名前を知られた人
ー名前を知られた人ー
『その銃弾を誰が撃ったのか、もう誰も覚えていない』
<死はすぐそばに>
俺は気づいたら、小さな暗い部屋の中に立っていた。その部屋の全体を照らすための明かりは全くない。かろうじてパソコンの明かりで周囲の様子が少し見える。
カタカタカタカタ(キーボードを打つ音)
「高橋、高橋、高橋…⋯」
黒いパーカーを着た男が、パソコンに向かって何かを打ち込みながら、俺の名前を連呼している。かなり猫背で、画面に顔が貼り付きそうなくらいしっかり食らいついている。男の髪の毛は短く、丸刈りに近い。画面の中には、地図アプリの上空写真のようなものが見える。俺の住んでいる町の上空写真とよく似ている。
「助けて!助けて!ここから出してくれ!」
俺は全力で叫んだが、男には全く聞こえていないようだ。
「み〜つけた」
その男が不気味な笑顔を浮かべて言う。
「殺してやるw」
男が低くて小さな声で言った。
俺は命の危機を感じて、その場から逃げようとした。
「逃げろ!走れ!動け、動け!」
頭では命令しているのに、足が少しも動かない。全身から冷や汗が止まらない。
その瞬間、俺の両目が開いた。
「夢か……」
視線の先にはいつもの寝室の白色の天井と、太陽の光が窓から差し込んでいる光景が広がっていた。今日も一日が始まったようだ。
階段を降りて、すぐにテレビの電源を入れる。そして、朝食の準備を始める。"高橋"の朝のルーティンだ。
『昨夜十時ごろ都内の路上で、男性が何者かに拳銃で襲われ死亡しました。』
ニュースキャスターが流暢に画面越しに話している。
「最近、物騒な事件が多いな」
そんなことを言いながら高橋は焼き上がった食パンにマーガリンを塗る。食パンの上でマーガリンがどんどん溶けていく。
『三ヶ月以内に男性が何者かに襲われ、殺される事件はこれで四件目になります。しかし、それぞれの事件との関係性は未だ分かっていません。』
「やばい、あと三分しかない!」
朝のニュース番組に見入ってしまった高橋は、危うく遅刻しそうになった。落ち着かない手でネクタイを締めて、急いで家を出た。
「間に合わないかもしれない」
駅まで普段は歩いて二十分はかかるが、何とか走って十分で駅に着いた。高橋はいつもの時間の電車に乗ることができた。
会社の最寄駅で電車を降り、歩いて会社に向かう。到着すると、ちょうど会社の朝礼が始まった。
「今週は大事な取引先との商談が入っている。全員、気を引き締めて業務にあたるように!」
部長が全員に活を入れた。
その後、高橋はいつものように自分のデスクで仕事を始めた。
<名前>
その週の金曜日の夜だった。会社の帰り道にある都内の一般的な居酒屋で、高橋と"林"はいつも通り飲んでいた。
「お前、またビール一杯で終わりかよ〜」
林が勢いよく高橋に言った。
「お酒に弱いんだよ」
高橋は申し訳なさそうに言った。
「ところで、お前まだテニス続けてるんだって?」
興味津々の様子で林が言った。おつまみの枝豆を掻い摘みながら話を聞いている。
「一応、続けてるよ。まあ、趣味としてだけど…⋯」
「でもこの前、どっかの大会で入賞してたじゃん」
どこから仕入れた情報かは分からないが、林が励ますように言った。本当にあの大会は運が良かっただけだった。
「あれは対戦相手との相性が良かっただけだよ。現に、あの大会以外は全部予選敗退だよ」
高橋は、遠慮して自信がなさそうに言った。
「運も実力のうちだよ!」
林が笑いながら高橋に言った。
「聞いたか?高校の同級生の内田が、彼女できたらしいぜ!」
林は突然、話を変えた。お酒が入っているので、テンションも少しおかしい。
「え、あの暗い感じだった内田が!?」
高橋は口を開けたまま、数秒間静止した。
「しかも、噂によると結構可愛いいらしいんだよ」
林は羨ましそうに言う。
「マジで、人生何があるか分からないなw」
やはり、恋愛トークは盛り上がる話の一つだ。
「お前も早く彼女作れよ!」
林は完全に酔っていた。既にビールを四杯ほど飲んでいるだろうか。
「作れたらもう作ってるよ!」
高橋は建設系の会社に勤める二十六歳。両親と兄弟は、今はもういない。結婚願望はあるが未だ女性との関係が苦手で、地元の友達にも心配されるくらい長い間彼女と呼べる人がいない。
「やっぱり中学生の時『あおい』に告白してれば、今も続いてたんじゃねえの?w。何気にめっや優しい子だったじゃん」
「そんなの、確証もないのに言うなよ!」
高橋の顔が少し赤みがかった。
「当たって砕けろよ!w」
それから一時間くらい、林はこんな調子だった。
「でも、都内に一軒家なんてすごいよな。お前、一体いくら儲かってるんだよ」
林が高橋に言う。
「都内って言っても八王子の方だから、そんなに土地も家も高くねえんだよw」
それなりに給料はあったので、都内の小さくて古風な一軒家に住んでいる。お隣さんとの関係もそれなりに良好だった。
「お前はいいよな、早くプロポーズしちゃえよ!」
「まだ俺はこのままがいいんだよ!」
林にはもう二年付き合っている彼女がいた。高橋は完全に出遅れていた。林は中学校からの付き合いがある親友で、都内の会社に勤めるプログラマー。その腕はかなりのものらしく、界隈ではそれなりに有名らしい。
林と飲んだ帰り道。高橋は林とは乗る電車の方向が違うので別れた。ホームで電車を待っている時にたまたま友人の"山本"に出くわした。山本は高校生の時の同級生で、今は地元で家業を継いでいるらしい。結婚もしていて、数年前に子どもも生まれていた。スポーツ万能だったので顔全体が日焼けしていて、かなり色が濃い。
「山本!どうしたんだよ、こんなところで」
「え?もしかして、高橋?高橋じゃん!」
山本は高校生の時からあまり変わらない、よく通る声で言った。
「こんなところで、どうしたんだよ。地元の群馬で働いてるって聞いてたけど」
「ちょっと仕事の商談で、今日だけ東京に来たんだよ。ちょうど今から帰るところだ」
慣れない場所でかなり疲れているようだった。
「商談が午前中で終わったから、午後はほとんど東京観光って感じだけどなw」
「東京はどうだ?群馬と全然違うだろw」
高橋が冗談混じりに山本に言った。
「人が多くて、道を歩くだけでも大変だよ。こんなところで毎日仕事なんて、俺には合わねえな」
「俺もまだ、あんまり馴染めてないよ。こっちでの仕事の難しさをすごく感じてる」
「お前もまだまだだなw」
その後も五分ほど世間話をしたが、高橋の乗る電車がホームに入ってきたので、二人は別れた。
「この電車で帰るわ。じゃあまた!」
「群馬にもたまには帰ってこいよ!またな!」
終電だったこともあり、珍しく高橋は座席に座ることができた。
そのまま電車に揺られること三十分、高橋が家に着いてドアを開けると、飼い猫の "いぬみ"がいつも通り高橋の胸に飛びついてきた。猫なのに名前が『いぬみ』なんて今考えるとおかしいw。高橋が上京した時から飼っている猫で、高橋にとっては唯一の家族と言ってもいいだろう。特にすることもなかったので、高橋は着替えてそのままベッドに寝落ちした。
確か暑い日の月曜日だったか。高橋が会社に向かおうとスーツに着替え、勢いよくドアを押し退けて家から飛び出すと、道の途中で隣の家に住む痩せ型の男の"中島"に声をかけられた。中島もこれから仕事に行くようだ。
「おはようございます。高橋さん」
何度か話したことはあったので面識はあったが高橋は戸惑った。
「お、おはようございます。中島さん」
一瞬言葉に詰まってしまった。
「これ高橋さんが昨日捨てられたゴミですよね?」
中島が指差す方向を見るとそこには高橋が今朝、家の近くのゴミステーションに出したゴミ袋があった。しかし、そのゴミは何者かによって荒らされていた。中身が完全に袋の外に出てしまっていた。幸いにも中身は会社で要らなくなった会議の資料や落ち葉などで生ごみはなかったのが唯一の救い。高橋は内心面倒くさかったが愛想笑いをしながら言った。
「すぐに片付けますね」
「よろしくお願いします」
頭をペコリと下げて、颯爽と中島は会社へ向かって行った。
高橋は家の中から外用のほうきとちりとりを持ってきた。仕方なくゴミを片付け、なんとかその場をやり過ごした。
<知らない知りたくない>
一ヶ月後の週末、高橋はお昼の十一時近くまで寝てしまった。平日に切り詰めて働いている人にとってはよくあることだろう。朝の支度を済ませ、玄関の壁に備え付けられている銀色のポストに、郵便物を取りに行った。ポストには投入口からはみ出るほどの郵便物が溜まっている。
「こんなに…⋯」
高橋は寝ぼけながらもため息をついて、郵便物を取り家の中に入った。
郵便物の仕分けをしていると、高橋宛てだが差し出し人が書かれていない郵便物が届けられていた。最初は開けずにそのまま捨てていたが、同じような郵便物が毎日届けられる。一般的な大きさの茶封筒に高橋の名前が書かれていたが、やはり送り主は毎回書かれていない。
ある日、その郵便物を誤って開けてしまった。
中には
『君を見ている。』
と印刷されたA4のコピー用紙が一枚。
「イタズラかよ‼」
高橋はその郵便物にうんざりした。すぐにその紙を両手でクシャクシャに丸めて、部屋の隅にある丸いゴミ箱の中に押し込んだ。その紙のことはそんなにも気に留めていなかったので、次の日には忘れていた。
その日から、その不審な郵便物は高橋の元に届かなくなった。
二〇三三年秋頃、鮮明に覚えている。会社での午前中の仕事を終えてやっと昼休み、高橋がトイレから戻ってくると、高橋の茶色い革製の使い込まれた長財布がデスクの上に置かれていた。いつもは会社に持っていくカバンの中に入れていた。すぐに中身を確認すると車の免許証がなかった。免許証の更新が近く、確認する必要があったこともあり高橋はそのことにすぐに気づいた。お金やックレジットカードが奪われた形跡はない。
「すみません。私の財布を誰かがデスクの上に置きませんでしたか?」
高橋は隣に座っていた女性の同僚の”中村”に聞いた。
「高橋さんの財布ですか……、そんな人は来なかったと思います。どうかしたんですか?」
中村は本当に何も知らなさそうだった。
「中に入れていた車の免許証がないんですよ」
「それは大変ですね。一緒に探しますよ」
中村はとても心配そうに声をかけてくれた。高橋よりもこの件について、心配に思ってくれていたかもしれない。中村がそう言ってくれたので、高橋はデスク周りやロッカーを中心になくなった免許証を探した。
昼休みを返上して一時間ほど二人で隈なく探したが、まったく見当たらない。
「見つかりませんね……あとは自分で探してみます。ありがとうございました」
高橋が言った。
「もし見つかったら、お知らせしますね」
中村が作業の手を止めて言った。
「よろしくお願いします」
「見つからなかったら、すぐに再発行してもらった方がいいですよ。免許センターで出来ます」
中村が丁寧な口調で言う。
「なるほど、ありがとうございます」
高橋が改めて言った。
「再発行かよ、めんどくせえな」
高橋は舌打ちをしながら誰にも聞こえない小さな声で、悪態をついた。
車で通勤している訳ではないので、その日は無事に帰宅した。
その週の土曜日の早朝、高橋は毎週通っている都内のテニスクラブに歩いて向かった。到着すると既にコーチや同じくクラブに通っている人たちが、テニスコートの周りに集まって騒がしくしている。高橋はすぐにラケットが数本入っている大きなカバンを片方の方に担ぎ直して、人混みに向かった。
「何これ、気持ち悪い……」
人混みの中にいる女性の一人が甲高い声で言っていた。
高橋が人混みをかき分けてコートの中央を見ると、そこには死んだカラスが八十羽ほど放置されていた。
「なんだこれ⁉︎」
肩に背負っていたカバンを、思わず地面に打ち付けてしまった。カバンの中のラケットがぶつかり合って、ガランという音を立てた。すぐに高橋は近くにいたコーチの元へ走って行った。同じくテニスクラブに通っている仲間たちが、コーチの周りを取り囲んでいた。
「誰がこんなことを?」
「それが……私が三十分前にここに着いた時には、すでにこのありさまで…⋯」
コーチもかなり呆れている様子だった。
テニスコートの周囲は、嗅いだことのない異様な匂いで包まれていた。コートの外にもカラスの羽と思われる黒いものが足元を埋め尽くしていた。誰かが警察に通報したのだろうか、すぐに警察車両が駐車場に詰めかけて来た。その後、コーチや高橋たちは警察に詳しく話を聞かれた。テニスの練習などをしている場合ではなかった。
しばらくして、今度は業者の人がカラスを回収しに来た。
「これだけのカラスが、一度に死ぬなんてことあるんですか?」
コーチが業者の人に尋ねた。
「電話で伺っていた時には、カラスが鷹や鷲に襲われてしまったのかと思いましたが、これだけに数になるとそれはあり得ないですね。」
業者の方も困惑している様子だった。
「そうですか……」
コーチが首を傾げながら言う。
「それでは、作業の方を初めて行きますので、皆さん下がっていてください」
「今日の練習は無理そうだな。解散にしよう」
コーチは周りにいた高橋たちに呼びかけるように言った。高橋も素直に荷物を拾い上げて、来た道を戻って行った。
その後、テニスの練習をすることができなかったので、高橋は最寄りの免許センターに行った。免許を紛失しているため、もちろん車では行けなかった。
「すみません。免許証の再発行をお願いしたいのですが」
「かしこまりました。最初に身分証明証のご提示をお願いします。準備ができましたらお呼びしますので、椅子に座ってお待ちください」
受付の女性は高橋の身分証明証を持って奥の部屋に行った。二十分後、女性は高橋の元に戻ってきた。
「最後に写真をお撮りしますので、こちらにお願いします」
高橋は女性に案内されて顔写真を撮った。おそらくテニスのユニフォームで免許証の写真を撮る人は、なかなかいないだろう。
その後、高橋は再度椅子に座って五分ほど待った。女性はトレーに新しい免許証を持って高橋のそばに来た。
「お待たせしました、こちらになります。免許証の紛失を繰り返すと、再発行できなくなりますので注意してください」
「実は財布に入れておいたんですけど、いつの間にかなくなっていて」
高橋は女性に訳を話してみた。
「最近そういう方が多いんですよ、この前も同じような理由で大体四人くらい男性が来られまして。気をつけたいですよね」
「そうなんですね。気をつけます」
そう言って高橋は足早に免許センターから出て、自宅へ帰った。
立て続けに起きた不可解な事件が、流石に気になったので高橋は林に電話で相談した。いつも通り林はすぐに電話に出てくれた。
「ただのイタズラじゃねえか?」
林はこの件をあまり重く考えていないようだ。
「俺もそうは思いたいけど、四日間のうちにこんな変なことが立て続けに起こるか?」
高橋は、依然として真剣に話した。
「まあ、あんま気にすんなよ!」
そう諭されて高橋はその場では落ち着きを取り戻し、誰かのイタズラだと自分に思い込ませた。
「そうか〜。わかった、ありがとな。今度また飲みにこうぜ!」
「いつでも誘ってくれよ。結構、暇だからさw」
高橋が通話を終えて、スマホを机上に置いた瞬間、庭の方で草同士が擦れるような物音がした。高橋は不審に思い、庭を確認しに行ったがそこには特に何もなかった。誰かに見られているかもしれないという感覚を高橋は覚えた。
<真実と過去の産物>
おそらくあれから半年以上経った、二〇三四年春頃のこと。高橋はいつも通り会社に行こうとしていた。しかし、高橋の飼っている猫の様子がどこかおかしい。後ろ足の動きが若干、鈍くなっている気がする。
「行ってくるね、いぬみ‼」
いつも高橋が出かけるときに飼い猫にかけている言葉だ。会社への電車の時間まであまり余裕が無かったこともあり、いぬみのことを気にかけず家を出た。
その夜、高橋は同窓会の会場となるホテルのフロントの前にいた。林が来るのをしばらく一人で待っていた。高橋の視界の前をさまざまな人が行き交う。
「すみません。こちら南中高校の同窓会の会場ですか?」
会場に入るのをためらっていた様子の一人の女性が、高橋に話しかけてきた。
「はい。そうですけど……」
高橋は特にすることも無かったので、しばらくその女性と話した。話終えると女性は何事もなく、会場をあとにした。同窓会目的で来た訳では無かったそうだ。
「高橋〜!お待たせ〜」
やや離れた位置から林が手を振って走ってきた。
「お前!集合時間ギリギリだぞ!」
「ごめんごめん、仕事が長引いちゃってさ」
林は自分の顔の前で両手を合わせながら言った。
「まあ、とにかく入ろうぜ‼みんな待ってるよ」
二人は足早に、ホテルの玄関へと入って行った。
会場は都内の大手高級ホテルの宴会場。会場の扉付近には「南中高校同窓会」と大きく書かれた看板が立っていた。二人は参加者全員に配られた細いグラスに入ったシャンパンを片手に、会場中を歩き回ってた。円卓を囲んで話し込む人、会場の隅の方で一人でいる人。会場内の雰囲気はマチマチだ。五分ほどブラブラした頃だった。
「もしかして、あれ委員長じゃね?w」
林が高橋に指さす方を見るように促しながら言った。"委員長"とは二人の同級生で高校の三年間でずっと学級委員長を務めたことから、みんなに呼ばれているあだ名。
「委員長〜!」
二人は委員長に手を振りながら言った。
「もう委員長じゃねえよ!高橋と林か!懐かしいな〜」
委員長がツッコミのように言った。
「ちなみに今日、内田は来てないの?」
高橋が委員長に言った。
「参加する予定だったみたいだけど、結局参加してないみたいなんだよ」
委員長が残念そうな口調で答えた。
「そうか、色々聞きたいことがあったんだけどなw」
その後、山本もその三人に加わり、しばらく高校時代の話で盛り上がった。
「山本、今日はあんま食い過ぎんなよ」
林が言った。
「え〜。じゃあ、ちょっとセーブするか」
三時間ほどしてから、ホテルのスタッフがマイクで会場全体にアナウンスした。
「そろそろ会場のお時間になりますので、皆さま速やかにご退場ください。本日は当ホテルをご利用いただき、誠にありがとうございました」
全員すぐに会場から出て別れを惜しむようにして、それぞれ帰って行った。
その後、高橋と林はイマイチ飲み足りなかったので、二次会として例の居酒屋で遅くまで飲むことにした。
「ちょっと飲み過ぎだぞ、林‼明日まだ火曜日だぞ‼」
「大丈夫だよ俺は今週は仕事を休んで、同僚と登山に行くんだ」
「お前登れんのかよ!」
「元山岳部だぞ!こんな山、朝飯前だぜ!」
林は調子良く高橋に言った。
「あんまり無理ぜずに楽しんでこいよ」
「おお」
林が自信満々に返す。
「そんじゃあ、今日はお開きにしようか」
平日だったこともあり比較的早めに切り上げて、二人はそれぞれ帰宅することにした。
高橋は自宅に着くとフラつく視界で玄関の鍵を開け、いぬみを探した。キッチンの方にいぬみのしっぽが見えた。
「隠れてるんだな〜」
いぬみが隠れたりすることは珍しかったが、動物の行動としてはおかしなことではない。キッチンの方に回り込みその姿を見えてみると、いぬみは口から泡を出して動かないでいた。
「いぬみ!!!」
高橋は大声で叫んだ。その後、何度もいぬみの体を強く揺すってみた。
何か危険なものを口にしてしまったのか。すぐに動物病院へ連れて行った。
「すみません、すみません!」
こんな時間に動物病院を開けてくれるとは思わなかったが、高橋は必死に入り口のドアを何回も叩いた。奇跡的に入り口の電気が付くと、奥の方から若い獣医師の先生が出てきた。
「どうしたんですか?」
先生は目を大きく開けて高橋と手に持っている猫のことを見た。
「飼っている猫の様子がおかしいんです!」
先生はすぐに状況を察して、診察室へといぬみを運んでいった。いぬみを診察台に置き聴診器を当て、状態を確認し始めた。
「先生!いぬみは、いぬみはどうなるんですか?」
先生は静かに首を横に振った。
もう遅かった。高橋はその場に膝から崩れ落ちた。先生は高橋の背中を何も言わずにさすってくれた。
家族のいない高橋にとって、いぬみは大切な家族だった。
高橋は立て続けに起きた不可解な事件を最初は誰かのイタズラだと思っていた。それは違うようだ。
次の日の午後、高橋は飼い猫が異常な亡くなり方をしたので、念のため警察に相談することにした。最寄りの警察署に着くと、高橋は警察署なんて慣れていなかったのでしばらく入り口の前であたふたしてしまった。
「何かご用ですか?」
入り口の前で警備をしていた男性の警察官が話しかけてきた。
「はい。ちょっと相談があって」
高橋は控えめにその警察官に言った。
「でしたら、入り口を入って右側の窓口で受け付けていますよ!」
その警察官は笑顔ではっきりとした声で答えた。
「ありがとうございます」
高橋は言われた通り入って、右側の窓口で警察官を呼んだ。すぐに近くのデスクで作業をしていた若い男性の警察官が、こちらに向かってきた。
「あの……事件の相談があるのですが……」
それから十分ほどかけて、昨日起こったことを詳しく説明した。それからしばらくして警察官は言った。
「これはうちで捜査するのは難しいですね」
「でも、これだけじゃないんです……」
高橋は必死に訴えかけた。
「今日のところはお帰りください」
警察は高橋の話に全く取り合ってくれなかった。動物の殺人など警察には関係ないというのか。仕方なくその日は、重い足取りで素直に帰宅した。
次の日、早朝に高橋の自宅のチャイムが鳴った。ドアを開けると、そこには自分とほぼ同じ年頃と思われる男性が、端正なスーツ姿で立っていた。
「突然押しかけて、申し訳ありません。私、"伊藤"と申します。少しお話をしたいことがあるのですが……」
事情は分からなかったが、高橋は速やかにリビングに伊藤を案内した。
「すぐにお茶出しますね。そちらに座ってお待ちください」
伊藤は革製のカバンを床に置いて、黙って椅子に座った。
「ペットボトルの緑茶しかありませんが……」
高橋は買い溜めしている五〇〇mLのペットボトルの緑茶を、伊藤の前に差し出した。
「構いませんよ。話が済んだらすぐに帰りますから」
この手の状況に慣れているのか、伊藤は常に堂々としている様子だった。高橋が伊藤の向かいの椅子に座ると、伊藤が話し始めた。
「単刀直入に言いますと、あなたはおそらくご自身の名前を何者かに奪われています」
「ちょ、ちょっと、状況がよく分かりません」
高橋は焦っていた。
「どこかで自分の名前を、誰かに知られてしまうようなことはありませんでしたか?」
高橋はすぐには思い浮かばなかった。
「今までの事件はすべて、高橋さんの名前を盗んだ誰かが、一方的に行こなっていると考えるのが一番手っ取り早い」
伊藤はどんどん話を進める。
「どうして、事件のことを?」
高橋が聞く。
「ああ、すみません。警察署でお話しされていたのを盗み聞きしてしまいました」
それから二時間ほどかけて、高橋は伊藤に自分に対しての嫌がらせについての話を詳しく聞かれた。
「私はそいつを五年近く追っています。警察はまだ犯人の素性を少しも掴めていないようですが、私は独自の調査で犯人を"佐々木"という男だと考えています」
「誰なんですか、そいつは?」
「私も今となっては一般人です。詳しいことはよく分かっていません」
伊藤が言う。
「今となっては…⋯?」
高橋は伊藤の言ったことに率直に疑問を感じた。
「ああ、言ってなかったですね、私は元警察官なんですよ。と言ってもサイバー犯罪対策課勤務だったから、みんなが考えてるような警察官じゃないんですけど」
「警察官だったんですか⁉︎」
思いもよらぬ展開に、高橋は空いた口が塞がらなかった。そんな高橋を尻目に、伊藤は淡々と続きを話し始めた。
「私が唯一分かっていることは、佐々木は既に男性を四、五人殺しているということ。そして毎回、黒のパーカー、黒のズボンで犯行に及んでいるということ。殺し方は様々で、絞殺、銃殺、放火。未だにそのターゲットの共通点や関連性は分かっていません」
「どうして、今回は僕が対象になったのでしょうか?」
「佐々木は無差別に対象を決めています。名前を知った相手を何も考えずに対象として個人情報を特定し、嫌がらせ、殺害を行なっていると考えるのが手っ取り早いでしょう」
「そんな……じゃあ僕はどうすれば?」
この状況に置かれた誰もが、おそらく同じことを聞くだろう。
「佐々木はいつ何をするか分からない。既に高橋さんはかなりの嫌がらせを受けています。気をつけろと言うしか…⋯」
「分かりました……」
分かりたくはなかったが、高橋はそう言うしかなかった。
「私も引き続き調査を進めます。それでは今日のところは失礼ます」
伊藤は椅子から立ち上がり荷物を持って玄関の方へ歩いて行った。
「今度何かあったら、遠慮なくこの番号に連絡してください」
そう言って高橋は電話番号が書かれた名刺風の紙を渡された。伊藤はそのまま歩いて帰って行った。
「今日はわざわざありがとうございました」
帰り際に伊藤に向かって叫んだ。
高橋は歩いていく伊藤の背中の大きさに、元警察官の風格を感じていた。
<人間の最期>
それから数日が経った。高橋はこの日、最近ハマっているeveeeというアーティストのライブに参加するため、珍しく朝早く起きた。
早めに出かける準備を済ませて電車に乗り込み横浜アリーナへ向かった。到着するとそこはすでに同じeveeeのファンでごった返していた。
「もうこんなにいるよ」
高橋が小声で言う。
「高橋く~ん!」
一緒にライブに行こうと誘ってくれた大学の友人の"市川"という女性が、高橋の名前を呼んだ。
「今日は一緒に来て食れて、ありがとう」
高橋と市川もその中に入っていき、グッズを買ったりしながらライブ時間まで待った。あっという間にライブの開場時間になり、ファンたちがアリーナの中に入っていく。
気になるライブの座席は、アリーナの最前列だった。目の前には大きなステージがそり立っている。二人は既に大はしゃぎしている。ライブ中は嫌なことを完全に忘れて、eveeeが奏でる曲たちに没頭した。
終演後、高橋はアリーナから出てきて急いで駅に向かった。今回のライブ会場の横浜アリーナは高橋の家から少し遠かったので、一本でも電車に乗り遅れると家に帰れないというスケジュールだった。市川とも余韻に浸ることなく、別れてそれぞれの帰路に就いた。
自宅に着くと、たまりに溜まってた疲れがどっと湧き出てくる。シャワーを浴びて、パジャマに着替えて、眠りにつこうとしていたその時、林のご両親から電話がかかってきた。高橋はすぐ電話に出た。
「息子が、林が…⋯」
泣いていたので察しはついたが、その電話だけでは林の身に何が起こったのかよく分からなかった。
後で友人から詳しく聞いた話では、林は友人との登山中に隊列から遅れてしまい、仲間が目を離した隙に足を滑らせて、崖から滑落して亡くなってしまったらしい。発見された時には林は全身から出血していて、ほぼ即死だったという。警察は林の転落を単なる事故だとみているが、林は念のため伊藤にこのことを報告した。
伊藤の見立てによると林が落下した崖は通常、人が落ちるような危険な場所ではない。何者かによって突き落とされた可能性が高いという。この事件は謎めいていたので、すぐに全国区のニュースで取り上げられた。
高橋と林のご両親は病院にいた。林が最後に治療を受けていたベッドを、ただただ三人でずっと眺めていた。誰も何も言わなかった。言えなかった。
高橋が不意にスマホで動画配信サイトを見ていると、ある配信者が林を殺した犯人を発見したという動画を投稿しているのを見つけた。動画のサムネイルは
ー犯人 見つけた! 〇〇〇〇。住所は…⋯ー
動画をタップして視聴してみると、若めの男性がカメラに向かって淡々と事件について雄弁していた。
高橋はなりふり構わず、スマホをベッドに思いっきり投げつけた。
「なんだよこれ。全部でたらめじゃないか‼」
動画では、警察も知らないようなデタラメなことしか言っていなかった。その配信者は、林たちとは全く関係のない人を犯人に仕立て上げて、大バズりしていた。再生回数は三百万回を超えている。間違った情報に踊らされて犯人にさせてしまった人を根拠もなく叩く人、新たな犯人を作り出しその人を批判する人、何も知らずに犯人に同情する人、見て見ぬふりをする人、さまざまだ。林の両親はその配信者に怒りを感じていたが、ネットの世界でその怒りが本人たちに届くはずはない。高橋も林の両親と同様に、怒りを感じていた。
この日の内に、高橋は伊藤にこの事を話して削除してもらおうと思ったが、いくら警察でも個人の投稿を削除することはかなり難しいらしい。
数日後の会社の帰り道、高橋は歩道を歩いていた。いつもの居酒屋の前を通り過ぎると、ふと足が止まった。
「飲むか……」
有名グルメ漫画(孤独の〇〇〇)のセリフのように言った。
高橋はいつも林と二人でいた席に一人で座った。ビールは毎回、何も言わずに店員さんが持ってきてくれる。
「林!乾杯!」
はたから見たら、一人で乾杯している変な人かもしれない。
「当たって砕けろよ、か……」
ビールの入ったジョッキを傾けながら静かに言う。しばらく高橋はブツブツと林のことを呟いていた。
お客さんの姿がまばらになってきた頃、居酒屋の大将がテレビをつけて夜のニュースを見ていた。
『今日の夕方六時ごろ、都内の高校の校門前で、男性教師が何者かに拳銃で襲われ殺害される事件がありました』
テレビ画面の右端に、殺害されたという男性教師の顔写真が映し出された。
「この人、もしかして……」
殺害された男性の顔写真を見て、高橋はハッとした。
「お客さん、知り合いなんですか?」
「知り合いというか、自分の高校時代の先生です」
言葉に詰まりながらも高橋は真実を話した。
「それは大変だな」
大将が高橋を庇うように声をかけた。
「とても優しい先生で、誰かに恨まれるようなこともなかったはずです」
「最近こういうことが多いからなあ。お客さんも気をつけて!」
大将が言う。
『殺害されたのは五十六歳の男性教師で、名前は"茂木"です。殺害時、茂木さんは拳銃で左側の肩を何者かに拳銃で一発撃たれ、出血多量で死に至った可能性が高いということです。警察は犯人を都内の連続殺人と同様の人物と見て捜査を進めています』
ニュースはまだ続いていた。
『こちらにいるのは、第一発見者は元警察官の伊藤さんです。今回、特別にお話を伺いました。
「男性を射殺した犯人を、私は目撃しました。黒のパーカーに黒のズボンです。顔を確認することはできませんでしたが、犯人はまだこの付近にいるのではないでしょか」
現場からは以上です。
それでは次のニュースに移ります……』
「伊藤さん!」
伊藤が事件の目撃者になっていることに驚きを隠せず、思わず叫んでしまった。
「何だい、その元警察官も知り合いなのかいw?」
大将が高橋をからかうように言った。
「ええ、まあ」
高橋は恥ずかしそうに軽く頷いた。同時に高橋は恩師の先生の死に動揺していた。
一週間後の昼頃、高橋と山本の二人は林のお葬式に参加していた。
「林に引き続き茂木先生までいなくなるなんて…⋯」
「ああ」
高橋は暗いトーンで返事をした。
「何か、おかしくないか?突然こんなに人が亡くなるなんて」
山本はそう言ったが、高橋にはなぜこんなことが起きているのか簡単に推測することができた。
「やっぱり、この事件ももあのイタズラの延長線じゃないのかな」
「まさか、じゃあお前のことを狙ってるやつが、お前の周りのやつから殺してるってことか?」
山本はあり得ないという顔をしていた。
「そうかもしれない……」
高橋も、そうは思いたくなかった。
「信じられないかもしれないけど、今はそう思うしか……」
林の彼女と思われる女性も式に参加していた。その女性が、こちらに気づいて話しかけてきた。
「もしかして、林くんの友人の高橋さんと山本さんですか?」
「はい。この度はご愁傷様でした」
高橋が落ち着いた声で女性に言った。
「彼は……林くんはいつも楽しそうに二人のお話をしてくれていて」
女性が林との思い出を思い返すような調子で言った。
「林はすごくいい人でしたよね」
山本がそれに同情するように言った。女性は涙を流して、その場に膝から崩れ落ちてしまった。二人は女性を精一杯慰めた。
その後、女性が泣き止んでからしばらく沈黙が続いた。
「じゃあ、俺らも気をつけなくちゃ」
山本が切り出した。
「生きよう!」
林が覇気のある声で二人に言った。
「そうだな、生きよう!」
三人はそう誓い合った。
その数日後だった。隣人の中島がチャイムも鳴らさずに、高橋の家の玄関に入り込んできた。
「高橋さん、近所のアパートで火事です!」
中島の話によると近所にある小さなアパートで火事があったようだ。
「分かりました。行ってみましょう」
そう言って、高橋は急いでその場にあった適当な靴を履いた。
「早く、早く‼」
中島が高橋を急かす。
本当はよくないことだとは分かっていたが、興味本位で火災現場を見に行った。高橋と中島が着いた頃にはアパートはほとんど焼けていた。見たこともないくらい大きな炎が、アパート全体を包み込んでいた。思った以上の熱気が顔に吹き付ける。高橋たち以外にも多くの野次馬が周りを取り囲んでいた。
近くで火事を見ていた高齢の女性が男性の警察官に何かを訴えかけている。
「これは放火よ!私見たんだから、黒い服の男がアパートから走って逃げるところ」
「それは今後、消防と警察が調査していくことですから。ひとまず落ち着いてください」
警察官はなんとか女性をなだめていたが、高橋も何だかこれは普通の火事ではないような気がしていた。
「すみません。その話、私にも少し聞かせていただけませんか?」
高橋は、女性と警察官の間に割り込んで言った。
「もちろん。私でよければ。話してあげるから、ちょっとこっち来て!」
高橋は女性に手を引かれるがままに人気の無いところまで一旦下がり、女性の話を聞いた。
「私がこの火事を最初に発見して通報したんだけどね、その時にアパートから走って逃げていく黒いパーカーを着た猫背の男を見たのよ!」
「その男はこの辺で見たことありましたか?」
「いいや。この辺じゃ見ない男ね!」
女性は高橋の質問に即答した。女性の話し方には、いちいち力強さがあった。
「そうなんですね。ありがとうございました」
「いいのよ!これくらいのこと。何かあったら何でも聞いて!」
この火事については、夕方のニュースでも報道された。
『今日の夕方四時ごろ都内でアパート一棟が全焼する火事がありました。アパートの住人は全員避難しましたが、焼け跡から男性の焼死体が発見されました。警察の調べによると、この男性はアパートの住人ではなく名前は"樋口"さん二十六歳、職業はネット配信者だということです』
「住人ではない男の焼死体?なんだそれ」
高橋がテレビを見ながら言った。
夕ご飯の準備をしていると、伊藤から高橋の携帯に電話がかかってきた。火事についての話があるらしい。
「樋口は数日前から林を殺した犯人に関する嘘の情報をネット上に流していたと思われる。佐々木がそのことを突き止めて、口封じのため犯行に及んだ可能性がある。やつの犯行に間違いない。次は高橋さんかもしれないぞ」
また元警察官の勘だろうか。伊藤は堂々とそう言い切った。
<あなたの黒さ>
二〇三四年の雨の日、林の死を受けて高橋と伊藤は独自で調査を始めていた。
二人は傘をさして、都内の大通りを並んで歩いていた。ビルとビルの間から時折冷たい風が吹きつける。
「伊藤さんって、どうして警察官になったんですか?」
高橋が切り出した。
「最初は小学生の頃にかっこいいなあって思って、それからはなんとなくって感じですかねw。至極漠然としてますよねw」
「そうなんですね。自分も小学生の頃はパイロットとか憧れてましたw」
高橋が小学生の頃のことを思い出して言った。
「高橋さんは、ご家族とかいらっしゃるんですか?」
伊藤が唐突に高橋に質問した。
「結婚もしてないですし、両親も早くに亡くなってしまったので、しばらく一人ですね」
お互い少し気まずい雰囲気になってしまった。伊藤が別の話を始めた。
「実は警察官時代に部下がいまして。そいつに今回の事件の詳しい情報を、教えてもらってるんです。ホントはダメなんですけどね」
伊藤には”前田”という部下がいたらしい。
高橋はリアルな警察の話にどう突っ込んでいいか分からなかった。
「伊藤さんの部下なら、相当優秀な部下なんでしょうね」
伊藤は口の両端を、軽く上げて見せた。今日は、その前田と喫茶店で会うことになっている。
高橋と伊藤は先に喫茶店に着いたので、店内で待つことになった。店員に席に案内された二人は、テーブルを挟んで対角線状に座った。
「いらっしゃいませ。ご注文はどうなさいますか?」
「何か頼みますか?」
「じゃあミルクティーを」
伊藤さんがミルクティーとは意外だ。てっきり、ブラックコーヒーとかを飲むのかと思っていた。
「じゃあ僕も同じのを!」
まだミルクティーが運ばれてくる前だった。
バン‼︎‼︎‼︎
店の外で大きな銃声が聞こえた。同時に喫茶店の大きな窓越しに、大勢の通行人が走って逃げていくのが見えた。
「キャーーー‼︎」
何人もの女性が叫ぶ声がした。
高橋は聞き慣れない悲鳴にかなり戸惑ったが、伊藤はすぐにドアを開けて店の外へ走って行った。反射的に体が動いたんだろう。高橋も思わず伊藤について行くと、道の真ん中に一人の男性が腹部あたりから血を流して、倒れている。伊藤がその男性の腹部をハンカチで押さえて、止血しながら叫んだ。
「前田!前田!」
その瞬間、その人が前田だと確信したと同時に、伊藤は高橋に命令した。
「あいつが佐々木だ。追え‼」
言われるがままに高橋は走った。
その男の見た目は、佐々木の特徴と完全に一致していた。
「待て!」
高橋は喉の奥から声が出た。
佐々木は人混みを掻き分け、颯爽と走っていく。周りからは女性や子どもの悲鳴が聞こえた。佐々木はバイクを用意していたらしく高橋が追いつく間も無く、どこかへ行ってしまった。
高橋が息を切らしながら喫茶店の前に戻ると、伊藤の目は涙でいっぱいだった。伊藤と前田の体は雨でビチョビチョになっている。前田は救急車で搬送されたが、すぐに死亡が確認された。腹部をナイフで刺されていたらしい。二人は前田が搬送された病院で別れた。伊藤はしばらく病院にいるらしかったので、高橋は先に病院を出た。
高橋は帰宅すると寝巻きに着替えずに、そのままベッドに倒れ込んだ。その日は朝まで全く眠ることができなかった。
翌日以降に聞いた話だが、伊藤は警察官時代に別の部下を誤って拳銃で撃ち、殺してしまったことがあるらしい。伊藤は、その責任をとって警察を辞めた。さらに前田は伊藤の直属の部下ではなく、伊藤の警察学校時代の後輩らしい。
次の日、高橋は伊藤に近くの駅前まで呼び出された。高橋はあまり眠れていなかったので、行く気になれなかったが、大切な話だと言うので仕方なく駅に行った。
駅に到着すると伊藤は下を向いて、高橋と目を合わせずに言った。
「ついて来い」
その後はずっと黙ったまま、駅のロータリーに止まっていたタクシーに乗せられた。
「どこに行くんですか?伊藤さん!」
高橋には見当もつかなかった。しばらくタクシーを走らせてから、伊藤は運転手に言った。
「ここで止めてください」
そこはテレビドラマでよく見る建物の目と鼻の先。警視庁の本庁の目の前だった。
「まかさ、伊藤さんここに入るつもりじゃ?」
流石に警察を辞めた人間がいきなり警視庁に飛び込むなんて、普通あり得ない。
高橋の悪い予感が当たってしまった。伊藤は躊躇なく建物の中に入って行く。
「ちょっと待ってください。僕はどうすれば…⋯」
伊藤は一八〇度振り返って高橋に言った。
「お前も来い」
言われるがまま、伊藤にピッタリついて行った。内心不安でしかなかった。階段を七階分ほど上がったところで伊藤は大きな会議室に入って行った。その歩みには少しの迷いもない。入り口には『捜査本部』の文字。
「すみません。ここは部外者立ち入り禁止で……」
若い刑事さんが伊藤に言った。伊藤は構わず部屋の奥へ突き進んでいく。
「伊藤さん!ご無沙汰してます」
伊藤と同じ年齢くらいの刑事さんが笑顔で言った。
「でも、勝手に入ってくるのは問題ありますよw」
伊藤に軽い言葉をかけた。
「何をしてるんだ!」
伊藤が突然、会議室の机を両手で叩き、厳しい目つきでその場にいた刑事たちに言った。
「この一連の犯行は同一犯で、佐々木という男だ。早く捕まえろ」
「そう言われましても伊藤さん、証拠がないんですよ。それぞれ被害者の殺され方も全く異なっていますし……」
刑事の一人が説明した。
「俺はこの目で佐々木を見たんだ!佐々木が犯人に決まってる‼」
その声は会議室全体に響き渡った。
「どうした?騒がしいぞ」
小太りでまあまあ歳をとった男性の警察官が会議室に入ってきた。
「警部!伊藤さんが突然訪ねてきて…⋯」
警部と思われる男性は、伊藤の方に体を向き直した。
「今日のところはお帰りください伊藤さん。伊藤さんの後ろにいるあなたもですよ」
「すみません。すぐに出ます!伊藤さん行きましょ!」
伊藤は会議室を出るまで、ずっと刑事さんたちを睨みつけていた。高橋は伊藤の右腕をしっかり掴んで、建物の外まで引っ張って行った。
この日を境に、高橋と伊藤は会わなくなった。お互いが元の生活に戻って事件のことを忘れていった。
<終わりの始まり(葛藤)>
二〇四三年、最初に高橋の周りで不可解な事件が起き始めてから、既に十年が経過していた。深夜一時を回っていただろうか。突然、伊藤から高橋の自宅に電話がかかってきた。久しぶりに聞く声だったので一瞬誰か分からなかったがすぐに思い出した。
「お前の地元の同級生の子どもが、誘拐されたみたいだ」
伊藤が緊迫した声で言った。
「どういうことですか?」
「俺もネットニュースで見かけただけだ。詳しくは地元の同級生に直接聞いてくみてくれ。俺は今から現場に向かう」
伊藤はすぐに電話を切った。
山本の娘が黒い服の男に夕方、誘拐されたらしい。高橋はすぐに山本に確認の電話をかけた。
「おい、山本どういうことだよ。子どもが誘拐されたって」
「学校の帰りに妻と娘の二人だけになったところを狙われて車で連れ去られたらしい。妻はかろうじて車に乗せられる前に、逃げることができたみたいだ。犯人は黒のフードに、黒のズボンおそらく男性だったらしい」
山本の呼吸はかなり荒くなっていた。
「妻と警察から事情を聞いていたら、犯人から家電に電話が掛かってきて。
『娘を返して欲しければ南中山の中腹にある倉庫の前まで来い』
それだけ言われて電話を切られた」
山本が説明した。
「その声に心当たりは?」
「ボイスチェンジャーを使っていたみたいだから、なんとも言えない」
佐々木がやったのかもしれない、高橋の脳裏に、一瞬そんな考えがよぎった。
「わかった。今から俺も倉庫に向かうよ!」
「ありがとう。俺もすぐ行くよ」
娘の名前は”山本静香”。なぜ誘拐されたかは高橋には見当もつかなかったが、すぐに高橋と伊藤と山本は、佐々木と山本静香が潜伏していると思われる山中の倉庫へ向かった。
南中山の近くまで来ると、既にサイレンの音が鳴り響き、警察車両で山の入り口付近はいっぱいだった。高橋は車から降りて山に入ろうとした。
「高橋さん。何があったんですか?」
野次馬の中にいた一人の女性が言った。その女性は、たまたまそこに居合わせたという市川だった。高橋は市川がそこにいたことに驚いた。
「市川さん。どうしてここに?」
高橋が尋ねる。
「そんなことより、ここで何が起きてるんですか?」
市川が話を遮りながら、言った。
「僕にもよく分かりません」
それだけ言って高橋は、入り口の規制線をくぐろうとした。
「すみません。この先は危険ですので関係者以外は立ち入り禁止です」
若い警察官が高橋に言った。
「中に私の友人の山本がいるのですが……」
「そう言われましても、部外者を中に入れることはできません。危険ですので、お帰りください」
「高橋さ〜ん!」
山の奥から伊藤と思われる男性が、高橋に向かって手を振りながら降りてきた。近くで見ると、その人は確かに伊藤だった。
「この方は関係者です。中に入れてください」
十年前の声のトーンとはかなり違う声で伊藤が言った。
「大変失礼致しました。どうぞ中へ」
若い警察官は慌てながら、規制線を手で持ち上げた。高橋はその下を若干申し訳なさそうに潜って、伊藤について行った。
山の中にあるにしてはかなり大きく、古びた倉庫で全体が緑で塗られていた。倉庫の前には山本と山本の妻、警察官や警視庁の特殊部隊、新聞、テレビなど多くの報道関係者も詰めかけていた。
高橋は伊藤に切り出す、
「伊藤さん。これってもしかして……」
伊藤に自分が考えた犯人の見解を話した。
「そうだな。佐々木の犯行の可能性が高いな」
伊藤は即答した。
既にあたりは真っ暗だったので佐々木の姿はよく見えなかったが声は聞こえた。
「高橋!山本静香を生きて返して欲しければ、一間以内に一億円用意してここへ持ってこい」
山本の言った通り犯人はボイスチェンジャーを使っていたが、三〇代くらいの男性の声であった。
「電話をかけてきた声で間違いない」
山本が高橋に小さな声で囁いた。
なぜ高橋に身代金を要求したのかは全員よく分からなかった。高橋は山本の代わりに現金を用意するため、すぐに走って山を降りて行った。
二十分ほどが経った頃だろうか、黒い服を身に纏ったいつもの格好の佐々木と思われる男が倉庫の中から現れたのがうっすらと見えた。警察がその顔に工事用のライトで強い光を当てる。佐々木が身に着けているパーカーのフードを捲り上げると、そこに見えた顔は佐々木ではなく高橋だった。
「お前、危ねえぞ!こっちに来い!」
伊藤が高橋に向かって叫んだ。
「うるせぇ」
間違いなくその声は高橋だった。
<虚無の反転>
高橋は大声ですべての真実を話し始めた。
「まだ分からないのか。九年前、本物の佐々木は病気で死んだ。林と茂木と樋口の三人は俺が殺した」
何を言っているんだ。ここにいる全員がそう思ったに違いない。
「まあ、前田が死んだのは想定外だったがな。あいつは勝手に死んだ」
伊藤が悔しそうな表情を浮かべていた。
後の調べによると、前田は今回の連続殺人とは別の犯人が、事件に便乗してたまたま殺しただけだった。ただ、佐々木によって高橋の住所が特定され嫌がらせを受けていたのは事実だ。高橋もまた、その佐々木からの嫌がらせに便乗して、林、茂木、樋口を殺したのだった。つまりこの事件は便乗に便乗が重なった二重三重の事件だった。
「でも、なぜ佐々木が死んだことをお前が知ってるんだ?」
刑事の中の一人が言った。
「気づいてないのか……山本は分かると思うが、お前らが佐々木と呼んでいた男は俺らの同級生の内田のことだ」
「あの内田が!?どういうことだよ!詳しく説明してくれよ」
山本が、驚きながら高橋に言った。
さらに続けて高橋は話した。
「ほら、俺らが高校生の時に、隣のクラスで生徒の親が教室に立てこもる事件があっただろ。あの時、内田はその親に、生徒の個人情報を提供していたらしいんだよ。内田は他人の個人情報を集めるのが得意だって、知ってたんだよ。だから、最初に俺がターゲットにされた時にすぐ感付いたよ、これは内田の仕業だと。しかも、警察が佐々木と言っていたやつはターゲットを決めるとすぐにそのターゲットを殺していたが、俺の時はなかなか殺さなかった。おそらく内田は俺が同級生だったことに気づいて、殺すのを躊躇したんだろうな。それから同窓会の日、俺が会場に入る前に会場に入るのをためらっている見たことない女性を見つけて、俺は少し話を聞いたんだ。その女性は内田の彼女らしい。
その女性は
『内田くん、数日前に病気で亡くなってしまって……』
そう言って、そのまま泣き崩れたよ。内田が亡くなったことを伝えなきゃって、思ったんだろうな。おそらく、普段は内田という名前を使って犯行時には、佐々木という仮名を名乗ってたんだろうな」
高橋は、淡々と佐々木に関しての真実を話した。
「そんな……犯人が同級生だったなんて……。でも、お前は……高橋はどうして人を殺したんだよ⁉」
山本が悲しそうな顔で言った。
動機は十二年前まで遡る。
「俺には"芽依"という八歳離れた姉がいた。芽依は警察官だった。上司はここにいる警察官時代の伊藤、お前だ」
「いた?今は、いないのか?」
山本が疑問に思い、高橋に問いただした。
「伊藤が芽衣を殺したんだ」
高橋が怒りをあらわにする。
「お前、あの時の!」
伊藤は、何か今まで忘れかけていた記憶を思い出したかのように、目を丸くしていた。
「自分の口から真実を話すか?」
高橋の問いかけに、伊藤は何も応えなかった。
「芽依は、優しい姉だった。俺が唯一、気軽に自分のことを話せる女性は紛れもなく芽依だけだった。俺の姉は、強くて優しい警察官だった」
高橋の体は震えていた。
「まだその時、俺は中学生だった。
※
芽依はその日夜勤だったので、俺が学校から帰ってきてすぐ五時ごろに家を出た。最後に俺が芽依にかけた言葉は『いってらっしゃい』だった。
芽依は伊藤と同じサイバー犯罪対策課に勤めていた。普段はほとんどデスクワークが基本だと聞いていた。だが、その日は県内で大規模な誘拐事件があった。伊藤と芽衣は急遽、その現場の応援に行ったんだ。その犯人と年齢が近かった伊藤が、犯人との交渉役に選ばれた。部下だった芽依はその時、伊藤の援護に回ったんだ。しかし、犯人との交渉は失敗し、お互いが拳銃を出して睨み合う緊迫した状況になった。もちろん、伊藤は拳銃なんて撃ち慣れていない。犯人の挑発に、伊藤はたまらず犯人に向かって発砲した。その時に、犯人の近くにいた芽依の左肩に流れ弾が当たって、負傷したんだ。芽依は、すぐに救急車で病院に運ばれた。そのことを俺らが知ったのは夜の十二時ごろ、警察から家に電話がかかって来てからだ。
『娘さんが銃の流れ弾に当たって負傷しました!』
家族全員で急いで病院に向かった。俺が芽依の病室に入った瞬間だった。心停止したんだ。医師の賢明な処置も虚しく、芽依は逝った。俺たちの目の前で、芽衣は死んでいった。母はこれからどうすればいいのかが分からなくなり、遺書を残して自殺した。父は俺を一人残してどこかへ行ってしまった。
※
それから俺は"松田"という苗字を"高橋"に変えて、ずっと一人で生きてきた。このことを忘れるように」
誰もがこの事実に衝撃を受けた。警察でも幹部しか知らないような情報だった。
「十二年前、芽依を上司だったお前が……伊藤が……殺したんだ。警察からは、伊藤が拳銃を発砲してその弾が当たってしまったという事故だと聞いた。でも、そんなはずはない」
「あれは事故だった、改めて謝罪する」
伊藤はかなり焦りを見せていた。
「黙れ!それだけじゃない。伊藤は罪には問われずに、ただの懲戒免職。当時の警察やメディアも芽依の死を一切、報道しなかった。むしろ、この事件を隠蔽したんだ。今日ここで死ぬのは山本でも、娘の山本静香でもない。ここにいる奴ら全員と、メディアそのものだ」
高橋はテレビカメラに向かって、指を差しながら言った。
「驚いたよ、伊藤が家に訪ねてきた時には。その名前を聞いた時に、俺は確信したよ。今しか、チャンスはないと!」
それからしばらくして、佐々木が病死したことを知った高橋は、自分の名前を奪って嫌がらせをした佐々木が生きていると偽り、犯行を始めた。
「すべては伊藤をおびき寄せるための罠。なのに、せっかく茂木先生を芽依と同じ方法で殺したのに、伊藤は気づきもしなかった。のうのうと、テレビで目撃証言なんてしやがって」
「そんな理由で茂木先生を……」
山本が涙を浮かべながら言った。
「山本、俺を責めるか?俺をこうさせたのは佐々木の嫌がらせじゃない、現代の社会だ!『決めつけ』『思い込み』『嘘』『隠蔽』『いじめ』、そんなものが横行する世界はもう、うんざりなんだよ!」
高橋は涙ながらに訴えかけた。
「なぜ、山本静香を誘拐した?」
刑事の一人が叫んだ。
「もうすぐみんな死ぬんだ。教えてやる。山本静香は知ってはいけないことを知ってしまった。本当はあの時、殺すつもりだったが、伊藤を誘き寄せる餌として使わせてもらった」
「娘が何をしたっていうんだ!」
そう言って、山本はしばらく考え込んだ。
「まさか、あの山で……」
山本は何か心当たりがあるようだった。
「思い出したか。確か八年前だったか、林を殺す時に山本静香は俺の顔を見たんだよ。山本静香が成長してすべてを話す前に、こいつを上手く利用してやろうと思った」
山本の家族の話では、当時五歳の山本静香は家族と登山を楽しんでいた。その際に山本静香は、一時的に家族とはぐれてしまった。そこで山本静香は林と揉み合って林を崖から突き落とした高橋の姿を見た。当時、山本静香は親に言っても信じてもらえないと思い、誰にも相談しなかった。
「静香は生きているんだよな?」
山本が震える声で言った。
高橋は何も答えなかった。答えられなかったのかもしれない。
しばらく沈黙が続いた。高橋が突然、ズボンの右のポケットから銀色の装置を取り出した。中心に赤色のボタンが付いている。その手はどこか震えていた。
「高橋!その装置から手を離せ!」
伊藤と刑事たちが緊迫した声で言った。高橋は全く耳にしなかった。
そのまま高橋はゆっくり空を見上げて小さな声で言った。
「芽依、もうすぐそっちにいくからね」
そして、高橋は伊藤たちを嘲笑うように言う。
「もしかして、信じてました?僕のこと」
バン‼︎‼︎‼︎
誰かが銃を撃った。
『あの日の銃撃音は一生忘れない』




