第17話 表の微笑、裏の倒錯
重々しい扉で閉ざされた、セルヴィス伯爵家長女クラリスの自室。
かつて凛とした静謐さが満ちていたその部屋は今、外部の光をすべて遮るように厚手のカーテンが下ろされ、重苦しい沈黙と絶望の空気に包まれていた。
「……クラリスお嬢様。お料理をお持ちいたしました」
静かに部屋へ足を踏み入れたのは、上質な漆黒のメイドロングドレスに雪のような白のエプロンを纏った侍女――マリアだった。
洗練された無駄のない所作で銀のトレーを掲げ、湯気の立つ器をサイドテーブルへとそっと置く。
ベッドの上では、黄金の髪を乱したクラリスが膝を抱え、虚ろな瞳で床の一点を見つめていた。
あの事件以来、彼女は部屋に引きこもり、まともに食事すら喉を通らない日々が続いていたのだ。
「……いらないわ、マリア。下げてちょうだい」
クラリスの声は掠れ、覇気がなかった。
いつもなら隙のない完璧な令嬢として立ち振る舞う彼女の面影は、どこにもない。
マリアは怒りも呆れも見せず、ただ心から彼女を心配するように、そっとクラリスの傍らへ膝をついた。
「クラリスお嬢様……お心を痛められては、お体に触れますわ。ほんの少し、一口だけでもスープをお口になさってくださいませ。今日はお嬢様の好きな月見草のハーブを少し浮かべておりますの」
「……そんな気分になれないのよ。……ヴェルス……あの子は今、どうしているの……? お父様は……あの子を地下牢でどうするつもりなの……っ」
クラリスは震える手でマリアの腕にしがみついた。
すがるような、悲痛な瞳。
「お父様は冷酷だわ……あの美しい顔を、また傷つけるつもりなのよ……ッ! 私の……私だけの可愛くて愛おしいヴェルス……ッ!」
「クラリスお嬢様……」
マリアは優しく目を細めると、自らの温かい手でクラリスの震える手を包み込み、ゆっくりとなだめるように撫で下ろした。
「どうか、お心を強くお持ちくださいませ。ギルバート当主様もお仕置きとして地下牢へ入れられているだけで、すぐにはお命をお取りしませんわ。……お嬢様がお心を折られてお体調を崩されては、いざという時にあの方をお救いすることもできなくなってしまいます」
「マリア……」
「わたくしは、いつでもクラリスお嬢様のお味方でございます。お召し物のご準備も、お屋敷の雑務も、すべてわたくしにお任せくださいませ。お嬢様はただ、お体を休め、あの方を取り戻すための活力をお蓄えになるのです」
マリアの隙のない完璧な言葉と、添えられた温かい手。
その献身的な優しさに、クラリスの瞳からポロポロと涙がこぼれ落ちた。
「……ありがとう、マリア。本当に……あなただけが私の味方よ……っ」
「勿論でございます、お嬢様。さあ、こちらを一口……」
マリアは匙を手に取り、温かいスープを丁寧にクラリスの口元へと運ぶ。
クラリスは涙を拭い、素直にそれを受け入れた。
完璧なタイミングでの声かけ、絶妙な距離感での慰め、そして隙のない給仕。
セルヴィス伯爵家に仕えるメイドの中でも、マリアの仕事ぶりは間違いなくトップクラスであり、クラリスが全幅の信頼を置くのも当然のことであった。
スープを飲み干し、少し落ち着きを取り戻したクラリスの髪を、マリアは丁寧にブラシで梳かしていく。
「お召し物も、明日には社交界用の新しいドレスが届きますわ。そちらの仕立てもわたくしが責任を持って確認しておきますので、ご安心くださいね」
「ええ……頼むわね、マリア」
マリアの心地よい声と優しいブラッシングに包まれ、極度の精神疲労の中にあったクラリスは、次第に瞼を重くしていった。
ベッドに横たわり、穏やかな寝息を立て始めるクラリス。
マリアは静かに毛布を肩までかけ直すと、一礼してゆっくりと部屋を後にした。
『カチャリ……』
廊下へ出ると、静かに扉を閉めた。
一仕事終えたマリアが配膳ワゴンから手に取ったのは、地下牢へ運ぶための木製の盆。
乗せられているのは、ほんのり温かさの残る固いパンと、小さく刻まれた具材が僅かに漂う薄いスープ。
静寂の立ち込める廊下から、薄暗い地下へと続く石造りの階段へ。
一歩、また一歩と階段を降り、冷たく重い暗闇に足を踏み入れた瞬間に、マリアの口元から熱い吐息が洩れ出し、その瞳は甘く湿った高揚に揺れていった――。




