第23話 漆黒の侍女と惨めな姫
重々しい扉で閉ざされた、セルヴィス伯爵家長女クラリスの自室。
閉ざされた厚手のカーテンが日光を一切遮り、かつて華やぎに満ちていた空間は今や見る影もなく、掃除すら投げ出されて埃と雑多なゴミが散乱し、放置された部屋独特の惨めな腐臭すら漂っている。
そこにいたのは、生きている心地もなく心を磨り減らし続けたクラリスの姿だった。
社交界を沸かせた『氷華の演武』――その当時の高貴な面影は、今の彼女には微塵も留められていない。艶のあった黄金色の髪は手入れもされず皮脂と埃でべったりと固まり、深遠な翠玉の瞳は光を完全に失って死人のように濁りきっていた。
「……クラリスお嬢様。お料理をお持ちいたしました」
突然、その静寂を破って声をかけたのは、静かに部屋へ足を踏み入れた侍女――マリアだった。
一分の隙もない滑らかな立ち姿、白磁のように透き通る素肌、そしてその身に纏うのは黒蜘蛛の糸で織り上げられた『影縫いの漆黒のメイドロングドレス』に、雪のように白く、完璧に手入れされたエプロン。
マリアが洗練された手つきでサイドテーブルへ置いたのは、表面に白い油膜が固まりかけた具無しの冷めたスープ。水分の抜けた硬く乾燥したパン。そして幾度も煎じ詰められ、渋みと苦みしか残っていない冷え切った出がらしの紅茶。
放置と悪意が透けて見える惨めな食事であったが、精神が摩耗しきったクラリスは、その惨状に頓着する様子すらない。
マリアは感情の失せた美しい声で、逃げ場のない現実を静かに叩きつける。
「アルヴェディア帝国の重鎮、ガルドヴァイン将軍家への輿入れが正式に決定いたしました」
「…………」
だが、クラリスからは怒りも絶望の叫びも返ってこない。ただ力なく焦点の合わない瞳を揺らし、自らの身に起きた新たな残酷な運命を受け止める気力すら失っているように、かすかな息を吐くだけだった。かつてならば狂乱して拒絶したであろう運命にすら、声すら上げられぬほど彼女の心は死に体と化していた。
自分の意志も尊厳も失い、意識すら朦朧としたまま現実の底に沈んでいるクラリス。マリアはそんな元・女主人を冷酷に見下ろし、淡々と次の言葉を口にした。
「あの方――あの奴隷より、クラリス様へ宛てたお手紙をお預かりしております」
「――ッ……!?」
その言葉が空気を揺らした瞬間、クラリスの全身が痙攣したように跳ねた。
衰弱しきった身からは考えられないほどの必死さで椅子から滑り落ちると、力が入らない膝を冷たい床へ激しく叩きつける。床の埃とゴミを気にする余裕すらなく、もつれる足で床を這い、惨めにあえぎながらもがく。
かつて社交界の頂点にいた伯爵家長女が、今や艶やかに磨き上げられた元侍女の靴元へ這いつくばり、埃と汚れに塗れた指先でマリアのエプロンの裾にすがりついていた。見開いた瞳は血走り、死人そのものだった虚無の顔に、言葉にならない苛烈な熱が浮かび上がる。
だが、乾ききった喉からは、透き通っていたあの気品ある高音は今や見る影もなく、かすれた息混じりの悲鳴しか吐き出せない。
「あ……の……方……ッ……!? い、今……な……にを……っ……ヴ……ェル……スからの……っ……手……紙……っ……!」
マリアは汚らしいものを見るかのように冷ややかに見下ろしながら、胸元から丁寧に折りたたまれた一通の紙片を取り出した。
「……何を仰っているのか分かりかねますが。はい、クラリス様へ宛てたお手紙にございます」
「あ……ああぁっ……! 給え……っ、それを……私に……ッ!」
クラリスは震える両手を必死に伸ばし、縋りつくようにその紙片を受け取ると、涙と汚れで斑になった顔で胸元に強く抱きかかえた。
「ああぁ……ッ、う……うぁ……っ……ヴェルス……っ、ヴェルスぅ……ッ!」
ボロボロと溢れ出す大粒の涙が汚れた絨毯にしみ込み、クラリスは床に突伏したまま、嗚咽とともに手紙を濡らさぬよう必死にかばい続けた。
「それではクラリス様、失礼いたします」
床に這いつくばり、一通の手紙を抱きしめるクラリスに背を向け、マリアは静かに部屋を後にした。




