている。
ヴェルスは視線を車内から外し、前方の御者台へと通じる小窓を指先で軽く叩いた。
「――ロイドムス、馬車を止めろ。 ここで少し早めの昼食休憩とする」
低い声の指示に、即座に御者台から「御意」と、落ち着いた執事の声が返ってくる。 ほどなくして、揺れていた馬車が緩やかにその動きを止めた。
ヴェルスは手元に残った白磁のカップを見つめたまま、静かに口を開く。
「ミリア、ロイドムスにもそのハーブティーを一杯持っていってやれ。 街道の御者台は冷える」
「かしこまりました。 ヴェルス様のご配慮、御者台の執事殿へすぐにお届けいたしますわ」
ミリアは美しい所作で一礼すると、新しいカップに手際よくお茶を注ぎ始める。
ヴェルスはそんな彼女を一瞥もせず、隣で所在なさげにしているロサミィへと視線を向けた。
「ロサミィ、お前はミリアと共に外へ出て、昼飯の支度をしてこい。 そろそろしゃきっとしろよ。 菓子を食う時だけは一端の口を利くようだが、侍女の仕事は忘れたのか? 護衛の憲兵隊や翡翠騎士団、それに保護した女どもにも炊き出しを回すんだ」
「あ、はいっ。 わかりました、ヴェルス様!」
「あの夜の惨劇で、生き残った女性たちはひどく男を恐れている。 大人の公爵家の騎士やロイドムスが不用意に近づけば、余計な混乱を招くだけだ。 ――支度はすべて、女であるお前たちだけで進めろ」
言葉の端々に冷たい棘を混ぜ、ロサミィの心をわざと揺さぶる。
向けられた好意を理解した上で、あえて冷たく突き放して依存させる――かつて夜の街で女性の心理を掌握してきたヴェルスにとって、惚れている女をコントロールすることなど容易なことだった。
大好きな主からのぐうの音も出ないほどにまっとうな言葉に、ロサミィは胸を深く抉られたような痛みを覚え、ふがいない自分への悔しさからきゅっと唇を噛みしめた。
「はい……。ヴェルス様の仰る通り……彼女たちの心の傷を刺激しないよう、私たちで準備してまいります……」
消え入りそうな、けれど懸命に紡いだロサミィの声には、明らかな傷心の陰が滲んでいた。
「……ではロサミィさん、行きましょうか。 お外の空気を吸えば、きっと気分も晴れますわ」
ミリアはロイドムス分のお茶を手に取ると、ロサミィの細い腰にそっと手を添え、促すようにして馬車の扉を開けた。
乾いた街道の空気が車内へと流れ込んでくる。
馬車から降りた瞬間、ミリアは優しくロサミィの肩を抱き寄せ、柔らかに微笑みかけた。
ヴェルスから容赦のない正論を突きつけられ、ふがいない自分への悔しさに沈んでいたロサミィにとって、ミリアの優しい気づかいと温もりは、蜘蛛の糸のように甘く、救いそのものとして胸に染み渡っていく。
「ミリアさん……。はい、ありがとうございます……っ」
向けられた慈愛に満ちた眼差しに、ロサミィの胸の奥が微かに跳ねる。
ミリアという存在が、ロサミィの心の中へ少しずつ、確実に入り込み始めていた。
それは、ヴェルスへ向いていた彼女の恋心が、ミリアへと塗り替えられていく決定的な瞬間。
――二度と引き返せない甘美な泥濘に、すでに足を踏み入れているのだと、この時のロサミィは知る由もなかった。




